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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



時の鐘。埼玉県川越市幸町15
1989(平成元)年9月18日

「鐘つき通り」から撮った時の鐘の鐘撞堂。今はなくなった電柱と電線が写っている。電線を地中に埋める工事は1991年12月の完成である。撮影当時は鐘つき通りという道路の愛称も付いていなかったと思う。
鐘撞堂の左は正面を看板建築にした家だが、今は蔵造りの前面に改装した「福呂屋」という和菓子屋で「鐘つき最中」などを売っている。明治8年創業の老舗の和菓子屋というが、「河越茶」や抹茶ラレなども売っているからかつては茶舗だったのかもしれない。
鐘撞堂の右は「明治牛乳川越中央販売所」とだんごの「田中屋」の二軒長屋。牛乳屋はつい最近まで営業していたようだが、今は「かのん」という「鐘つきたこせん」の店に替わった。『日本神話.com>時の鐘』は時の鐘についてその歴史を詳細に調べている。昭和52年の写真が載っていて、それではおもちゃ屋。
創業文久元年(1861年)の田中屋はだんご一筋で頑張っている。

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熊重酒店。埼玉県川越市幸町8。1989(平成元)年9月18日

一番街と鐘つき通りが交わる三叉路が「時の鐘入口」交差点で、その角にあるのが「熊重酒店」。建物は「滝島家住宅」として昭和56年に川越市指定有形文化財になった蔵造りの店舗に住居部分が付いたもの。
東武鉄道>時代旅行』によると、「明治28年(1895)〈11月〉に2代目滝島重蔵(たきじましげぞう)によって建てられた。店蔵は間口3間、奥行3間の2階建てで切妻造り」。屋根を構成する箱棟や鬼瓦とその内側に置かれる影盛(かげもり)がおとなしいので、それなりに重厚なのだが「派手さを抑えた落ち着いた造り」などと言われる。横の壁や窓の扉に銅板を貼っているのが他に見ない特徴だ。
現在も酒店として観光客に対しても相応の対応をして盛業のようである。



鐘つき通り。左:熊重酒店、川越市幸町8。右:近長、幸町6。1984(昭和59)年5月4日

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陶舗やまわ、宮岡刃物店
埼玉県川越市幸町7
1989(平成元)年9月18日

一番街に長喜院(ちょうきいん)の参道が入っている角にあるのが「陶舗やまわ」。隣の宮岡刃物店とともに「蔵造りの町並み」の中心になっている建物だ。大通りに向いた店舗の店蔵の裏、参道沿いに住居、土蔵(甘味処の「陶路子」など4棟がありそう)が並ぶ。蔵造りとしては入母屋屋根が変わっていると思ったが、川越ではマツザキスポーツ店などもあり、特に珍しいわけでもないらしい。
明治26年5月に建てられたとしているサイトがあったが、川越大火は明治26年(1893)3月17日。2・3ヵ月で建てられるものだろうか?「原家住宅」として昭和56年に市指定有形文化財になっている。『陶舗やまわ』には「現存する入母屋形式の土蔵造りとしては日本で最大級の規模です。5つの観音開きの窓を持ち、4段の厚く長い軒蛇腹の上に大きな千鳥破風が南面しています」とある。山本平兵衛という人が建てた呉服屋だった建物という。

「宮岡刃物店」もやまわと同様に重厚な蔵造りの店蔵だ。明治30年の建造なので、屋根などはやまわより一段高くと決めたのかもしれない。「宮岡家住宅」として昭和56年に市指定有形文化財になっている。創業は天保14年(1845)。屋号は「町屋(まちや)」で、通称が「まちかん(町勘)」だという。

追記(2022.11.05)
『川越の建物 蔵造り編』(仙波書房、2022年9月、税込2,200円)によると、陶舗やまわの建物は、1893(明治26)年に呉服商の足立屋山本平兵衛が建てたもの。1924(大正13)年の『川越案内』に広告が載っているので、昭和になってからと思うが、足立屋は撤退し、以降様々な業態の店が入ったらしい。1957(昭和32)年に現家主の先代が購入した。

「まちかん」では「お店でいただいた案内」の写真が載っているので以下に書き写してみた。
   鉄物砥石ノ部 
    町勘(マチカン)鉄刃物商
此ノ店、屋号ヲ町家(マチヤ)ト称シ、主人ヲ勘右衞門トイフ。抑々(ソモソモ)、明暦ノ頃ヨリ代々酒造業タリシガ、天保十四年、七代目町屋正兵衛ニ至リテ祖業ヲ廃シ、刃物店ヲ開業ス。当主常ニ刃物ノ吟味ニ精励シ、夜半枕頭ニ剃刀(カミソリ)ヲ合ワセルコト久シ、終ニ積年苦心ノ末刃物ノ奥義ヲ悟ル。爾来数年ヲ経ザルニ、販売スルトコロノ刃物、古今無双ノ切レ味ヲ以テ天下ニ相顕レ、即チ刃物百般ノ信ヲ得タリ。過ル明治二十六年、未曾有ノ大火ヲ蒙ルト雖ヘドモ、忽チ漆黒ノ土蔵造リヲ新築ナシ旧ニ倍スル隆盛ノ店トハナレリ。本店ハ
  川越南町西側ニアリテ
大宮・浦和・三河島ニ支店ヲ設ケ、現時川越町ニ名高キ刃物店トイフベシ。


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深善美術表具店。埼玉県川越市幸町7。1984(昭和59)年5月4日

「フカゼン」の看板の店、ということで印象的な建物であり、一番街とかねつき通りの交差点という位置にあるので、川越観光に来た人が見ずにすませるのは不可能である。
建物は明治28年に建てられ、「小谷野家住宅」の名称で、昭和56年12月に市指定有形文化財になった。店蔵としては2階の開放的な窓が特徴。普通は壁を厚くして、そこに小さな金庫の扉のような観音開きの窓を設けるのだが、防火を犠牲にしても明るい部屋を求めたということだろう。建物の両端に付けたうだつはそれを補うためという。太物の卸問屋「山仁商店」を営む高山仁兵衛という人が建てた建物。
小谷野(こやの)家に替わったのはいつの頃なのだろう。「フカゼン」は「深屋善兵衛」に由来する。1738(元文3)年創業の掛軸と額縁を製造販売する店。
今も1階庇の上の横長の看板は写真のものが置かれているが、その上に張り出していた「FUKAZEN &Co.」の袖看板がなくなっておとなしい構えになった。



深善美術表具店。1984(昭和59)年5月4日

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冨士屋。埼玉県川越市幸町7。1989(平成元)年9月18日

甘味処の冨士屋から一番街を北向きに撮った家並み。「鳴海印刷」の看板の右が「蔵造り資料館」。
冨士屋の看板には「自慢焼 中華そば、小倉アイス」が読める。自慢焼きというのは今川焼のこと。現在は寺子屋グループの「茶和々」という抹茶スイーツの店に替わった。その店のオープンは2014年9月だが、その直前まで富士屋は続いて来たらしい。
冨士屋の右は仕舞屋のようだが、今は「菓匠芋乃蔵」という和菓子店が2010年6月に開店した。その右に幅2間くらいの平屋の家があって、それが「鳴海印刷」。今は2012年1月に開店した「荒井武平(ぶへい)商店」という自社で醸造した味噌を売る店になっている。



銀パリ、太陽堂書店、冨士屋。川越市幸町7。1984(昭和59)年5月4日

理髪店の銀パリと太陽堂書店が入るのは、川越市指定有形文化財(1981年指定)の「平岩・水飼家住宅」。明治26年に建った「蔵造りの意匠を施した町家建築」。「正木屋」の屋号で「糸繭製茶煙草問屋」の家だったという。糸繭・製茶・煙草と切るのだろうか、地元の作物を加工するような業務を営んでいたと想像できる。
太陽堂は今は和装小物店のような店頭になっているが、創業昭和10年(1933年)の書店であると貼紙がしてある。銀パリは昭和41年に開業したというから、こちらもすでに老舗だ。

追記(2022.10.30)
銀パリと太陽堂の前面は大きな日よけのテントと窓が2つの垂直な壁で、本来の蔵造りの外観を隠している。冨士屋も同様だ。『川越の建物 蔵造り編』(仙波書房、2022年9月、税込2,200円)によると、昭和30年代に入ると、蔵造りの外観は古くさくてよくない、というイメージが一般に広がり、蔵造りの建物の前面を改装して最近建ったかのように見せることが行われた。太陽堂は1階庇の上に増築して、看板建築風に改造した。昭和31・32年頃のようだ。元に戻す改修工事をしたのが1986(昭和61)年。その際、2階の格子窓は通りがよく見えるように横長のガラス窓に変更した。現在は本屋とは見えない店先だが、川越に関する本棚が充実しているという。
本書によれば、銀パリは1963(昭和38)年の開業。

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蔵造り資料館。埼玉県川越市幸町7。1989(平成元)年9月18日

1893(明治26)年の川越大火の後に建てられた蔵造りの商家。店舗を蔵造りにした「店蔵」と呼ぶものだ。当時「万文(まんぶん)」の屋号で煙草卸商をしていた四代目の小山文造が建てた。万文は川越でも有数の豪商だったという。刻み煙草の製造販売、「天狗煙草」の販売などをしていたが、明治37年に煙草が専売制になり、煙草問屋に転じる。それがいつまで続いたのか、『川越市蔵造り資料館』ではよく判らない。
建物は『旅に行き隊!>川越市蔵造り資料館について』によると、通りに面して店蔵と袖蔵があり、その裏に2階建ての住居と一番蔵(文庫蔵)、さらに奥に二番蔵(煙草蔵)と三番蔵(文庫蔵)という構成。袖蔵は貸店舗だったかもしれないともいう。川越大火は明治26年(1893)3月17日だったが、資料館は早くも同年12月には完成した。なお大火の火元は資料館から北西に百メートルのところだった。

現在の一番街が観光地として賑わうようになった大元が資料館の開館といっていい。資料館に人が来るようになったというのではなく、蔵造りの町並みが見直されるようになる契機になったということだ。
高度経済成長は経済活動の改革でもあり、成長どころか衰退していった町も多いと思う。交通の中心が鉄道になるとともに、駅から遠い一番街は衰退が始まったかと思うが、流通の形態が変わってくると、明治期の商売ではなりたたない。個人客相手の商売に替わろうとしても人が来ない。1970年代になると一番街はだいぶ寂しくなってしまったようだ。
1971年(昭和46年)に小山家の屋敷は民間企業の不動産部が所有して競売に出された。このままでは蔵造りの町並みの一角が崩れてしまうわけで、商店街や地元の住民が動いた結果、1972年に川越市が買い取ることになり、後に資料館として整備された。開館は1977(昭和52)年10月。

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湯宮釣具店。埼玉県川越市元町1-1
1989(平成元)年9月18日

本町通り―初雁城通りと県道51号が交差するのが市役所前交差点。その南西角といっていいところにある、今は「手打ちそば百丈」の建物。
『首都圏 名建築に逢う』(東京新聞編集局編・著、2008年、東京新聞出版局、1429円)によると、釣具店では成り立たなくなって、はんこ屋に転向するも1997年頃に建物は売りに出された。百丈が開店したのは1998年。店主の友人が買い取ったのを貸してくれたという。その際、傷んでいた建物を修復して内部を改装したのでだいぶ費用が掛かったという。
『日本近代建築総覧』に「湯宮つり具店、建築年=昭和7年、木造3階建、外壁は銅板貼」で載っている。1999(平成11)年10月に国の有形文化財に登録された。
国指定DB>手打ちそば百丈(旧湯宮釣具店)』の解説文には「木造3階建て店舗併用住宅で、昭和初期建設の看板建築である。銅板貼りの壁面は破目地で、隅部を柱型風とし、各階の境に軒蛇腹を廻す。2階正面のエジプト風半円付柱、それぞれ意匠を変えたペジメント風の庇など、多彩な様式細部を巧みにまとめている」とある。
建築再生事例集>手打ちそば百丈』では「1930(昭和5)に湯宮釣具店として建設された」としていて、これが信頼性がありそうである。「半円柱のエジプト風付柱」の上部は「しゅろの葉の模様」だそうだ。

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居酒屋ひこ七。埼玉県川越市元町2-2。1989(平成元)年9月18日

一番街商店街(蔵造りの町並み)の、札の辻交差点の近くにあった洋風の家。写真右の家は「急式シート商会」で、現在は1階が「彩菓庵おおき」という芋菓子の店になっている。ひこ七との間に引っ込んで建っているのは「川越元町郵便局」。急式シート商会の右は札の辻交差点の角に「藤井屋呉服店」という看板建築(戦後の改装と思われる)の店があった。
2011年頃らしいが、藤井屋から写真左の空き地まで、急式シート商会の建物を除いて3軒の伝統的な町家建築に建て替えられた。藤井屋は「長峰園」(狭山茶)に替わったが、建物は建て替えたのではなく、元の姿に改装したものらしい。郵便局は蔵造り風の建物になった。明治期の町並みを復活させた、ということだろう。
郵便局の旧建物は『丸ポスト写真館>No.141』で見ることができる。

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大沢家住宅。埼玉県川越市元町1-15。1984(昭和59)年5月4日

一番街商店街(蔵造りの町並み)の札の辻交差点の近くにある蔵造りの家。川越の蔵造り商家というと、黒い壁と重々しい瓦屋根、金庫の扉のような観音開きの窓、というのを連想するわけだが、大沢家住宅はちょっと蔵造りには見えない。造られた年代が関係しているらしい。
『ウィキペディア』によると、「寛政4年(1792年)に近江国出身で呉服太物の近江屋を営んでいた豪商・西村半右衛門が建てた蔵造りの店舗建築」で「明治26年(1893年)の川越大火の焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造り」である。
一番街に並ぶ蔵造りの家は、明治26年の川越大火の後に、「小松屋」(大沢家)が焼けなかったのでそれに倣って蔵造りで建てたものだ。つまり大沢家住宅は川越では最重要な商家の建物といっていい。
建物の構造は「間口6間、奥行4間半。切妻造り平入り、桟瓦葺き。川越の重厚な蔵造りの中ではシンプルな町屋形式。総欅作りだが前面の人見の柱のみ松になっている(客を待つの意味)。1階の前面は下屋庇を出し、格子戸や土戸があり土間には防火用の用心戸まで備える。2階の前面は漆喰で塗り固めた土格子(どごうし)を一番外側に、漆喰戸、木戸、障子と三重の窓になっている」。
また「昭和46年(1971年)に国の重要文化財の指定を受け、また、平成元年(1989年)より5年間を費やし大規模な修理が行なわれ、創建当時の姿に甦った」ということだ。上の写真は復元工事をする前の姿。

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長島家住宅。埼玉県川越市元町1-15。1989(平成元)年9月18日

「蔵造りの町並み」の札の辻交差点のすぐ南で、写真左の棟のガラス戸には「近江物産」の文字が読める(上の写真では黒くつぶれている)。現在は「紋蔵庵(もんぞうあん)」という和菓子店の「蔵の街店」が使っている。
カワゴエール>川越文化財: 長島家住宅』によると、2棟を合体させて防火の効果を上げた蔵造りの建物、という。「左側(北側)の建物は、明治30年代の建築と思われ、元々店舗兼住居。右側(南側)は、大正時代に左側の蔵造り建築に合せて建てられて物で、1階は大正の趣を残す洋風建築となっています。中央の通路は馬出土間で、建物を突っ切り建物裏へと続いています」ということで、右の棟の洋風の造りは後の改装かと思ったが、最初からそのように造ったものらしい。
「市指定有形文化財(建造物)昭和63年6月6日指定」とあるのだが、川越市のHPの一覧表には見当たらない。「創作ちりめん布遊舎」だった頃のストリートビューを見ると、右の棟に「川越市指定文化財/長島家 幸すし乾蔵」という看板が下がっている。「幸すし乾蔵」の由来が気になる。

追記(2022.10.25)
『川越の建物 蔵造り編』(仙波書房、2022年9月、税込2,200円)によると、写真左の「明治蔵」と右の「大正蔵」は、「近常酒造」の建物だった。近常酒造は「近江屋」岡常吉が明治時代初期に始めた酒造会社で、銘柄は「常盤正宗」。2棟の蔵の後に広い「川越南町第一工場」があった。事業は好調で、1924(大正13)年には「観音下」(三光町)に「川越観音下第二工場」を建てる。戦時になって米の入手が困難になると質を落として製造を続けるも、戦後も立ち直ることなく廃業したらしい。

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