ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




川崎商店。台東区谷中1-1。1988(昭和63)年8月5日

言問通りの善光寺坂の中間あたり。古い商店が3軒並んでいた。中央の看板建築にしているのが雑貨・タバコの川崎商店。その右の家は下の写真では「表具店」の看板を出している。この2軒は長屋形式の1棟の建物だ。現在は小さなマンションに替わった。




上:川崎商店、坂田表具店
1990(平成2)年5月6日

左:川崎商店隣の民家
1991(平成3)年9月23日

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天眼寺裏の井戸。台東区池之端4-25。1990(平成2)年9月16日

言問通りの善光寺坂の下に天眼寺がある。言問通り沿いは商店などが並んでいて寺はその裏にあるが、山門は言問通りに向いていて、山門の西隣は森田電気店。写真の井戸は天眼寺の裏の、言問通りと平行している路地にある2本の井戸。路地の好きな人は皆このあたりには入り込んでくるようで、ここの井戸もかなり知られていると思う。
左写真の井戸は路地から引っ込んだところにある民家の前にある。右写真の井戸は路地のまん中にあり、そこを通っていくにはほとんど井戸をまたいでいく気分になる。



最近の様子。2007(平成19)年12月1日

写真右奥の塀の中が天眼寺。右手前の民家が取り壊されている。金網のフェンスをすかして1段目左写真の井戸が写っている。1段目右写真の井戸は路地の奥で道幅が狭まる手前に写っているのだが、遠くてよく判らない。
『井戸人』出張所御厩長屋の二つ井戸』で角度を変えた何枚もの写真が見られる。

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山田屋文具店。台東区谷中1-2。1988(昭和63)年8月5日

言問通りの根津銀座商店街を抜けて台東区谷中に入る交差点から東のほうを見ている。善光寺坂の上り口になる。右手に入っている道はかつての藍染川の流路で、文京区と台東区の境だ。
角の山田屋文具店は現在、ビルに建て替わった。



三代目新ふじ。1989(平成1)年2月26日

1枚目の写真の家並みを横から見ている。店は右から、山田屋文具店、三代目新ふじ(そば)、武田屋、松露鮨、野島青果、森田電気店。
現在、新ふじが正面をきれいにして古い建物のままで商売を続けている。森田電気店の建物は建て替わった。その間の家は取り壊されたまま駐車場になっているようだ。


森田電気店
1987(昭和62)年4月18日

この建物は看板建築としては間口が広いし、なんといっても2階の唐破風の庇が独特で目立っていた。『都市徘徊blog>森田電気店』によると、2003年11月に解体されている。

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丁子屋支店。台東区池之端4-13。1990(平成2)年2月18日(3枚とも)

言問通りの善光寺坂を降りて南へ入ったあたり。旧町名は清水町。上野の台地と旧藍染川の間の低地で、住宅地である。上の写真はよく見かける看板建築の商店長屋。トタン貼りのようだが銅板貼りだったのを改装したのかもしれない。
手前角の家はガラス戸に「染物洗張 丁字屋支店」と読める。根津2丁目の藍染大通りの間近にある丁字屋の支店らしい。根津の丁字屋の前の道路は昔、藍染川が流れていたことは割りと知られている。写真左の長屋の横に沿った細い道は文京区との境で丁字屋本店前の道路と同じ道筋である。



六龍鉱泉という銭湯の近くにあった。庭付きの3軒長屋で別個に門と玄関前の庇を備えている。現在は低層のマンションに換わった。池之端4-5



民家。現在は改築された。池之端4-9

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下谷郵政クラブ忍ヶ丘荘。台東区池之端4-17。1989(平成1)年3月12日

言問通りの善光寺坂の南にある三段坂の中ほどで、写真中央の平屋の民家とその左の下見板の家は今も残っている。この2軒はたぶん同じお宅だと思う。写真右の「下谷郵政クラブ忍ヶ岡荘」は、その名前からは郵政省の寮のようなきがする。
下の写真で洋館部分の奥にあるモルタル壁の2階家部分は戦後のものらしいから、古い民家に左の部分を増築して寮として整備したのかもしれない。



1990(平成2)年2月18日

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三段坂の民家。台東区池之端4-22。1984(昭和59)年10月

三段坂の割りと下のほう。当ブログ前回の「三段坂の屋敷」の斜向かいになる。現在、三段坂沿いにあった古い家はすっかり減ってしまって3軒くらいしか残っていないが写真左の家がその1軒だ。写真右の石垣のところは駐車場に変わったが角の石垣とその上の1本の木が残されていて、かつての屋敷の遺構になっている。



1989(平成1)年3月12日

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屋敷。台東区池之端4-16。1989(昭和63)年8月5日

上野動物園の裏手の水月ホテルや旧忍旅館の前の道路を北へ行くと、車は山中旅館のところで東へ曲がらなければならない。写真はそこを曲がったところで、上野桜木1丁目へ向かう坂道だ。かつては坂道の両側に写真のようなお屋敷が並んでいたようだ。現在ではそのほとんどが建て変わって両側ともマンションが立ち並んでいる。
旧町名の「谷中清水町」でネット検索して、この坂道は「三段坂」と名づけられていると知った。戦後の命名だという。坂道表示の杭は昭和59年の設置。三段坂を取り上げたサイトで説明文が引用されている『台東区史』は、1955(昭和30)年と1966(昭和41年)年発行のものがあるようだが、1950年代には名前がつけられていたと考えてよさそうだ。



1990(平成2)年2月18日

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新光でんき。台東区東上野6-9。1988(昭和63)年5月1日

東上野6丁目は清洲橋通りの東、浅草通りの北。写真の家並みは東上野5丁目の上野下アパートの北にある竜谷寺という寺の向かい側である。旧町名だと浅草北清島町。当ブログのカテゴリーでは「浅草」に分類すべき場所だが現町名が東上野だから「上野・谷中」に入れた。
東上野6丁目の2・3・8・9・11・12番地と10番地の南側は空襲による焼失を免れたようだ。恐らくここを境に隅田川を越えた荒川の辺りまで一面の焼け野原になったのだろう。よく見ると今でも戦前の建築と思われる木造の家が見つかる。
写真左端が交差点角の野中ビルという5階建てのビル。その隣から親光でんき、ビューティショップ(クリーニング)、民家、民家、喫茶ピッコロ、松楽(居酒屋だと思うのだが「大盛大サービス/煮込みとライス/ドカベン○○」の看板)。
現在は清洲橋通りに沿っては、2002年2月に竣工した「住友不動産上野ビル8号館」というビルになった。9番地のほぼ3分の2を占める。



三共バーナー。1991(平成3)年6月30日

清洲橋通りから野中ビルの角を東へ入ったところ。住宅地図では右から、吉沢事務所、三共バーナー、車庫。

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浄名院横の民家。台東区上野桜木2-8。1991(平成3)年9月23日(写真の日付はカメラのセットミス)

浄名院(じょうみょういん)は言問通りの谷中霊園への入口の脇にある寺。地蔵が4万体くらい並べてあることで有名な寺だ。ぼくはいまだに境内へ踏み込んだことがない。
写真の民家は浄名院の西側の塀に沿った道路にあった民家。
上野公園のすぐ裏にこれだけの家を建てるのは今ならすごいことだが、古い航空写真を見ると、周辺では標準的なものだったようだ。


民家
1990(平成2)年2月18日

どこで撮った写真か分からなくなっていたが、裾を石張りにした塀は1枚目の写真の塀と同じだ。それなら同じ家かといったんは安心したのだが、その家は道路に面する角はひとつだけのはずだ。塀もよく見るとモルタルと石の割合が少し異なるようだ。というわけで、再びどこの家だか分からなくなった。上野桜木2丁目だとは思うのだが……。


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玉子屋隣の民家
台東区上野桜木2-10
1989(平成1)3月12日

言問通りの上野桜木交差点付近の家並み。上の写真左の玉子屋の左が下町風俗資料館敷設展示場である。旧吉田屋酒店の建物を移築してきたもので、開館は1987(昭和62)年5月。1986年発行の住宅地図には「阪本務店(阪本工務店?)資材置場」と記されている。
玉子屋は肉店だろうか。写真中央の間口の広い家は商売をたたんだ民家らしい。この家の屋根の稜線に並べられている棘のような瓦が変わっている。写真右は金子商店。

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