ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




旧山本肉店。台東区谷中5-1。1990(平成2)年2月18日

初音の道が三崎坂の通りに出る手前の街並み。かつては商店か職人の職場だったと思われる古い家が並んでいる。下の写真が現状で、ほとんど変わっていない。写真右の家は下の写真では壁などが改装されて「間間間(さんけんま)」というコミュニティスペースになっている。「ルーツ尺八」とは尺八によるセッションだそうだ。「さんけんま」とは3間(けん)幅の間(ま)ということだが「間間間」の字を当てるのはかなり苦しい。大正8年築の家だという。小倉屋の江戸期といい、関東大震災に耐えた家が普通に残っているような道なのだろうか。
次の家が昭和40年代の地図に「山本肉店」となっている家で、外観は肉屋には見えないから住宅に改装したのかもしれない。



近影。2007(平成19)年10月18日

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すぺーす小倉屋。台東区谷中7-6。2007(平成19)年12月1日

初音の道にある「すぺーす小倉屋」は質屋だった建物をそのまま使ったギャラリーである。1993(平成5)年に建物の持ち主が古い建物を使いながら維持する目的で開業したらしい。オーナーのご母堂が絵を描く人で、その作品を人に見せたいということもあったようだ。
店舗だった家屋は1847年、江戸末期の建築。3階建ての蔵は1916(大正5)年の建築で、黒漆喰の壁だったものを25年前に損傷防止のためトタンで覆ったという。2002年に国の有形文化財に登録された。
質屋の小倉屋は1940(昭和15)年頃まで続く。戦後は他の質屋に貸し出して1970(昭和45)年頃まで使われていた。店名は鍵屋といった。
小倉屋の北隣は功徳林寺(くとくりんじorくどくりんじ)という寺。境内に笠森稲荷(かさもりいなり)の旧跡である祠(ほこら)があるそうだ。江戸期明和の頃(1760年代)「笠森お仙」のいた茶屋が評判になった。その「おせんの茶屋」つまり鍵屋があったとされる場所だ。



左:すぺーす小倉屋。2000(平成12)年5月3日。右:民家と赤塚べっ甲店。1989(平成1)年3月12日

2000年に撮った写真ではすぺーす小倉屋の塀は板塀だ。小倉屋の隣は看板建築の商家だった家で、その隣に赤塚べっ甲店。看板には「東京都伝統工芸指定江戸鼈甲」。耳かきが千円くらいだというから手頃かもしれない。

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吉川錻力店。台東区谷中5-11。2007(平成19)年12月1日

日暮里駅の北を通る御殿坂の頂上辺りから南へ、朝倉彫塑館の前を通る道へ入ってすぐのところである。この道は南への一方交通の狭い道だが三崎坂や言問通りのほうへ抜ける車がけっこう通る。いつのまにか「初音の道」という名称が付いたようなのでぼくも使うことにする。写真のように古い木造の日本家屋が4棟並んで残っていて、いつもカメラを向けるおじさんを見かける場所だ。
撮影時では変わっているかもしれないが1986年住宅地図では、写真手前から、田中精機、吉川錻力(ブリキ)店、大沢銅壷店(銅菊)、内藤製作所。吉川錻力店の横の路地は入ったことはないが七面坂へ抜けられるらしい。
吉川錻力店の家は右半分が改装されて1990年頃には「税理士・行政書士・吉川健二事務所」にしていたが今は移転したようである。普通はブリキ屋といっていたらしい。ブリキなどで屋根や壁を貼ったり雨どいを取り付けるような仕事かと思うが、なにか生活用具なども作っていたのかもしれない。



銅菊。1989(平成1)年3月12日

銅壷(どうこ)とは長火鉢の中に置く湯沸かし器で、郷土博物館などでお目にかかる。銅壷屋とは銅板を加工してやかんなどの生活用具を作る商売というか職人だ。四角いフライパンみたな卵焼き器なんかは銅板のものを見かける。平成初年頃にはまだ仕事をしていたと思うが今はやっていないらしい。飾り窓の展示もやめてしまっている。『東京路上細見3』(酒井不二雄著、平凡社、1988年)に「玄関と格子窓の間には飾窓がある。周囲の枠には千社札がたくさん貼られている。中には、こまごまといろいろなものが飾られ、銅製のヤカンや鍋、まとい、銅板製の象の模型が並ぶなかに、「手仕事の有難さ 銅菊の鍋の味 永六輔」と書かれた色紙が貼ってある。」と記されている。この文章に添える写真を撮っておかなかったのが残念だ。

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とうかい(レストランとコーヒー)
台東区上野2-14。2007年3月2日

京成上野駅から池之端口を出ると目の前に写真のレトロといっていいレストランがある。写真の街並みの裏は不忍池。とうかい(東海)の左は蓬菜閣(北京料理)、右はホテル観月荘。とうかいの建物も古そうだが問題なのはその奥に見えている妙な建物である。顔のように見えてなんとなくおかしい。蔵のようにも見えるが4階建てらしい。気になって5年くらい前から何枚か写真を撮っているが、すぐ取り出せたのが掲載したもの。公園の立ち木が邪魔で、いい写真ではないが後ろの建物が分かればいいので撮りなおしにいくこともないだろう。
モノクロ写真のほうは『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年)から引用した。原典は『建築の東京』(1935(昭和10)年刊)である。当書のキャプションには「菓子舗空也●(建物撤去)、竣工年:昭和3年、設計者:志村太七、住所:台東区上野2-14/和菓子の老舗のひとつ。切妻屋根と洋風の壁の模様の対比に妙。」とある。
両者は住所が同じだし、同じ建物とみなしていいと思う。「空也もなか」なら食べたことはないが聞いたことはある。『空也』によると、銀座にある有名な和菓子の老舗で、「明治17年、上野池の端に創業、戦災で焼失後昭和24年に銀座並木通りに移りはや半世紀」とある。消失した店が写真の建物かどうかは分からないが、復元したとも思えないから、鉄筋コンクリート造だったため(勿論推定)焼け落ちなかったのかもしれない。

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南條時計店。台東区立黒門小学校。台東区上野1-6。1989(平成1)年頃

前の通りは昌平橋通りで、その向かいは湯島3丁目で文京区、少し右へ行くとすぐ外神田6丁目になって千代田区になってしまう。写真左端の地下鉄出入り口は千代田線の湯島駅の6番出口。
同じ正面の意匠の2軒長屋と5軒長屋の店舗が路地をはさんで並んでいる。地下鉄出入り口のところも元は長屋で3軒長屋だったのかもしれない。建物は標準的な看板建築だが、各戸ごとに建物上部に西洋の紋章のようなのや商標のレリーフを置いているのが特徴。
店は左から、川中島(さぬきうどん)、東幸飯店(中華料理)、南條時計店、内外工事、篠塚硝子店、仕舞屋、旧高橋理髪店。
東京あるけあるけ』というブログでもこの長屋を取り上げていて(『湯島の看板建築長屋(2010.04.03』))、きさまのさ氏は路地の奥に入り込んで、そこに井戸を発見している。



近影。2005(平成17)年4月1日

5年前の写真だが現在もほぼこのままである。川中島うどん店はそのままで、東幸飯店が焼き鳥の川中島になっている。5軒長屋のほうは全ての店が閉店してしまったようだ。右端の床屋だった店は住居として改装している。

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台東区立黒門小学校。台東区上野1-16。1988(昭和63)年頃

黒門小学校は昭和初年に建った校舎をいまだに使い、学校名も変わっていないという貴重な小学校だ。建物は昭和5年7月の竣工、設計=東京市、施工=日本土木建築株式会社。外観は全体としては水平の線が強調されたインターナショナルに見える。校庭を取り囲むコの字形の平面で、北側と西側に教室が並ぶ。その教室の外側の3階の窓は放物線のアーチ窓が並んでいる。外側が廊下で、窓をすきにデザインできたのだろう。また、階段室の上部の窓も同じアーチ窓。表現派風のデザインが取り入れられたようだ。




上:北側の正面
左:東側には体育館がある

黒門小学校は1904(明治37)年5月に開校した東京市仲徒尋常小学校が元になったが、東京市黒門尋常小学校と称したのは1910(明治43)年11月。今年の2010年は創立100周年で、記念行事が行われた。

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宝扇堂タバコ店、アサクラ喫茶店、すずめ化粧品店。台東区上野1-15。1990(平成2)年7月22日

昌平橋通りから、春日通りとの天神下交差点の南にある交差点を東に入ったところ。黒門小学校の北の通りで、この通りの北側は文京区が出っ張っていて湯島3丁目である。
写真右端の空き地は昌平橋通りに面した角地で、秋田相互銀行東京支店があった。
現在はすずめ化粧品店が取り壊されて空き地になっているが、他の仕舞屋を含めた3軒の家は健在だ。2003年に撮った写真ではアサクラは「コーヒーとカレーの店」のテントはそのままだが赤提灯を下げている。居酒屋になっていたらしい。
この辺りは湯島天神下に含めていいかもしれない。天神下は戦前は花街だったという。「宝扇堂」は住宅地図にあった名前だが、なんとなく以前は芸妓さん相手の商売だったのでは、と思わせる店名だ。

左:アサクラ。1988(昭和63)年頃。右:カメヤ質店。上野1-12。1988(昭和63)年頃

カメヤ質店は黒門小学校の南の通りにあった。袖看板を建物の中央に置いているのは珍しいかもしれない。建物はビルの立ち並ぶ中に今も残っている。しかし建物というハードウェアだけを見てもあまり惹きつけられるものはない。質屋という店があって、「看板建築の質屋さんか。他では見かけたことがないな」となる。

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四軒長屋。台東区谷中2-4。1988(昭和63)年11月3日

あかぢ坂下にある四軒長屋。写真左の白いトタン張りの壁を見ると五軒長屋の端を取り壊したようにも見えるが、その駐車場になっている場所には別の家が建っていたようだ。長屋の右に2階建ての家があるが、建て替わる前は山崎ゴム商会の出桁造りの大きな家だった。現在、長屋の右の2軒が取り壊されて二軒長屋になってしまい、横側の白いトタンの壁には錆が浮き出して茶色に変色している。
この長屋は桐谷逸夫・エリザベス夫妻が住む長屋として有名だった。手元に『東京いま・むかし』(日貿出版社、平成8年)という夫妻共著の画集がある。この本にはぼくが写真に撮っている家が数多く載っていてうれしくなる。ぼくは写真を撮るのにほんの数秒しかかからない。撮った家をろくに見ることもしないで次へ移動してしまう。その点、スケッチであっても場所を選び、対象にじっくりと向き合って描く絵はその場所の雰囲気までが写し取られている。実際以上に強調される家の傾きなどは当然写真では表現できない。



1989(平成1)年3月12日

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平屋の民家。台東区谷中2-3。1989(平成1)年9月10日

藍染大通りと藍染川の流路だった区境の通りとの交差点の角に建つ民家。現在は屋根が赤く塗りなおされている。建物の角にショーウインドがあって、商店だった家だ。軒が低いので屋根が見やすい。昔は瓦屋根だったのだろうが、そうすると屋根の重さで押しつぶされたように見えるのではないだろうか。この家を上から見ると、つまり航空写真で見ると意外と建坪が大きい。写真左の朔日会美術研究所のビルよりも大きいのである。
『不思議の町 根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、1997年)によると、この場所はあかぢ坂下になり、川には「旭橋・不明(あかづ)門橋」が架かっていた。



鉢植えの草木はやたら増やさないのがこの家の方針のようだ。1990(平成2)年9月16日

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丁子屋向かいの民家。台東区谷中2-3。1989(平成1)年2月26日

藍染大通りのすぐそばにある染物屋の丁子屋は有名なので場所の目印にさせてもらった。その向かいに2軒の庭付きのわりと大きな民家があった。現在は南側にあった民家が取り壊されて駐車場になっている。
上の写真は現存するほうだが、2階は大広間かと思うような6枚のガラス障子や1階玄関脇の丸窓など、戦前の住宅のひとつの例として貴重だ。2階のガラス障子の内側はたぶん廊下のようになっていて、座敷とは襖で仕切られているのではないだろうか。



1枚目の家を南側から撮影したもの。1990(平成2)年5月6日



1枚目の写真の右手に写っている家。1990(平成2)年9月16日

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