goo blog サービス終了のお知らせ 
ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





御船橋。江東区佐賀1・永代1-福住1
上:1991(平成3)年11月11日
左:2002(平成14)年12月30日

北の仙台堀川と南の大横川を結んでいるのが大島川西支川。大島川は江戸時代初期に開拓されてできた大島町(おおしまちょう)にちなむらしい。現在の永代2丁目になる。
1964(昭和39)年に大横川に組み入れられた。本流の名前はなくなったが支流の名前で残っているわけだ。
御船橋(みふねばし)は大島川西支川に架かる橋で、永代通りを渡している福島橋のひとつ上流(北)に架かっている。昭和3(1928)年3月に竣工した震災復興橋。「3径間鋼製ガーダー橋」という形式で、長さ25.8m、幅11.6m。
親柱がなんと言っていいか困ってしまうが、ごつい感じで独特である。欄干の、上部に模様を入れた薄い鉄板の柱と対応しているようにも思える。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





左:かな萬、上:みちくさ
葛飾区金町6-6。2005(平成17)年3月20日

水戸街道から京成金町線に沿って金町駅南口へ入っていく道路がある。その交差点の一つ東に、再開発によってやはり金町駅南口への連絡道路ができた。かつては東北角に千葉銀行金町支店があった信号のある交差点だ。写真の路地は連絡道路ができる前にあった狭い道だ。水戸街道から入るとほぼ真北へ行って、「ベルシティかなまち」の商店街、二葉会館があった角に出た。
左写真の家は住宅に改装されているが、庇の代わりになるからだろう、日除けが残されている。そこの文字をなんとか「丸宮かな萬金町店」と読んでみた。換気扇の煙突があるので料理店だったかと思う。同じ写真で右奥の端にかろうじて写っている袖看板が、右写真の家の看板である。
右写真の家は二軒長屋のようだ。建物中央に「みちくさ」と書かれた街灯と小さいショーウインドーがあり、お好焼/もんじゃ焼の字が読める。右側の簡素なドアが入口だろうか。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )





太陽堂書店。葛飾区金町6-2。2003(平成15)年12月14日

国道6号(水戸街道)から京成金町線に沿って金町駅南口へ入っていく道路(区道356線)沿いにあった家並み。現在は再開発によって、「ヴィナシス金町」という41階建ての高層マンションとその下層階にスーパー・商店・医院・中央図書館などを収めた複合施設ができた。2006年11月から工事が始まり2009年6月に完成している。
写真の「太陽堂書店」と隣の「八幡苑」(お茶と海苔)はヴィナシス金町の、同じ通り沿いの1階に無事に収まっている。太陽堂書店は昭和16年の創業。八幡苑は店舗からするとそれ以上の老舗に見えるが昭和25年の創業という。今はスイーツに力を入れている。
写真の通り沿いに1949(昭和24)年に「商盛会」という商店街の組合が出来た。「すずらん会」が組織されるよりも7年も早い。
2017年9月に「金町南口商店会連合会」が発足した。連合会には「金町商盛会、ヴィナシス金町ブライトコート商店会、協同組合金町すずらん会、金町大通り商店会」が属している。ということは、商盛会は今も続いているが、今後の活動は連合会が中心に行われる、ということらしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





左:ゆかり接骨院、右:よしだ整体院。葛飾区金町6-8。2019(令和元)年6月27日

JR金町駅南口から国道6号(水戸街道)の間に広がる商店街を「ベルシティかなまち」という。以前は「すずらん通り(すずらん商店会)」と言っていた。すずらん会が発足したのは1956(昭和31)年。当時は駅の南側に住宅地が広がり人口も多いのに比べて、北口は「大東紡績金町工場(金町モスリン工場)」と農地が目立ったくらいだったのかもしれない。金町駅は南口しか改札口がなかった。
従ってすずらん商店会は繁盛してきたのだが、しだいに北口も市街化が進み、1967(昭和42)年に金町駅北口が開設、1968年に金町駅前団地が建設され、北口の商店街も発展してくると南口の商店街は衰退してくる。その対策として1980(昭和55)年に商店街のメインストリートにアーケードをかけ、駅前の入り口に「BELL-CITY」と書いたアーチの看板ゲートを作った。入り口から入ると、通りは南から東へ向きを変えて国道6号に出て終わる。ベルシティと改称したのはこの時だろう。しかし残念ながら効果はほとんどなかったようだ。
現在は金町6-2の再開発により、2009年6月に「ヴィナシス金町」という高層マンションが建ち、ベルシティ商店街は半分がなくなった。ヴィナシスとベルシティの間には広い道路が通されたから完全に分断されたと言っていい。最近までベルシティの通りにあった「ベルシティかなまち/Bell City Kanamachi」の街灯は撤去された。すずらん商店会は解散したのだろうか。



左:金町眼鏡店、右:太陽堂整骨院。金町6-9。2019(令和元)年6月27日

空襲にはあっていないが、ベルシティに残る古い店舗に戦前築と思われる建物はみかけない。昭和30年代にはこの商店街は繁盛していたというから、その利益で競って建て替えてしまったのだろうか。駅前広場の東、金町6-11にある古い庭付き1戸建て平屋の住宅2戸が戦前からのものかと思われる。
1962(昭和32)年の住宅地図から、今でも続いている商店は5店ほど見つかった。「石塚バーバー」「大関電気」「まことや洋品店」「金町薬局」「長谷豆腐店」。
写真はどれも商店街のメインストリートの中程にある店。『表の家>金町南口商店街の行く末はいかに?』は2006年の商店街を記録している。そこでは、1枚目の「ゆかり接骨院」は「つるや洋品店」、2枚目の「よしだ整体院」は「大塚薬局」だ。ゆかり接骨院の左の床屋が「石塚理髪店」。4枚目写真の太陽堂の左が大関電気。太陽堂の右奥への路地を入ったところに長谷豆腐店がある。



北海ジャンボリア、まことや婦人服店。金町6-7。ストリートビュー、2013年7月より

2016年頃に取り壊された銅板張り風の商店。戦前築の看板建築だったかもしれない。壁に「安田」と読める字が残っている。安田生命金町営業所だった。今は「ブランヴェール金町駅前」(2017年9月築、5階建て14戸)という小さなマンションに建て替わった。
隣は金町薬局(左)とまことや婦人服店で古くから続いている店。まことやの右(西)に「金町映画劇場(金町東宝)」があった。地図でみるとずいぶんと小さい映画館だったようだ。1970年代に閉館したと思われる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





左:西村歯科医院、葛飾区金町6-8。右:いとう屋、金町6-5。2003(平成15)年12月21日

JR金町駅南口から南へ入る路地で、左写真では奥が駅、右写真は左写真の向かい側で、奥が駅と反対の南方向。現在は金町6-2の再開発により、2009年6月に竣工した「ヴィナシス金町タワーレジデンス」という41階地下2階建て476戸の高層マンションが建った。ヴィナシスの東には国道6号(水戸街道)と金町駅南口広場との連絡道路が設けられた。写真の路地はその道路になって消滅した場所だ。以前は京成金町線の線路に沿った区道が使われていて、出入りするバスの本数が多いのでいつも渋滞していたらしい。

右写真で突き当りに見えるのは「ベルシティ」という商店街のメインストリートで、こちらに向いた商店は「桜屋肉店」と思われる。「いとう屋」というのは通りに出る角の工事用フェンスのところにあった会社。1970年頃の住宅地図から持ってきているので、実際はどうか分からない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





寿湯。葛飾区金町6-2。2003(平成15)年12月21日

JR金町駅の南、国道6号(水戸街道)の間にあった銭湯。撮影時ではすでに銭湯は廃業していて、入り口には「金町6丁目地区市街地再開発準備組合事務所」の看板がかかっている。今は2009年6月に竣工した「ヴィナシス金町タワーレジデンス」という41階地下2階建て476戸の高層マンションに替わっている。
寿湯の開業は外観からもそう古いことではなさそうだ。1962年の住宅地図にはなく、代わりにということもないが、駅に近いほう(金町6-5)に「栄湯」がある。1970年の地図に出ていて、こちらでは栄湯がなくなっている。



寿湯。2005(平成17)年3月20日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





築地本願寺慈光院。墨田区横網1-7。2004(平成16)年3月27日

慈光院があるのは東京都慰霊堂と東京都復興記念館がある横網町公園の北の道路の向かい側。神社仏閣の建物は古いことが権威に通じるように思われているから、建て替えられることはあまりない。従って当ブログではそちらの記事はほとんどないわけだ。慈光院は5年前に建て替えられたが、撮った写真は上の1枚だけだ。この寺がどういうものかはこの記事を書くために調べて初めて知った。
築地本願寺慈光院』から引用すると、「慈光院の建っている場所は、1923(大正12)年9月、関東大震災で3万8千人余の焼死者を出した、陸軍本所被服廠跡」。「震災後、築地本願寺、京都の本山から早速、救護の手がさしのべられ、救護所(現在のあそか病院)・託児所(現在の江東学園幼稚園)が、そして焼死した人々の追悼の場として、また残された者の心のより所としての説教所が設置された」。その説教所が慈光院になり、震災から5年後の昭和3年9月1日に本堂が完成した。
昭和20年3月9日夜の大空襲では地元民と本所消防団の活躍で焼失を免れたという。
「昭和30年の関東大震災33回忌を契機として、布教伝道の充実がはかられ、昭和33年3月には鐘楼が建立された」。また、本堂建立50周年の昭和53年に、本堂改修と庫裡、境内の整備をした。
建替えられた本堂は築地本願寺をモチーフにしたRC2階建てで、2016(平成28)年4月の完成。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





下総屋食堂。墨田区横網1-12。2004(平成16)年3月27日

旧安田庭園は四方を道路が囲んでいる。そのうち、南と東側は塀ではなくて民家が並んでいる。写真は南の家並みで、左の下総屋食堂の左に旧安田庭園西門が開いている。この辺りは空襲の焼失を免れていて、古い家は戦前からあるものだ。
下総屋食堂は「懐かしの昭和の食堂」としてかなり有名らしい。店名に「食堂」をつけているのがすでに珍しいが、さらに「大衆食堂」を名乗っている。両国橋の謂(いい)は武蔵と下総というからそこからの店名だろうか。ぼくは蔵前橋通りと京葉道路との乗り換えに店の前の道路をよく使うので、入ったことはないがなんとなくなじみの店のような気がしている。
『食べログ』の投稿記事によると、昭和7年の創業。建物は、正面は戦後の改修のようだが、入母屋屋根の本体は同じ頃のものなのかもしれない。戦後は「外食券食堂」から制度により昭和26年に「民生食堂」に移行した。その「東京都指定民生食堂」のプレートが店内に下がっている。戦後がこの店ではまだ残っているようである。




民家。横網1-10
上:2004(平成16)年3月27日
左:1988(昭和63)年4月10日

旧安田庭園を半分囲っている家並みの向かい側にあった民家と事務所と思われる家。現在は「ザ・グラティア両国」(2012年2月築、10階建35戸)というマンションに替わっている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





両国公会堂。墨田区横網1-12。2004(平成16)年3月27日

『日本近代建築総覧』では「墨田区両国公会堂(旧本所公会堂)、建築年=大正15年(1926)、構造=RC(4階建)、設計=東京市(森山松之助)、備考=「建築世界」T15.09による」。
『東京建築懐古録』(読売新聞社編・発行、1988年、1600円)によると、安田財閥の安田善次郎(1838-1921)の遺志にもとづいて遺族が350万円と安田家本邸を東京市に寄付して作られた。総工費336,900円、大正15年6月完成。1階がホールで、2、3階が定員790人の講堂。

設計者の森山松之助について、『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)の解説文を書き写してみる。

森山松之助(明治2年~昭和24年)
明治の末から大正にかけて台湾で活躍し、旧総督府はじめ今日もなお数多く遺る台湾の華麗な洋風建築はほとんど彼の手によったという。帰国後は民間に事務所をひらき、町の小商店である、同族会社のオフィスビルであれ、また銭湯であれ何でも手がけ、一方また華族の大邸宅も多くこなすという、幅の広さを身上としているが、彼の偉さは、商店や銭湯といえども決して気ばらず、同じ気持で着実に作っていった点である。民間建築課の鑑のような人物であった。


『東京建築懐古録』には「戦後は、一時、占領軍のダンスホールにも使われたが、労働組合の全国大会、テレビの公開録音などに利用された」とある。昭和42年4月に、東京都から墨田区に移管された。
老巧化により2001年より使用停止となり、墨田区は建物を改修して残すように動いたものの経費などの面から解体された。2015(平成27)年8月からの解体工事は年内いっぱいかかったようだ。その後「本庄松田家屋敷跡」の発掘調査が行われて、跡地には「刀剣博物館」が建ち、2017(平成29)年1月に開館した。


両国公会堂(西側)。1988(昭和63)年4月10日

講堂。『東京建築懐古録』より

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





JR両国駅。墨田区横網1-3。2004(平成16)年3月27日

ぼくのような老人には、両国駅というと房総方面へのターミナル駅という認識がまだ残っている。『ウィキペディア>両国駅』によると、「外房線・内房線とも千葉から先はまだ非電化であり、1958(昭和33)年7月10日から気動車準急「犬吠」の運転が開始され、その始発・終着駅となった。さらに房総方面の準急・急行は増発され、一部総武緩行線経由で新宿方面へ乗り入れる列車もあったものの、多くの優等列車は当駅始発・終着とされた。」とある。ぼくはその列車に乗った記憶はないが、上野駅が「東京-東北」に結びつくように、両国駅は「東京-房総」だった。
総武線を電車が高密度で走るようになるにつれ、列車が走る余地がなくなってきたのだろうか。しだいに房総方面へは千葉駅始発に変わっていたのだと思う。1972年に東京駅-錦糸町が開通して総武線は複々線化されたが、快速電車の両国駅は設置されなかった。



JR両国駅(北の側面)。2004(平成16)年3月27日

写真の駅舎は『日本近代建築総覧』では「国鉄両国駅、墨田区横網1-3-20、建築年=昭和4年、構造=RC、設計=鉄道省、施工=銭高組、備考=「銭高組社史」P148による ○」。開業は1929(昭和4)年12月30日。
『東京建築懐古録』(読売新聞社編・発行、1988年、1600円)によると、設計は旧鉄道省工務局建築課、SRC2階建て。2階アーチ窓の、壁が高くなっているところは吹き抜けの中央コンコース。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »