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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




清砂通アパートメント11号館。江東区三好4-7。1991(平成3)年6月16日

清州橋通りの南の裏通り、元加賀公園の向かい側に清砂通アパートメント11~14号館の4棟が路地を挟んで建っていた。現在は再開発されて、「イーストコモンズ清澄白河サウススラッシュ」(2005年6月築、13階建て128戸)と「ドラゴンマンション木場公園壱番館」(1999年6月築、10階建て44戸)の2棟のマンションが建ち、アパートの間の路地は北の半分が消滅した。
『同潤会のアパーメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)によると、第4期の工事になり、昭和3年7月20日の起工、昭和4年3月30日の竣工である。
11号館は10号館から裏通りを挟んだ向かい側で、平面は匚型の両端を折り曲げたロの字型に近い形だ。上の写真は裏通りとその横丁との角だが、昭和初期に建ったアパートには見えない。これは道路とアパートの間の隙間に増築されていて、その表面を見ているからだ。写真左端の引っ込んでいる部分が元の表面と思われる。

下左写真は横丁を入ったところから撮ったもの。手前が11号館、赤い壁が12号館。この西の面も増築されていて、12号館も赤く塗られた部分が増築の個所である。下右写真は12号館で、増築された部分の奥に階段の入口が見えている。


清砂通アパートメント11、12号館


清砂通アパートメント11号館

11号館と13号館の間の路地を入ったところで、左写真右端が11号館北翼の折り返し部分、同写真中央が11号館南翼折り返し部分、その間が中庭への開口部、写真左の褐色の棟が12号館。右写真は11号館南翼を左写真とは逆方向から見たもの。



清砂通アパートメント14号館。三好4-7。1991(平成3)年6月16日

11・12号館と路地を挟んで向かい側にあった14号館。中庭のあるコの字型平面。写っている範囲で3か所の階段室があるから全部で5か所あるわけだろう。清砂通アパートメントは他の棟でも階段が数多く設置されているようだ。同潤会アパートはどこもそうだったのだろうか。
11号館の東にあった13号館の写真を撮っていなかった。増築のためあまり古い建物のように見えなかったせいかもしれない。

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清砂通アパートメント10号館。江東区白河4-3。1991(平成3)年6月16日

清州橋通り沿いにあった清砂通アパートメント7号館の後ろ(南)に8・9・10号館が横丁に沿って並んでいた。上写真は9号館が手前に少しだけ写っているが、なぜか8・9号館は撮影していない。もしかすると、増築されていて古い建物に見えなかったのかもしれない。
清砂通アパートメントは街路の整備が進むにつれて、順次建てられていった。『同潤会のアパーメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)によると、全16棟の建設を5期に分けている。9・10号館は6号館と同じ第2期で、大正15年12月20日工事起工、昭和2年12月14日竣工。第2期は元加賀小学校と公園が建設されるのに合わせて、その東西(西に6・9・10号館、東に15・16号館)にアパートメントを建設している。元加賀小学校は昭和2年4月30日の竣工で、アパートより8か月早い。
10号館の特徴は下左写真に見える北翼3階のベランダの円柱と片アーチだ。『集合住宅物語』(植田実著、みすず書房、2004年、3800円)には「10号館両翼の円柱と片アーチ型で造形されたバルコニー」としているので、南翼も同じ造りにしてあったようだ。南翼はベランダを部屋に改造したため隠れてしまったのだろう。



清砂通アパートメント10号館。白河4-3。1991(平成3)年6月16日

10号館には日本社会党委員長・浅沼稲次郎が住んでいた。『集合住宅物語』によれば、北翼の1階がその部屋で、夫人と娘さんとの三人で暮らしていた。浅沼は最初、竣工間もない12号館に入ったが、結婚して10号館に移った。1960(昭和35)年10月12日、61歳で暗殺された後も夫人が20年間暮らし、夫人が亡くなったあとも部屋はそのまま残されていたという。



清砂通アパートメント10号館。裏通りから撮ったもの。薄緑色の壁の部分は増築個所と思われる。



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同潤会清砂通りアパートメント7号館。江東区白河4-3。1991(平成3)年6月16

7号館は清州橋通りに面して1階に店舗を並べた4階建ての細長いビルだった。その外観を示さないと片手落ちだが、なぜかその写真を撮っていなかった。写真は5号館と7号館の間の横町を入ったところから撮ったもの。
7号館は大通り沿いに4階建ての本体と、その後ろに3棟の正方形に近い小さい3階建ての別棟があって、本体と後ろの3棟が廊下でつながっているという構造だったようだ。この形は1号館の西に並んでいた3号館も同じだったようだ。ただし3号館の方は別棟が2棟だった。
左写真は左奥が本体、手前が後ろの西棟。平面的な壁の部分は増築したものだろうか。後西棟は4階を増築しているらしい。
右写真は本体と別棟の連結部分(階段室)の下の通路。今思えば、この通路を歩いてみるのだった。
『同潤会のアパーメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)によると、清砂通りアパートメント全16棟の建設を5期に分けている。5・7・8号館が第3期の工期で、昭和2年4月20日の着工、昭和3年9月20日の竣工。アパート建設用地に整備前の道路と建物があり、それを移転してから建物建設にかかったので、1年5か月を要している。

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同潤会清砂通りアパートメント6号館北翼。江東区白河4-1。1991(平成3)年6月16

6号館は清州橋通り沿いにあった5号館の裏手にあった。写真は清州橋通りの南の裏通りから見た6号館の北翼。6号館の平面は匚型の両端を折り曲げたロの字型に近い形で、割と広い中庭を持つのが特徴だった。写真で見る北翼は清砂通りアパートメントの外観の特徴が見られない。6号館は道路から少し離して建てられていたので、その隙間に増築した個所があり、上の写真も増築で元の表面が隠された状態を見ているのかもしれない。



6号館、南東の角から。1991(平成3)年6月16

写真右の道路は清州橋通り沿いにあった5号館の横から南へ入る横丁。右奥が清州橋通りの方向。南翼折り返し部分の外側を見ている。道路際に張り出している白い部分は増築したもので、昭和50年ごろの工事になるのではないかと思う。
再開発により高層マンションとスーパーマーケットが建って、1枚目写真の裏通りと上写真の横丁とは消滅した。



6号館南翼折り返し部分。写真は左から、南東角、南側玄関(階段室)、北側玄関



中庭から見た6号館北翼。1991(平成3)年6月16



中庭から見た6号館西棟。1991(平成3)年6月16

中央と左の階段室から左側は前面に増築している。増築部分の壁は階段室の壁に合わせているが庇はそれより前に出てしまっている。6世帯共同での工事らしいが、誰が許可するのだろう。暗黙の了解か?
『同潤会のアパーメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)によると、清砂通りアパートメント全16棟の建設を5期に分けている。6号館と横丁の向かいの9・10号館は第2期(大正15年12月20日-昭和2年12月14日)という。



中庭から見た6号館南翼。1991(平成3)年6月16日

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同潤会清砂通りアパートメント5号館。江東区白河4-2。1991(平成3)年6月16日

5号館の清州橋通り側。中庭を持つロの字型の平面をしている。構造上は複数の棟なのかもしれない。
現在、5号館の跡地は「イーストコモンズ清澄白河セントラルタワー」(2006年6月築、33階地下2階建て、483戸)という高層マンションの北に隣接するスーパーマーケット、マルエツになっている。
『同潤会のアパーメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)によると、清砂通りアパート全16棟の建設を5期に分けていて、5・7(5号館東の並び)・8(7号館の裏)号館は第3期である。工期は昭和2年4月20日から翌年10月。昭和3年9月20日竣工としている。



5号館。白河4-2。2003(平成15)年1月5日

清州橋通りから5号館の横を南へ入って、裏通りとの角になる。3棟のビルが並んで建っているようにも見えるが、5号館の1棟。屋上角に柱と梁だけのパーゴラと呼ばれる棚が造られている。建物南西の角にもあり、これが他の棟にはない5号館の特徴だ。
再開発によって写真の横丁と裏通りは消滅してしまった。




5号館。白河4-2。2003(平成15)年1月5日

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同潤会清砂通りアパートメント1号館。江東区白河3-4。1991(平成3)年6月16日

清州橋通りと三ツ目通りが交わる白河三丁目交差点角にあったのが同潤会清砂通りアパートメントの1号館。今は「清州橋通り」というが同潤会アパートが建った当時は「清砂通り」と言ったのだろう。関東大震災で焼け野原になった白河・三好辺りの復興事業は街区の整備、つまり道路の付け替えから始まった。今までの道路を無視して、ほぼ東西、南北の方向に造り直した。東西の小名木川と南北の大横川に合わせたのだろう。
清砂通りアパートは全部で16棟が建てられるが、1号館がまず建てられた。いち早く同潤会が土地を手に入れていたのと、二本の幹線道路の位置が決まった時点で工事に着手したかららしい。2本の幹線に向いた棟ということで同潤会アパートの中心として、象徴性を持たせた外観で完成した。この第1期工事は大正15年4月の起工で、竣工が昭和2年3月。1号館のある街区には2・3・4号館があるが、2号館は第1期工事になるかもしれない。3・4号館は第5期で、昭和4年3月30日の竣工。
参照:『同潤会のアパートメントとその時代』(鹿島出版会、1998年、3,300円)



1号館、清州橋通り側。白河3-4。1991(平成3)年6月16日



1号館、三ツ目通り側。白河3-4。1991(平成3)年6月16日


1号館、階段室。白河3-4
1991(平成3)年6月16日

1号館は大通りに面しているので全面的に4階建てで、1階は店舗。建物の特徴は角の円筒形の階段室、階段手摺のアールヌーボー風の支柱、階段室屋上の円柱が支える円形の屋根、といったもの。
1号館の横や裏手に2~4号館があることなどは、撮影時には知らなかったので写真を撮っていない。次に撮影に来たのは2003(平成15)年1月で、1~4号館が取り壊された後だった。

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上:雲形装飾のある家。江東区東陽1-33
左:スナックらん、かにや。東陽1-26
1996(平成8)年1月7日

写真2枚とも洲崎橋跡から大門通りを南へ行ってすぐの洲崎橋南交差点を東へ入ったところにあった建物。
上の写真の家はカフェーだったと判る装飾をすっかり外してしまって残っている。今見るとなんの特徴もない住宅だ。写真では青いタイルを貼った両脇の柱、不揃いな3連アーチのベランダの手すり、その上の雲形に切った壁、といったなんとなく和風に見える装飾で外観を飾っている。茂木アパートのように入口も前面に3か所が並んでいたようである。洲崎遊廓を紹介する本やサイトには必ず登場する有名物件だった。
2枚目写真の家は、洋風看板建築の飲食店に見えるが、やはりカフェーだった建物なのだろうか。現在は「ガーラシティ東陽町」(2007年2月築、10階建て36戸)というマンションに建て替わった。

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上:茂木アパート。江東区東陽1-37
左:バー ニューボン。東陽1-36
1996(平成8)年1月7日

大門通りから歩道のある割と広い横町を入って大賀(現在は住宅)のあった先にあったカフェー建築。3か所の入口の庇の瓦、各入口の両側にタイルを貼った円柱が残っている。現在は「シャンテ東陽町」(2006年1月築、5階建て15戸)という小さなマンションに替わっている。写真右の早川壮は現在。
旧赤線の入口だった洲崎橋(今は跡)から見てもっとも奥に都営洲崎アパート(全5棟、1965~67年築)がある。その裏は塩浜運河で、昔だったら波打ち際だ。都営団地になる前は警視庁洲崎病院があった。昔の航空写真を見ると中庭のある四角いビルのようで、1958(昭和33)年の区分地図でも病院マークに「元洲崎病院」とある。
ニューボンは洲崎アパートの1号棟の向かいの裏通りを入ったところにあった。今は住宅に建て替わっている。

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大賀荘。江東区東陽1-38。1996(平成8)年1月7日

大門通りの東陽一丁目交差点を東に入って、裏通りとの交差点角にあった洲崎パラダイスのカフェー建築。「大賀楼」または「タイガー楼」という店だった建物で、2か所に残る「大賀」の文字は「たいが」と読むらしい。洲崎(すさき)の赤線街(洲崎パラダイス)では大手だったというから写真左の日本家屋も大賀に含まれるのだろう。『東京紅団>洲崎遊廓跡を歩く』の「昔の写真」を見ると、その写真とあまり変わらない外観だ。赤線廃止後は大きな改装をしないでアパートして使われてきたのだろう。『東京紅団』には昭和29年の洲崎パラダイスの規模を「カフェー220軒、従業婦800人」としている。昔の写真はその頃のものだろうか。
1993(平成7)年の地図では「大賀荘/㈲光運輸」。現在は3軒の建売住宅と思われる家に建て替わっている。



明治企業深川倉庫。東陽1-38。1996(平成8)年1月7日

写真右の日本家屋が大賀だった建物。白い壁の建物には「明治企業㈱深川倉庫」の看板がかかっている。3階部分は増築だろう。『東京紅団>洲崎遊廓跡を歩く』の「昔の写真」にわずかに写っている建物と思われる。その写真では「明治○○」と読める看板も写っている。カフェーだった建物としていいのではないかと思う。
現在は「ミオカステーロ東陽町」(2004年5月築、8階建て28戸)というマンションに建て替わった。写真左の早川荘は今も残っている。

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弁天マーケット(旧サンエス)。江東区東陽1-28。1996(平成8)年1月7日

「洲崎(すさき)パラダイス」といった赤線街にあった「サンエス」というカフェーだった建物。『赤線跡を歩く』(木村聡、ちくま文庫、2002年、950円)では「大通りに面したマーケット。東陽弁天商店会の中ほどにある」としてあるので、かってに「弁天マーケット」とした。東陽一丁目は1967(昭和42)年の町名変更からで、旧町名が「深川洲崎弁天町」だ。前の通りは「大門(おおもん)通り」で、アーケードの天井からは「東陽弁天商店会/アーケード通り」の看板が下がる。その通りに面して「八百周」という八百屋、横町側には魚屋や食品店など5軒くらいの商店が入っていた。2012年4月に取り壊され、現在はマンションに建て替わっている。
YouTubeに『記録映画『赤線』・洲崎パラダイス 1958 』というのがあって、1958(昭和33)年の大門通り沿いの町並みが見られる。そのカラー映像ではサンエスは、通りに面した壁(写真ではアーケードで隠れている)に白く「SSS」の文字が入っている。鮮明でないのが残念だが貴重な映像記録だ。


横丁奥から。東陽1-28。1996(平成8)年1月7日

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