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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




清洲寮。江東区白河1-3。2006(平成18)年5月1日

清洲橋通りに独特の存在感を示す清洲寮。高層マンションがいくら建とうが清洲寮があるかぎり、ランドマークの地位は揺るがないだろう。
清洲寮の後ろには霊巌寺と深川江戸資料館がある。霊巌寺には寛政の改革を行った老中松平定信の墓がある。その松平定信は白河藩主なので、白河町の町名になったという。その成立は1932(昭和7)年だから割と新しい。深川江戸資料館は江東区役所の跡地に建てられたもので、今も江東区役所白川出張所が同居する。区役所は昭和49年に東陽町に移転した。現在「深川資料館通り」といっている通りは、資料館ができる以前は「区役所通り」あるいは「元区役所通り」といっていた。『東京風土図 城北・城東編』(サンケイ新聞社編、現代教養文庫、昭和44年、560円)には昭和35年頃の事情を書いていると思われるが「区役所通りは、道幅こそ狭いがにぎやかな商店街だ。夕方近くになると買い物客で道は埋まり、郊外新開地の「○○銀座」風景である。」とある。電車通り(清澄通り)を渡った旧東京市営店舗向住宅の商店も賑わったのだろう。深川警察署、保険所、中央図書館も近くにあり、行政の中心地でもあった。
現在は清洲橋通りと清澄通りに地下鉄の大江戸線と半蔵門線の清澄白河駅ができて、清澄庭園、深川江戸資料館、深川飯、あるいは最近できたカフェなどの観光の中心地に変わった。




清洲寮。1989(平成1)年11月26日

外壁が白く塗られていた時期の清洲寮。『日本近代建築総覧』では「清洲寮、江東区白河1-3、建築年=昭和8年、設計=大林組下村某」。「寮」といっても会社や学校の寮ではなく、普通のアパートである。
合理的な愚か者の好奇心>謎の集合住宅「清洲寮」(2007.01.14)』というサイトに、2006年暮れの朝日新聞の「わが家のミカタ」という記事が紹介されている。調べてみると「わが家のミカタ」というコラムは2006年4月から2009年3月まで全国版の生活面に掲載した住宅コラムで、単行本(岩波書店、2310円)にもなっていた。『謎の集合住宅「清洲寮」』によると、現オーナーの祖父が「当時ヨーロッパで最新の集合住宅を見てきた工務店主に頼み」建てたという。工務店主とは大林組の幹部なのだろうか? 地下鉄の開通(大江戸線=2000年12月、半蔵門線=2003年3月)で好立地に変貌、家賃も安くてレトロ好みの若者に受けて、今は全66室の三分の二が若者という。古いアパート=高齢者、という常識とは無縁らしい。それもメンテナンスをまめに行うこととも関連するのだろう。

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上:旧東京市営店舗向住宅>末広電話店、西村塗料店。江東区清澄3-3
1988(昭和63)年12月31日
左:取り壊された2軒。1989(平成1)年11月26日

旧東京市営店舗向住宅が並ぶ清澄通りは、その真ん中あたりでくの字に曲がっている。上の写真の右で長屋が切れているのはその曲がり角になっていて北へ続く家並みが見えないからだ。
末広電話店(一階の縦書きの文字では「末廣」)は「電話売買」とあるが電話機を売っているわけではない。ましてや携帯電話やスマホも関係ない。電話加入権の売買だ。電電公社時代の制度なので、今も廃止されたわけではないらしいが、撮影時には店は廃業していたのかもしれない。
写真の棟の右の2軒は取り壊された。右端の家は2枚目の写真で「はがき、封筒、チラシ、納品、請求書、領収書、シール」の文字が読めるので帳票などの印刷屋だろう。



1枚目写真の棟は北から数えて5棟目なので第5棟とすると、上の写真は第6・7棟。写っている店は三登屋金物店、丸越肉店(現在、「天竜」という小料理屋)、小川商事(現在は「Sacra Café」)など。1988(昭和63)年12月31日



サンケイ新聞深川販売所、中華料理しん、エチゼンヤ文具店。1988(昭和63)年12月31日

旧東京市営店舗向住宅の南端の棟で第8棟になる。現在は写っている店はやめたか別の店になっている。「中華料理 しん」は現在、第6棟に「中華 しん」があるから、移ったらしい。

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旧東京市営店舗向住宅。江東区清澄3-3。1991(平成3)年6月16日

清澄庭園の東の縁に沿って2階建ての長屋風店舗が並んでいる。RC造の洋風の建物で、6軒長屋が基本のようで8棟。関東大震災の復興事業として東京市が建設して、1928(昭和3)年に48戸が竣工した。
各店舗の間口は二間半。各棟の二階の左右角にアールデコ風の幾何学模様のレリーフの飾り、パラペットの軒蛇腹、各戸2階の3列の縦長窓とその間の柱、店名の文字を入れるための1階上の2本の太い平行線の間の壁、といった造りが共通だったようだ。
今は正面は個々に改装され、屋上に小屋を増築している家も多い。元々は東京市の賃貸住宅だったが、戦後1953(昭和28)年に居住者に払い下げられた(『achitects composite>江東区散歩4』)。その値段は『東京建築懐古録Ⅲ』(読売新聞社編、読売新聞社、1991年、1942円)では、15万円。それ以降、改装と増築が始まったわけだ。

上の写真は北端の棟から南の方向を見た街並み。25年前のものだが現在も店の看板を除けばほとんど変わらない。右端は歯科医の看板が出ている。工具店の木谷商店の左は茶舗の「よしの園」。隣の笠川表具店は現在も看板は残っているが廃業したようだ。




上:藤屋商店。清澄3-3。1988(昭和63)年12月31日
左:引き戸の家。清澄3-3。1989(平成1)年11月26日

1枚目写真の左端よりやや右といった辺り。上写真右の食料品とタバコの店が藤屋商店。現在は別の店に替わっている。壁がすっかり汚れてしまっている家がほぼ建築時の外観をとどめていると思われる。現在、この家は取り壊されて小さな緑地になっている。
1階が古い引き戸の家は撮った写真を見る限りではこの一戸だけだ。ガラス戸の桟が2階外壁の装飾に合わせたもののようである。戦火を免れて残ったものなのだろうか? 二階の窓も古いままだ。

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三野村合名会社。江東区清澄2-8。2006(平成18)5月1日(4枚とも)

清洲橋通りの清洲橋と地下鉄の清澄白河駅の中間にある2階建てRC造の小さな事務所ビル。現在の看板は「三野村株式会社」だが、資料などでは「合名会社」としてあるのが多いのでここでは建物名として合名会社を使う。
この建物は『東京建築懐古録』(読売新聞社編、読売新聞社、1988年、1600円)に取り上げられている。以下、それによる。
三野村合名会社は三野村利左衛門(1821-1877)がその晩年に一族の資産を運用するために設立した会社。この人は有名とは言えないと思うが、当書には「江戸から明治初期に活躍した実業家。三井家につかえ、第一国立銀行の副頭取を務め、三井銀行の設立に活躍するなど三井財閥の基礎を作った。」とある。三菱の岩崎弥太郎のような人物らしい。「岩崎弥太郎が築いた清澄庭園の北側に豪華さを競うように三野村家の広大な邸宅があった。」とあり、その邸宅跡の碑のようなビルといえるかと思う。
役員会議事録に「中村琢治朗氏に顧問を委託し、吉田安太郎氏を建築技師として雇い、設計にあたらせた」という記録がある。テラッコッタで飾られた玄関を入ると正面に石造りの階段。左手に事務室で、壁にはめ込まれた建築時からの大金庫がある。他に会長室、応接間、宿直室など5つの小部屋。二階は重役室が三つと大会議室、という間取り。建築当時の調度品が多く残るという。
3月10日の東京大空襲では200人の人がこのビルに逃げ込み、必死に防火にあたってビルが残った。鉄線の入ったガラスが割れずに火が入らなかったという。





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阪上製作所。墨田区錦糸4-17。2014(平成26)年9月21日

JR錦糸町駅の東北にある錦糸公園の東の向かい側にある阪上製作所という会社のビルが気になっていた。水平に窓の庇をはりめぐらした3階建ての古そうなビルだ。戦後まもなく建ったものかと一応考えていたが、この記事を書くためにネットの情報をチェックしてみた。
雅万歩>浅草橋~新小岩(2013.03.19)』に、「……ここの建物は戦前からあり、以前は病院だったそうだ。玄関部分には病院の雰囲気が残されていた。……」とあった。なるほど、確かにビルの全体のフォルムは病院ならば納得できる。1947(昭和22)年東京都区分図墨田区詳細図には「相愛病院」とあった。また、戦前の本所区の地図には病院マークに「相愛會舘」とある。ビルの中に会館といえる人を集められる場所があったのだろうか? 航空写真を見ると、中心に切り妻屋根の矩形の部分があり、それを取り囲んで病室がロの字型に配置されていたようだ。その切り妻屋根の部分なら割と広い空間が確保できる。
阪上製作所は油圧・空気圧機器用シール、パッキンの専門メーカーで、その業界では大手だという。1987(明治30)年の創業で、戦後すぐの1944(昭和19)年に、本所横川橋から焼け残った錦糸町の病院だったビルに移った、ということらしい。

それにしても「錦糸」という現在の住居表示だが、なんとかして「錦糸町」に戻して欲しいものだ。普通の会話で「錦糸」などという人がいるとは思えない。


Rのついた壁と庇のある階段室の出入り口。入ると地下の階への踊り場になっているのだと思う。2002(平成14)年1月3日

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三井銀行錦糸町支店。墨田区江東橋4-25。1992(平成4)年10月18日

写真の通りは京葉道路。錦糸町駅前交差点が写真右(西)にすぐで、江東橋四丁目交差点である。一目で銀行と判る2階建ての建物は三井銀行錦糸町支店だったもの。「錦糸町支店」は推定だが、住所をとって江東橋支店とはしないだろう。古典主義系と判る外観から戦前に建てられたものと疑わなかったが、goo古地図>昭和22年航空写真を見ると、三井銀行の建つ交差点の角は三角形の緑地帯のように見えるところで、ビルなどはない。つまり銀行のビルは戦後になって建てたものだ。昭和20年代の建築かと思うが、銀行建築はこういうもの、という概念が、少なくとも三井銀行ではまだ残っていたわけだ。
現在は「スズキBLD」というパチンコ店などが入る7階建てのビルに建て替わっている。



三井銀行錦糸町支店。1995(平成7)年10月15日

錦糸掘公園のほうから撮影。カッパの像がある区立錦糸掘公園は四角形と三角形をつなげた四角形をしている。その形にはなにかいわくがありそうな感じもするのだが、昭和22年航空写真では、普通の碁盤目状の街区で、まだ焼け跡が広がっている。そこに広い道路をつけるなどの整備をする際に公園を設けたのだろう。1950(昭和25)年6月の開園である。
1枚目の写真には「花壇街」の看板が見える。その写真後ろのマンション「錦糸町ハイタウン」1階の飲み屋街をいうらしいが、錦糸掘公園周辺がそもそも飲み屋街である。フィリッピンパブが多いことで知られているという。

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業平橋ポンプ所。墨田区吾妻橋3-12。1994(平成6)年12月24日(3枚とも)

写真は北十間川にかかる小梅橋から撮った業平橋ポンプ所の旧施設。現在は更地になって建て直しの工事が始まり、平成31年4月の完成予定。「雨水ポンプ所を再構築しています」という掲示板が工事の塀に架かっている。北十間川に集まった雨水を隅田川へ排水する施設だ。
写真の建物についてはネット上の資料は『東京都下水道局の施設(区部下水道)』くらいしか見つけられなかった。都下水道局の「砂町処理区」に属する施設として、「業平橋ポンプ所、 墨田区吾妻橋3-12-3(墨田区吾嬬橋3丁目17番地)、1929/7創設、1988/4移転」という簡単な記述だ。カッコ内の所在地は旧住所。写真の建物は1929(昭和4)年に建ったもので、1988(昭和63)年には、写真の旧ポンプ所のすぐ西に新たにポンプ所を建設して移った。その新ポンプ所が現在稼働しているものだろう。今、「再構築」しているということは、新ポンプ所の設備が古くなってしまったのか、初めから仮施設だったのか?



北十間川の南の川に沿った裏通りから撮った写真。写真右の坂道の先が小梅橋。

北十間川といえば、今は東京スカイツリーの下を流れる川、というイメージだろうか。旧中川と隅田川をつなぐ、江戸期に掘られた運河だが、今は東武橋と小梅橋の間にある北十間川樋門という水門で仕切られ、水位が異なるので、水門の東と西では別の水系といっていい。水門は1978(昭和53)に造られた。昔は大横川の合流地点から西は「源森川」といったが、その名前を復活させれば合理的なように思うが、やはりややこしいか? あるいは将来、ここに荒川ロックゲートのような閘門を設けて船が通れるようになるかもしれないという気もする。



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吾妻橋アサヒビヤホール。墨田区吾妻橋1-23。1986(昭和61)年6月8日

墨田区役所やアサヒビールタワーの建つ場所にはかつてアサヒビールの工場(アサヒビール吾妻橋工場)があり、その工場跡地を再開発して、1989(平成1)年11月に完成したのが今の「リバーピア吾妻橋」である。工場は1984(昭和59)年に操業を停止した。隅田川の吾妻橋のたもとの、あのオブジェを乗せた黒い壁のビル(フラムドーム)に替わる前にあったのが写真の建物だ。
以下、『東京建築回顧録』(読売新聞社編、読売新聞社、1988年、1600円)――当書での建物の名称は「アサヒビール吾妻橋ビヤホール」――と『東京路上細見5』(小檜山俊著、平凡社、1990年、1903円)による。1903(明治36)年に「大日本麦酒株式会社」――「朝日麦酒株式会社」の設立は1949(昭和24)年――が工場の操業を開始。1909(明治42)年8月に工場見学者の接待用にビヤホールを開業した。当初は工場敷地の北、枕橋のたもとにあったが、一般客を受け入れるために1916(大正5)年に吾妻橋の方に移った。浅草から客を呼び込もうということだろう。写真の建物は1930(昭和5)年5月に建った。RC造2階建て、延べ720㎡、1階客室の中央に直径1.4mの円柱が5mの高さの天井を支える。1階に300席、2階に200席という規模。
旧ビヤホールの最後の営業となったのが1988(昭和63)年5月20日。その日が近づくにつれ、連日別れを惜しむ客が詰めかけたという。


アサヒビール吾妻橋工場倉庫
1986(昭和61)年6月8日

撮影日には工場はすべて取り壊されていた。ビヤホールに接して残っているビルは当時の住宅地図では「ソーコ」。工場敷地の外側は倉庫が取り囲んでいたようで、古い航空写真からもそれがうかがえる。写真の倉庫はビヤホールが一部を使っていたため、まだ残っていたのだと思う。東京大空襲のときはRC造の倉庫が工場とビヤホールを守る形になって、奇跡的に焼け残った。
収蔵庫・壱號館>吾妻橋アサヒビヤホール』には1982年撮影の写真が載っている。戦前、大日本麦酒の吾妻橋工場で作っていたのはサッポロビールだから、「アサヒビヤホール」の名称は昭和24年以降のことではないか、と考察している。戦前のビヤホールの名称は確かに気になる。

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平屋の長屋。墨田区墨田4-57。2009(平成21)年3月29日

墨田4丁目は鐘ヶ淵通りと荒川、東武伊勢崎線と水戸街道で囲まれる地域で、空襲での焼失を免れている。鐘ヶ淵通りが延焼を食い止めたようである。ただし今では戦前築の建物は10棟とはなさそうで、写真の建物はたまたま目についたもの。
平屋の五軒長屋と四軒長屋が並んでいる。昔は手前の駐車場にも五軒長屋くらいの長屋が2棟建っていた。どうも、周辺は長屋やアパートが密集していたような感じだ。昭和50年頃までは鉄工所、ゴム工業の工場などが近くにあったから、そこへ務める職工さんが暮らしていたかと想像する。



バーバー・コタカ。墨田4-54。2009(平成21)年3月29日

水戸街道と鐘ヶ淵通りの交差点が四つ木橋南交差点。その近くにある三軒長屋。以前は五軒長屋だったと思われる。写真右の空地は長屋の1軒が取り壊された跡で、その右に長屋の1軒が原型に近い姿で残っている。コタカとその右の2軒は2階の前面に1部屋増築している。現在、コタカは理髪店を廃業して、昭和の風情の店先は民家に改装されてしまった。

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村上商店。墨田区墨田3-13。左:2008(平成20)年12月6日、右:2009(平成21)年3月29日

路地といってもいいような狭い道だが、『玉ノ井 色街の社会と暮らし』(日比恒明著、2010年、2800円)では「栄通り」で、「本通り」の北を平行に東西に通っている。左写真は通りの中ほどから東を見ている。この通りに赤線が引かれ、南側が赤線街だった。写真では南側の家並みは、看板建築風の村上商店(1985年の住宅地図による)が古い建物で、それ以外は割と新しい家ばかりである。その村上商店も現在は住宅に建て替えられた。
写真奥の白い壁の家のところを右へ入ると「銀座通り」で、同じところを斜めに戻るように入っている路地が「柳通り」。そして白い壁の家は既書の「昭和28年頃のカフェー街」では、カフェー「鹿島家」で、それが住宅に建て替わったものだ。鹿島家は『赤線跡を歩く』(木村聡著、ちくま文庫、2002年、950円)に3枚の写真が載っている「メリヤスの工場になっていた」建物。1985年の地図に「鹿島メリヤス工業所」とあった。

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