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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




三幸倉庫。中央区新川1-4。1987(昭和62)年12月20日

亀島川に架かる新亀島橋から北の方角を撮った写真で、左端に永代通りの霊岸橋が写っている。3棟の倉庫は三幸倉庫(三幸株式会社京橋倉庫)。現在は「新川三幸ビル」(1990年3月築、10階地下1階建)というオフィスとマンションのビルに建て替わっている。写真撮影後、1・2年で倉庫は取り壊されたのだろう。
戦前の火保図では「渋沢倉庫」で、やはり3棟が並んでいる。それが空襲で焼失し、戦後すぐは焼け出された住民用にバラックの仮住宅が建てられたらしい。昭和25年頃の火保図には13戸の木造トタン葺きの家が記されている。三幸倉庫が建ったのは昭和30年頃かと思う。


串八珍新川店。新川1-3
2010(平成22)年7月20日

1枚目写真の左奥に柳と木造の家が見える。「割烹増田屋」で、戦前からある料理屋。建物は戦後間もなくのものだろう。その手前が新川と亀島川との合流地点だったところで、新川は昭和23年から24年にかけて埋め立てられた。増田屋の横の新川の跡は今も広場のような空地で、資材置場・駐車場に使われている。増田屋は酒問屋や倉庫業を背景に繁盛したと思うのだが、今はいつのまにか「串八珍新川店」に替わっている。

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三協鋼鉄。中央区新川1-3。1987(昭和62)年5月31日

永代通りの霊岸橋から撮った写真で、石垣の下は亀島川、緑地は霊岸橋袂の小公園。写真左の小屋はトイレかと思う。三協鋼鉄の建物は昭和22年の航空写真に写っているもののようだ。昭和7-11年の火保図にはないからそれ以降に建てられている。昭和27年頃の火保図ではコンクリート造で「木下商店」。写真からはごく小さいビルに見えるが、写真右のビルと接する側面は裏の通りまで延びているので、見た目の倍くらいの面積がある。
「三協鋼鐵株式会社」のHPによると、航空機用の部品を制作する会社へ鋼材などを納品している会社で、沿革に「1968年5月|東京営業所を東京都中央区新川1丁目3番2号に土地建物を購入・移転。」とある。
現在は同じ敷地のままで建て直されていて、沿革には「1990年1月|東京営業所所在地、……に地下1階地上9階のNAXビル(延1120㎡)を建設。地下1階より地上3階までを当社本社業務及び東京営業所として使用、4階以上を賃貸とし営業を開始。」とあるから、写真の建物は撮影後1・2年で取り壊されたと思われる。

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湊橋。中央区新川1。1987(昭和62)年5月31日

日本橋川が隅田川に出る河口付近、日本橋箱崎町と新川1丁目を結んでいる橋。最初に架けられたのは1679(延宝7)年という歴史ある橋だ。写真の橋は震災復興橋梁で、1928(昭和3)年に竣工した3径間鉄筋コンクリート製アーチ橋。
三連アーチの橋だからかなり珍しいと思うが、路上からでは親柱がなく、ごく地味である。下流の豊海橋(とよみばし、1927年)の方が、形の面白さで注目度は高いようだ。
1989(平成1)年度の整備で綺麗になったのが下の写真。コンクリート打ちっぱなしの側面にタイルを貼りレリーフの飾りをつけた。手すりも作り替えている。


湊橋。2010(平成22)年7月20日

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丸玉ビル。中央区新川1-18。1987(昭和62)年5月31日

日本橋川が隅田川に出る河口に架かるのが豊海橋(とよみばし)で、その一つ上流に架かるのが湊橋。日本橋箱崎町と新川1丁目を結んでいる。その袂にあったのが写真のビルで、写真左端は橋の袂の小公園。下の写真が湊橋から撮った日本橋川に向いた裏側。古い倉庫の横と上に増築したビルと思える。



丸玉ビル。新川1-18。1987(昭和62)年5月31日



多奈加。新川1-18。1987(昭和62)年5月31日

丸玉ビルの隣の古い倉庫。居酒屋の「多奈加」が看板を出している。いつの間にか取り壊されて駐車場に替わってしまったが、5年位前にはあったように思う。



中央区立図書館>地域資料』より、昭和43(1968)年5月に京橋図書館が撮影した写真。左は「湊橋から新川一丁目を望む」、右は「新川1丁目付近」
右写真で「牧原」の倉庫が3枚目写真の多奈加。その右の倉庫は「森六商事」の倉庫。左写真にはミツカン酢の倉庫が写っている。『日本近代建築総覧』に「ミツカン酢倉庫群、新川1-18、建設年=大正13年?、構造=RC」で載っている。

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三菱倉庫越前堀倉庫。中央区新川1-32。1987(昭和62)年2月1日

かつて隅田川の永代橋のすぐ下流に「三菱倉庫越前堀倉庫」、その南に「住友倉庫東京支店」の、ビル型の巨大な倉庫があった。今ではこの、隅田川沿いの倉庫街だった面影はほとんど感じられない。
『日本近代建築総覧』では「三菱倉庫越前堀倉庫、中央区新川1、建築年=昭和7年、構造=RC4階建、設計=三菱倉庫K.K.?、施工=竹中工務店他(分割請負)」。『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年、2400円)の写真のキャプションは「三菱倉庫株式会社越前堀倉庫(現存)/竣工年=昭和7年/設計者=同社/中央区新川1-32 隅田川に面した正面は曲面の壁になっていて1930年代の特色をもっている。解体・撤去で高層ビル建設の予定」。
「越前堀」とは明治になってつけられた町名で、江戸期は松平越前守(越前福井藩)の屋敷だった。そこを囲っていた掘割が越前堀である。その一部は戦後まで残っていたらしい。
三菱倉庫は撮影後じきに取り壊されたかと思う。現在建っている「東京ダイヤビル5号館」(15階地下2階)は1990年1月の竣工だ。上左の写真は隅田川側を南から撮っている。その中央辺りが右の写真。



三菱倉庫越前堀倉庫。1987(昭和62)年2月1日

上左の写真は北側のカーブした角、右の写真は隅田川に向いた面を表とすると裏側で、南から撮っている。
三菱倉庫と道一つ隔てて南にあった住友倉庫は三菱倉庫の撮影時にはすでに現在の「東京住友ツインビル」を建設中で、写真は撮っていない。



倉庫の裏側を北から。1986(昭和61)年3月9日

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中央区立城東小学校。中央区八重洲2-2。1987(昭和62)年12月20日(6枚とも)

東京駅八重洲口から外堀通りの向かい側、すぐ裏手にある城東小学校がいよいよ取り壊しになる。東京駅前の再開発(八重洲二丁目北地区再開発)によるもので、44階建ての超高層ビルが2022年8月の竣工という計画。総事業費は約2400億円という。
城東小学校は、この夏休み中に坂本町公園(日本橋兜町)の仮校舎に移る。44階建てビルの1~4階部分に新校舎が造られる予定だ(『日刊建設工業新聞>八重洲二丁目北地区再開発(2017年4月19日)』。

右写真右端の木造の建物は、1986年の住宅地図に「京橋消防団第二分団/昭和小学校少年消防クラブ」とある。



城東小学校。左:玄関ホール。右:校舎はコの字型の平面でその北側校舎、その後ろの八重洲2-1にあるビルは、左から、ヤンマー東京ビル、八重洲GMビル、八重洲ビル、東京駅前ビル

写真の校舎は『日本近代建築総覧』では「区立城東小学校・昭和幼稚園(旧東京市城東尋常小学校)、八重洲4-3〈旧住所〉、建設年=昭和4年、構造=RC3階建、設計=東京市、施工=竹田組、備考=廊下にガス灯の跡あり。「東京市教育施設復興図集」による」。
外観には復興小学校に見られる特徴が表れている。『東京都中央区に現存する復興小学校7校舎についての見解』(日本建築学会関東支部、山崎鯛介、2010 年2月3日)には「この校舎は、柱形を外に出し、道路側ではその柱形上端を壁面から突出させるが、校庭側では上階窓上に庇を付けて、表情が変えられている。正面玄関上に設けられた深い庇、その下の持ち送りや門柱等により整えられた南側立面は、設計者が意を注いだところである。また、階段室や体育館の壁面に半円形の開口部を付けたり、シャワー室の東側を半円形平面とするなど、随所 にカーブを用いる点に表現主義的な特徴がよく見られる。」と書かれている。

「城東小学校」の名称は元々は日本橋2-3にある「日本橋プラザ」の場所にあった「日本橋城東小学校」から採られている。火保図では単に「城東小学校」の記載である。あるいは「日本橋区立城東小学校」ではなかったか、とぼくは疑っている。現在の八重洲の城東小学校は「京橋昭和小学校」だったが、昭和37年に両校が併合されて現・城東小学校が誕生した。実際は日本橋城東小学校は廃止され、京橋昭和小学校が城東小学校に改名したのである。



城東小学校。左:西側校舎、後ろは「住友生命八重洲ビル」(1966年5月築、9階地下4階建、再開発の対象)。右:北側校舎

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橋本ビル。中央区京橋3-7。1986(昭和61)年12月30日

鍛冶橋通りの、昭和通りとの交差点のすぐ西のところ。右(西)が京橋交差点の方向。写っているビルは、1986年の住宅地図で見ると、左から「篠塚本社ビル、橋本ビル」(同じビルだが名称が二つになっている)「アビタシオンビル」「東京国立近代美術館〈フィルムセンター〉」「神谷ビル」、写っていないが「松平ビル」「近代ビル/アングル」が続いて写真に上部だけ写っている「第一生命相互館」。
下の写真が現在のものだが、橋本ビルと近代ビルが残って、あとは建て替えられた。今、ストリートビュー(2016年2月)を見ると橋本ビルが工事用パネルで覆われている。調べてみると17階建てのホテルを建てていた。
橋本ビルは昭和10年頃の火保図に「槌谷ビル」で載っている建物だろう。その地図では東京国立近代美術館のところは「日本活動写真株式会社事務所」である。昭和27年の火保図では、「篠原KK物産本社」と奥が「カトレム(洋食屋か喫茶店?)」。近代美術館はその昭和27年の開館で、「旧日活本社ビルを建築家の前川國男氏の設計により改装」したというが、それが写真の建物らしい。下の写真のビルに建て替わったのは1995(平成7)年。


近影。2013(平成25)5月19日

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片倉ビル。中央区京橋3-1。左:1988(昭和63)年2月21日、右:1986(昭和61)年1月19日

京橋3-1には京橋三丁目ビル、片倉ビル、蛇の目ミシンビルの3棟のビルが鍛冶橋通り沿いに並んでいた。片倉ビルは戦前築の近代建築、京橋三丁目ビル(1978年)は村野藤吾、蛇の目ミシンビル(1965年)は前川國男というそれぞれ有名な建築家による現代建築だった。これらが再開発によって、京橋3-2の駐車場になっていた場所と合わせて2013年4月に「東京スクエアガーデン」にまとめられた。ぼくは京橋三丁目ビルと東京大栄ビル(旧蛇の目ミシンビル)に関してはなにも知らなかったので写真を撮っていない。
片倉ビルは『日本近代建築総覧』では「片倉ビル、京橋3-2〈旧住所〉、建築年=大正11年頃、構造=7階建、設計=不明、施工=清水組、備考=「建築世界」17巻による」。『清水建設二百年作品集』には、「片倉館/1926(大正15)年5月/発注:片倉製糸紡績/設計:当社」があるから設計は清水組で関東大震災後に建てられたものだが大正期のビルである。また、「片倉館増築」として「1937(昭和12)年4月/発注:片倉製糸紡績/設計:大野功二」もおこなっている。



片倉ビル。左:2008(平成20)年10月3日、右:2007(平成19)年3月2日

片倉ビルの中で営業していた床屋は「名取理容室」。店の貼紙(『today's news from UK+>片倉ビル(続き)』)によると、1946年の開店で2009月1月28日で閉店した。

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瀧亭。中央区新富1-11。1987(昭和62)年4月29日

新大橋通りと平成通りの間を平行する裏通りで、写真右奥が新金橋の通りとの三叉路。この古い家並みは写真中央の看板建築が住宅に建て替わった以外は変っていない。建て替えたのではなく改修したのかもしれない。写真左の日本家屋はなにやら料亭のようにも見えるが普通の民家である。あるいは待合だったのかもしれないがそのような記載の地図は目にしていない。
2棟の看板建築の間に門があり、その奥が「瀧亭(りゅうてい)」。瀧亭は『食べログ』では懐石料理などの料理屋らしいのだが、投稿者がなく情報がまったくない。固定客を相手にひっそりと営業しているのだろうか? 戦前の火保図では「待合」。
看板建築の右の日本家屋は二軒長屋で、その右側の家が現在は「仲宮里」という沖縄料理の居酒屋だ。その右は通りとの角で日本そばの「更科丸屋」。


2007(平成19)年2月7日

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にしみや商店。中央区新富1-10。1984(昭和59)年頃

新大橋通りと平成通りの間を平行する裏通り。左端にちょっと写っているのが「かどや」で、看板建築が「にしみや(西宮)商店」。おにぎり・おでんとたい焼きの店で、ネット上では紹介しているサイトがかなりある。繁盛していた店らしいが2015年4月末で閉店した。建物はまだ残っている。
下見板の壁の家は玄関が2か所あるから2軒長屋式の住居だろうか。現在はヤマト運輸と陶磁器制作用品の「駱駝」が入った4階建てのビルに替わった。
入母屋根の日本家屋は「㈲タカシ産業」の看板がある。昭和25年頃の火保図では「みやこ」という料理屋。昭和10年頃の火保図では「待合鈴川」である。ちゃんと撮っておかなかったのだが、『東京 DOWNTOWN STREET 1980's>中央区新富町~その一』に、1981年に撮影された写真が載っている。現在は「ディ・レジデンセス銀座東」(2007年6月築、10階建19戸)というマンションに替わった。
その先は路地が入っていて、大きな柳の木は料亭の「躍金楼(てっきんろう)」。明治6年創業というから新富町が花街として成長し、また衰退してきた過程にすべて付き合ってきた店といえる。今も料理屋として頑張っている。



にしみや商店。新富1-10。1987(昭和62)年4月29日

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