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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





上:かどや。中央区新富1-10。2002(平成14)年1月3日
左:栄屋履物店。1987(昭和62)年5月3日

新富橋を渡る通りでその新大橋通りと平成通りとの間。写っている建物は今も変わっていない。手前の通り沿いの古い建物は、1986年の地図では左から「栄屋履物店、花香倉庫、食事処かどや」。
栄屋は現在は看板がなくなっているが、撮影時でも商売はたたんだ様子だ。左の写真では戦前からやっていた店のように見えるが、昭和25年頃の火保図では「土屋綿店」。花香(はなか)商店は酒屋で、通りの左へ行った角に店があった。昭和25年頃では河井履物店と花香乾物店。かどやは食べログの投稿記事を見るとおばあさんが一人で切り盛りしていた定食屋だったという。昭和40年頃の開店らしいが数年前に廃業したようである。今は壁が塗りなおされていて壁のタイルは剥ぎとられている。

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大華。中央区新富1-9。1986(昭和61)年9月7日

平成通りの新富二郵便局がある交差点。角の建物とその右の看板建築が今も残っている。写真左から、「広川宝飾店」、中華料理の「大華(だいか)」、二軒長屋に「不二(喫茶店)」と「アップル(スナック?)」、やはり看板建築の二軒長屋に「食堂マサル」と「関東機材」。そして裏通りとの角が駐車場。
大華は以前は「みかど(三加登)青果店」で、不二と共に昭和25年頃の火保図に載っている。今、ストリートビュー(2016年3月)を見ると、大華は建物はそのままで「東竜」という中華料理店に替わった。不二は入り口を和風に変えて、「スナック不二」の看板を出しているので喫茶店ではなくなったらしい。マサルの長屋は「新富3Tビル」(1993年築、7階建て)、角の駐車場(春木屋旅館の所有か?)は「新富一丁目ビル」(1991年9月築、9階地下1)というオフィスビルに替わっている。



鉄砲洲稲荷神社例大祭。 1987(昭和62)年5月3日

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旧待合、植村邸。中央区新富2-11。1985(昭和60)年9月8日

新大橋通りの2本西の裏通り。写真のスクラッチタイル張りの家は今も残っているので個人名を出すのは控えて、戦前の火保図に「待合」とあるので、その建物ということにした。
新富町の花街は、明治5年に新富座(当時は森田座)が開場されたのに伴って出来上がってきたのかと思う。それ以前は明治元年、築地の居留地の開設と共に「新島原遊郭」が設置されている。それがはやらず、早くも明治4年に廃止されている。新富町花街は関東大震災後の1928(昭和3)年頃では、「待合70軒、置屋80軒、芸者数200名」。戦後は料亭20軒ほどを中心に再出発するも、1980年頃には新富町の花街は消滅したらしい。
植村家のあったところは今も空き地のままで駐車場にしている。写真左は花田庵というそば屋。戦前の火保図でも「そばや」で、その店が続いていたのだろうか。現在は井口ビル(1989年12月築)という5階建ての小さなビルに建て替わっている。



植村邸。新富2-11。左:1988(昭和63)年2月14日、右:1985(昭和60)年11月10日

植村邸は1927(昭和2)年に建てられた銅板張りの看板建築である。1998(平成10)年に江戸東京たてもの園に移築された。そこへ足を運んで再会してみようという気がなくもないのだが、まだ実行していない。
『看板建築』(藤森照信(文)増田彰久(写真)、三省堂、1988年、1500円)では、「飾職人の家であった。建て主の植村さんは木材の調達から製材、銅板張りまで自分が指導したことを自慢してくれた」とあるから、設計は当の家のご主人であった植村三郎氏ということなのだろうか。「飾職人」といえば、普通は簪などを思い浮かべるわけで、場所も花街だった新富町だから辻褄も会う。ただしこの建物で商品を売っていたわけでもないらしい。職人を置いて飾り物を制作していたのかもしれない。植村氏自身は職人というより、商店や顧客の注文を聞いて職人に指示するような仕事をしていたようである。ただし、『看板建築』には「金銀細工師だった植村ジイさんは、十数年前はじめて訪れた時にはすでに店をたたみ隠居生活に入っていた」ともある。
3階の前面には屋上があり、そこに部屋を増築している。この部分は江戸東京たてもの園に復元する際に取り除いた。
右写真の白いプレートの表札は「日東珈琲株式会社食器事業部倉庫事務所」。その上の外灯はガス灯かもしれない。

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築地菊栄ビル。中央区新富2-7
上:1985(昭和60)年11月10日、左:1987(昭和62)年頃

平成通りの築地橋北詰にあったビル。『日本近代建築総覧』では「築地菊栄ビル(旧松竹キネマ本社)、建築年=昭和2年、構造=RC6階建〈地下1階、6階部分は増築〉、設計・施工=大林組、備考=「建築写真類聚」銀行・会社7による」。
松竹といえば歌舞伎座、東劇、今は無いが松竹会館などがあった東銀座・築地の辺りが本拠地かと思うが、そこから少し離れている。ここに本社ビルを建てたのは、隣に新富座があり、明治43(1910)年にそれを松竹が買収して、その周辺を東京の本拠地にしようとしたためかと考えられる。
外観はこれといった目立った特徴が見られないのだが、じっくりと眺めていると関東大震災以前の、装飾を置いた洋式建築を脱してモダンに切り替えた思い切りの良さを感じる。1階の壁がスクラッチタイル張りで建った時代を表している。各階の窓の間の壁が少し下を向いているのは実用的な理由があるのかどうか知らないが、デザイン的には外観の単調さを破っていて面白いと思う。
晴海通りの万年橋際に松竹会館が建ったのは1956(昭和31)年で、その時松竹はそこに本社を移した。『野田宇太郎文学散歩第2巻』(文一総合出版、昭和53年、1200円)は著者が昭和33年に観察した記録ということだが、「角の松竹本社の旧ビルは大林組東京支店に変わった」と書いている。1969年の住宅地図では「本嘉納商店東京支店」。菊正宗酒造に替わったのは1970年代らしい。
2013年12月に解体され、2015年11月に「ザ・パークハウス東銀座」(13階建36戸)というマンションが建った。


京橋税務署。新富2-6。1988(昭和63)年2月21日

築地菊栄ビルの一つ北のブロックが京橋税務署で、歌舞伎興行の新富座があったところである。関東大震災で被災した後はそのまま劇場は廃止した。松竹はそこに映画館を建てて松竹の封切館にした。新富座の名称は引き継いで、昭和14年まで続いたらしい(中央区今昔物語>第14回新富座)。戦後の昭和25年頃の火保図では「松竹第二別館」。
京橋税務署に建て替わったのは昭和38年。そのビルも50年以上が経って建て替えることになり、税務署は平成28年11月ですでに仮庁舎に移った。

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田村ビル。中央区銀座5-9。2010(平成22)年12月24日

晴海通りのすぐ裏で銀座四丁目交差点からも間近いところに、戦後まもなく建てられたと思われる木造2階建てモルタル壁の長屋式建物が残っている。『東京Deep案内>…三原小路(2014.11.12)』には「老巧化激しいこの田村ビルも、戦後間近に大地主の名前を冠して建てられたもののようで」とあり、建物の名称が判った。
2010年の時点では路地の手前から奥へ「焼肉 東京園」、その二階に「酒寮 よしの」、「中華 三原」、その二階に「大京会(関西調理師紹介所)」、2008年11月に閉店した「時計台(ラーメン)」、二階の「麻雀 みはら」の入り口、「BARビルゴ」と並んでいる。
現在は、東京園は閉店、ビルゴがあなご料理の「ひらい」に、時計台が「グラマシーテーブル」というフランス料理の店に替わっている。まだ建て替える予定はないようだ。


BARビルゴ。2006(平成18)年9月30日


中華三原、麻雀みはら。2013(平成25)年5月19日

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左:銀座中央ビル(中央信託銀行銀座支店)。中央区銀座7-9。1989(平成1)年頃
右:津山ビル。銀座7-10。2002(平成14)年10月5日

そう古いビルではないが、今は建て替わってしまったものを3点取り上げてみた。
左写真は中央通りの銀座七丁目交差点角にあった「銀座中央ビル」。現在は万年筆の「モンブランギンザビル」(10階建、2004年12月築)に替わっている。写真右に端だけ写っているビルは三菱銀行の割と低層のビルで、今も三菱東京UFJ銀行で変わっていない。
右写真の津山ビルは中央通り七丁目交差点を東へ、花椿通りを行って、三原通りとの角。現在は11階建てのビルに建て替わった。写真右の駐車場は1986年の地図では「国際興業銀座ビル」。現在は「ホテルユニゾン銀座七丁目」(13階建て、224室)が2016年6月にオープンした。



ニューギンザ第一ビル。銀座7-11。2002(平成14)年10月5日

花椿通りの、三原通りの1本東の通りとの角にあった4階建てのビル。戦後まもなく戦災の瓦礫を放り込んで埋め立てた三十間堀跡に建つ。昭和30年頃の火保図にすでに載っている。『都市徘徊blog>ニューギンザ第一ビル』によれば、2007年には解体されたという。
現在は「相鉄フレッサイン銀座七丁目」(13階建て、286室)が2016年10月1日にオープンした。

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銀緑館。中央区銀座6-11。左:1988(昭和63)年2月21日、右:2002(平成14)年10月5日

銀緑館のある銀座6-11は中央通りにあった松坂屋デパートと一体で再開発され、まもなく「GINZA SIX」が開業する。高級ブランドショップが中心のようで、僕などは行きそうもないし、なにやら中国人の爆買いを狙ったような感じもあり、それが一服したらしいので、前途多難なようにも思えるのだが……。
銀緑館は『日本近代建築総覧』では「銀緑館、銀座6-11、建築年=大正13年、構造=RC、設計=松岡(自家設計)、施工=浜田組、現在も竣工時の国産エレベーター使用、同社長松岡は蔵前工業出身と云う」となっている。銀緑館の名称は「銀座六丁目のビル」の意味ではないかと思う。
看板の「TARU(樽)」は地下にあるバー。「Since 1953」とある。1階の「思文閣銀座店」は昭和12年京都で創業した古文書、古書画の店で、銀座の店は昭和45年の開店らしい。今は5丁目の外堀通りにあるビルに移った。



銀緑館。左:2007(平成19)年3月9日、右:2008(平成20)年11月5日

左写真左の全面ガラス張りのビルは「栄ビル」。右写真、銀緑館の右は「銀座松坂屋パーキングビル」と「オリコミビル」。ちなみに、銀座6-11の東側の家並みは1986年では、南から「栄ビル(同栄信金銀座支店)、銀緑館、銀座松坂屋パーキングビル、オリコミビル(折込広告社)、松坂屋事務館、銀座鴻池ビル、ステーキスエヒロ」。


1956年1月に公開された大映の映画『宇宙人東京に現わる』に写った銀緑館の映像。岡本太郎がデザインしたヒトデ型の宇宙人が出てくるSF特撮映画だ。「新天体R」が地球に接近して天変地異が起こり、避難する人々を東京のいくつかの場所で撮影した中のワンカット。昭和30年頃の火保図に対応するわけで、左に「同栄信用金庫」、銀緑館の右は「折込広告社」、日本建築が料理屋の「湖月」6階建てのビルが「折込広告社」となるかと思う。

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ボルドー、スエヒロ。中央区銀座8-10。1988(昭和63)年2月21日

銀座三原通りのほぼ南端にあった老舗のバー。いわゆる「銀座のバー」ではなく、正当な、酒を楽しむ店ということだ。いつものようにネット検索してみると、まず、各新聞の閉店の記事が目に付いた。「1927(昭和2)年に開業した銀座で現存する最古のバー「Bordeaux」が、建物が老朽化し、オーナーの新沼良一氏(83歳)は高齢になり健康も害して、2016年12月22日で89年の歴史に幕を下ろす」という内容だ。建物はまだ取り壊されていないようだ。創業者は新沼氏の、新橋の芸者だった伯母で、氏も20代半ばから店に入った。
近代建築レストラン散歩>ボルドー』によると、奥田謙次という建築家の設計で、内装もすべて彼が手掛けたという。
隣の銀座スエヒロも昭和初期に料理屋として建った建物らしい。建物の左に「ランチタイム」のメニューを出している。「牛すき焼き定食―700円、牛しゃぶ定食―700円、幕の内弁当―500円」などと読める。



ボルドー、スエヒロ。左:2008(平成20)年11月5日、右:1992(平成4)年2月16日

スエヒロは昭和30年頃の火保図に、すでに「スエヒロすき焼き」で載っている。上の写真では「銀座スエヒロ/ちゃんこ柏戸」の看板に替わっている。建て替わった「銀座MEビル」は1994年の竣工なので、撮影後じきに取り壊されたらしい。

『銀座わが街―400年の歩み―』(銀芽会編、白馬出版、昭和50年、980円)という本に、終戦直後の状況を述べた中に以下のような記述がある。写真のボルドーとの関連は不明だが、気になるので紹介する。
 この〈占領軍による〉接収の中で、銀座人にとって嫌であり困ったことは、駐留軍慰安施設の提供であった。こともあろうに、日本政府がやってのけたのである。“特殊慰安施設協会”の名のもとに8月28日開店、終戦後二週間とたたない開店である。日本政府のもっとも早い仕事はなんと慰安婦を提供することだったとは――。米軍はこの施設をR.A.A.(リクリューション・アミューズメント・アソシエーション)といった。場所は二丁目の伊東屋、いまはないが三丁目の録々館、八丁目の千疋屋、耕路、ボルドー、日勝亭、七丁目の東宝ビヤホールなど、七カ所が接収され使用されたのであった。
これらの施設が娼館だったわけではなく、女性が接待する飲食店だったようにも思える。設立の半年後、昭和21年3月にGHQの命令で解体する。そのため、銀座一円に街娼がうろつきだしたという。ぼくは子供の時から、意味はよく分からなかったが「パンパン」という言葉は覚えた。


『懐かしの銀座・浅草』(画・小松崎茂、文・平野威馬雄、毎日新聞社、昭和52年、2000円)から、昭和初年に描かれたボルドー。「銀座最古のバー・ボルドー 昭和二年の営業でスコッチ一杯一円八十銭 今の金で五千円位か」のキャプションが付く。

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ソニービル。中央区銀座5-3。2016(平成28)年1月1日

今年3月いっぱいで取り壊しになるソニービル。まもなく見納めである。1966年4月15日竣工、設計は芦原義信、施工は大成建設。
『銀座建築探訪』(藤森照信・増田彰久著、白揚社、2012年、2800円)にソニービルが計画段階の時のエピソードが述べられているので、それを紹介する。当時、ビル建設に関わった黒木靖男氏に取材したものだ。
現在のソニービルの建っている場所には20坪ほどの小さなビルがあって、そこにソニーのショールームがあった。周りを買収して214坪にして、ショールーム専用のビルを建てることにしたが、どのような建物にするか、なかなか決まらない。社長の盛田昭夫(1921-1999)は設計者の芦原義信(1918-2003)と黒木氏ら3人を集めてホテルオークラの一室で徹夜のブレーン・ストーミングをおこなう。盛田がF.L.ライトのグッゲンハイム美術館の名を口にしたのがきっかで具体的に話が進みだす。エレベータで上に上がってから自然に降りていくという平面のコンセプトだ。当初のビルのあった三角地は空き地としてさまざまなイベントに提供することは、芦原の発議ですぐ盛田が賛同した。
テナントの招致には盛田自身が率先して動いた。その結果が、トヨタ、専売公社、フジフイルム、東レ、大成建設。地下は制限がなかったので5階分も掘ってしまった。マキシムも盛田が口説いた。また、ソニー直営のソニープラザを入れた。1966年4月29日にオープンした。当時ぼくはまだ学生だった。ビートルズが来日した年である。

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サッポロ銀座ビル。中央区銀座5-8
1982(昭和57)年6月20日

サッポロ銀座ビルの写真というより80年代の銀座の歩行者天国の写真だろう。中央通りの歩行者天国は1970(昭和45)年8月2日に始まったという。撮影当時ならほかに撮るべき対象はいろいろあったと思うが、まだ建物に対する興味も知識もなかったのだろう。
サッポロ銀座ビルは「地上10階・地下4階建ての、サッポロビールグループのサッポロ不動産開発が所有する複合商業ビルである。日産銀座ギャラリーやビアホール「銀座ライオン」などが入居していた」(ウィキペディア)。竣工は1970年6月。「日産ギャラリー」の名称の方が一般的だったかもしれない。
2014年4月で営業をいったん終了、解体されて建て直され、2016年9月24日に「GINZA PLACE」が再オープンした。
このビルにあったレストランに一度入ったのを思い出した。『銀座の絵本』(河原淳編、新評社、昭和52年、650円)というガイドブックで店名を確認すると3階の「モンセニュール」という店で「日本人向きにアレンジしたフランス料理……」とあった。
それにしてもここ数年の銀座の建物の新陳代謝はすごいもので、三愛ドリームセンター(1963年1月竣工)も建て替えて不思議ではない時期にあるが、どうするのだろう?

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