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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




四軒長屋。荒川区南千住1-57。2007(平成19)年8月3日

円通寺の裏手の風見酒店(現在は住宅に建て替わった)の向かい側。二階が後退した切妻屋根の、よく見るタイプの四軒長屋である。南側の端の家には「荒川区議会議員浅川喜文後援会事務所」の字が硝子戸に貼ってある。北の端の1軒だけが総二階建てのようになっているのは、二階の前面に増築したのかもしれない。
四軒長屋の北隣はモルタル壁の看板建築で「川又」という居酒屋。
現在、川又は住宅に建て替わっている。四軒長屋は最近取り壊されて、2016年12月撮影のストリートビューでは更地になっていて、裏にある古い民家が見えている。


四軒長屋。南千住1-57。2007(平成19)年8月3日



三叉路。南千住1-57。2005(平成17)年7月31日

1枚目写真の奥に茶色の鉄板で補修された家が見えるが、三軒長屋である。その先にあったのが三叉路角の上の写真の家。二軒長屋ではなかったかと思う。今は2棟とも住宅に建て替わっている。

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風見酒店。荒川区南千住1-55。2007(平成19)年8月3日

日光街道(国道4号)沿いに円通寺がある。彰義隊士の墓や黒門、それに吉展ちゃん事件で有名だが、その裏手の路地のような裏道に風見酒店があった。長屋風の家の1階の屋根がベランダになっていて、その下の壁をモルタルで凝った看板にしている。それも2棟の家にめぐらしてあるようだ。銅板を貼って作った文字で「和洋酒食料品」「風見本店」「電話浅草七七七五番」と右から読むように貼られている。上端には雷紋。
隣はミナミという美容院だか床屋。「本日は閉店…」として以来開店したことがあったのだろうか? ドアに斜めに渡した取っ手がとにかくレトロ。
現在は2棟の住宅に建て替わっている。



ミナミ美容院。南千住1-55。2007(平成19)年8月3日



四軒長屋。南千住1-52。2007(平成19)年8月3日

区立瑞光小学校の南の路地に残っている四軒長屋。玄関などは改装されているが、瓦屋根や2階の壁や戸袋の下見板が見られる。

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田森文具店。荒川区南千住1-32。2005(平成17)年7月23日

日光街道(国道4号)の、常磐線のガードの少し北にあった看板建築の家並み。左から「青木薬局、田森文具店、松島商店、明治洋行(電器店?)、しもた屋」。看板建築の長屋に見えるが、昔の航空写真からは右の2軒は二軒長屋だが左の3軒は独立した建物のように見える。現在は「ライオンズ東京三ノ輪レジデンス」(2015年2月築、15階建56戸)というマンションに替わった。



看板建築の三軒長屋。南千住1-32。2005(平成17)年7月23日

1枚目写真の街道の裏通りにあった銅板張り看板建築の三軒長屋。長屋の裏(1枚目写真の裏でもある)は「公春院」という寺で、長屋は公春院の家作だったのかもしれない。現在は跡地にスチールの倉庫が置かれている。
長屋から右へ行くとすぐジョイフル三ノ輪商店街の入り口になる。この裏通りはその辺りでゆるくS字状にくねっていて、川の跡か思える感じだ。そのまま南へ延長すると常磐線のガードをくぐって荒川区と台東区の境の通りに続く。その通りは音無川(石神井用水)の跡で、その川は山谷堀へ落ちていた。山谷堀は江戸時代初期の開削のようで、それ以前は90度曲がらずに、そのまま北へ向かっていたとすれば、写真の裏通りがその流域かと思えるのだが。

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豊藤(居酒屋)。荒川区荒川1-32。1989(平成1)年2月19日

前の通りは明治通り、後ろのビルは「サンパール荒川(荒川区民会館)」という劇場や集会所を入れた荒川区の文化施設。1975年3月の竣工である。その建物は元の荒川区役所と荒川区会館があった敷地に建てられている。現在の荒川区役所と荒川公園のある場所は工場の跡地で、公園の開園が1968年なので、区役所の竣工は1970年頃だろうか? 
明治通り沿いに並ぶ建物は、左の二軒の看板が読める。「小川建築設計事務所」と「豊藤(居酒屋?)」だ。右の三軒長屋は下の写真に続く。その三軒長屋の白い看板が残っているのは、なんの店か分からないが、1969年の地図では「清貴堂」。



三軒長屋。荒川区荒川1-32。1989(平成1)年2月19日



四軒長屋。荒川区荒川1-32。1989(平成1)年2月19日

2枚目写真の右に続く写真。長屋の右の「理容いこい」が今も残っている。その左の二軒は3階建ての住居に建て替わっている。その左は交差点の角(1枚目写真の小川建築設計事務所)まで「セレナハイム荒川公園」(1999年3月築、14階建て61戸)というマンションに替わった。また、いこいの右から後ろにかけては「アークプラザ荒川公園」(2007年7月築、15階建て38戸)というマンションが建った。
写真後ろのビルは「ライオンズマンション三河島」(1981年6月築、10階建て24戸)だが、1969年の地図では「千代の湯」。その地図では長屋の左は「ハネ医院」(2軒分を使用)と「丸富飯店」だ。

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日の出運輸。荒川区荒川1-39。1989(平成1)年2月19日

前の通りは明治通りで、荒川一丁目交差点の辺り。右(南東)へ175mで常磐線のガードをくぐるという場所だ。関東大震災後に建てられた看板建築が並んでいる。明治通りは大震災後に整備されたが、この辺りでは昭和5-7年頃の工事になるらしい。写真の建物もその頃に建てられたのだろう。
上の写真の右に続くのが下の写真で、「板橋タイヤ商会、布施金網、つり具河野、星電気」の看板が読める。
現在、この辺りは明治通りの両側ともマンションが立ち並んでしまった。写真の看板建築や長屋が立ち並んでいた一画は「東京アルパタワー」(2002年1月築、31階建171戸)というひときわ高層のマンションが建っている。



板橋タイヤ商会。荒川1-39。1989(平成1)年2月19日

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二軒長屋。荒川区南千住1-39。2013(平成25)年11月6日

写真奥で突き当りになる道路は、ジョイフル三ノ輪商店街の2本北の裏通り。まっすぐな道なので近年整備されたもののようにも見えるが、江戸期からある田圃と武家地(江戸切絵図の右上に見える「百姓地」と「石川日向守」の屋敷)の境の道かもしれない。この裏通りに北から斜めに入ってくる道は昔の農道の名残なのだろう。写真の古い長屋の向かい側も、2本の路地が左右からぶつかって「K」形の交差点になっている。
写真の長屋は、外装は替えられているが、形はそう変わっていないように見える。屋根に瓦を戻してトタン葺きの壁を下見板にすれば原形に復するような感じがする。防火用水は戦時中から同じ位置に置かれていたものだろうか。



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左:魚常。荒川区南千住1-34
右:雪印牛乳三ノ輪販売所。南千住1-33。2013(平成25)年11月6日

当ブログ前回と同様に、ジョイフル三ノ輪商店街の北に接する住宅街を見ていく。東京大空襲では焼けなかった区域で、ところどころに戦前築と思われる家や長屋が見受けられる。改装されてそれとは見えなくなっている家もあると思う。当然、建て替えられた家が多いが、まとめて大きなビルに替わってはいない。
上の写真はジョイフル三ノ輪の北の裏通りとみまつや(三松屋製麺)の横丁との四つ角にある魚屋と牛乳屋(小山牛乳店)だった家。



左:三軒長屋。南千住1-33
右:中村工業所。南千住1-34。2013(平成25)年11月6日

左写真は魚常と小山牛乳店と間の路地。トタン葺きの家は古い三軒長屋、モルタル壁の家は二軒長屋だ。その路地を北に抜けると、魚常の裏通りのさらに北の裏通りに出る。そこに出桁造りの民家が残っていた。1969年の地図に「中村工業所」となっている。

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左:みまつや。荒川区南千住1-30
右:平屋の四軒長屋。南千住1-31。2013(平成25)年11月6日

みまつや(三松屋製麺)はジョイフル三ノ輪商店街を東から入ってすぐの路地を北へ入ったところ。「三松ソバ」で1969年の地図に載っている。
右写真はみまつやの路地の東の、さらに細い路地に残っている平屋の四軒長屋である。Google Mapで見ると、写真の四軒長屋の斜め向かいにもやはり平屋の四軒長屋の端の1軒だけが残っている。



鈴木工業所。南千住1-30。2013(平成25)年11月6日

ジョイフル三ノ輪の北の裏通りにある出桁造りの民家。モルタル壁の家は、「認可工場」の表札があるので民家に接して建てられた工業所らしい。「鈴木工業所」としたのは推定。

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左:南千住砂場、南千住1-27。右:藤野青果店、南千住1-28。2013(平成25)年11月6日

南千住砂場はジョイフル三ノ輪商店街の中ほどにある日本蕎麦屋で、ウィキペデイアにも項目がある老舗であるが、ネットの情報では店そのものはごく普通の日本蕎麦屋らしい。ウィキペデイアには「現在の店舗は1954年(昭和29年)の普請で、東京の昔のそば屋を偲ばせる、風情ある木造建築である」とある。「荒川区の重要文化財の指定を受けた建物」としているサイトが多いが、荒川区のホームページにはそのような記述は見当たらない。普通に考えても区の重要文化財になるとは思えない。
藤野青果店は砂場の横の路地の向かい。『テレビ東京>旅グルメ>【6位】ジョイフル三ノ輪(南千住) 』には「大正10年創業。名物は、年間70樽は作るというぬか漬け。ラインアップはおよそ15種類もある」とある。



左:旧みよし鮨、右:兵之助刃物店。南千住1-28。2013(平成25)年11月6日

藤野青果店の建物は3軒の店が入る長屋形式のもので、戦前に建てられたものと思われる。上左写真はその右側の店で、空き店舗だろうか。「みよし鮨」は1969年の住宅地図から。
その隣が兵之助刃物店。この店の建物もやはり戦前からのものかと思われ、店名もなにやら老舗のような感じを受ける。藤野青果店も同様だが、看板を取り付けている1階上の梁のような壁面が下向きに傾けていて、両端に丸みをつけて上部に段をつけている。このような造りは、みのや米店や大津屋(総菜屋)にも見られる。この商店街の店舗の標準仕様だったかのような感じだ。



左:相州屋(和菓子)、右:大津屋(総菜)。南千住1-20。2013(平成25)年11月6日

「RAZZA」と書かれた店の横に路地があって、そこを左へ行けば荒川線の線路。逆に右にも路地があって、その方は路地の片側が家1軒分くらいの幅の公園になっている。「瑞光公園」という児童公園だ。開園は昭和32年12月。昭和22年の航空写真と『戦災焼失区域表示帝都近傍図』を見比べると、公園になっている線は建物疎開で建物が取り払われた跡のようだ。

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梅沢写真会館。荒川区南千住1-15
2005(平成17)年7月23日

梅沢写真会館のビルは国道4号(日光街道)から少し引っ込んでいて、その前に立食いそば屋と八百屋が店を出している。ビルの1階は裏に抜ける通路がとられていて「都電荒川線入口/三ノ輪橋商店街」の看板がある。三ノ輪橋商店街は、ビルの裏のジョイフル三ノ輪商店街までのところだけをいうのだろうか?
『私の東京町歩き』(川本三郎著、筑摩書房、1990年、1301円)には梅沢写真会館について以下のように書かれている。すでに30年前の様子なので、引用させてもらう。

……この三ノ輪橋の駅の入り口には、アーチのような役割を果している古いビルがある。ターミナルビルというには小さいがそれでも四階ほどある。昔はこのあたりで偉容を誇っていたのではないだろうか。写真館のビルである。いまはそれだけでは商売が成り立たないのだろう、ジャズダンスの教室もある。
 このアーチの下がマーケットのようになっていてラーメン屋、立喰いソバ屋、果物屋、新聞・雑誌のスタンドが並んでいる。いついっても人通りがあって活気がある。その先には、店頭で、鳥やウナギを焼いている店があっていい匂いがあたりにたちこめる。町はやはりこういうごちゃごちゃした一角がいちばん面白い。

写真館のビルは今の荒川線が王子電気軌道という私鉄の時にその会社の事務所ビルとして建てられた。本社ビルとするサイトも多いが、ウィキペディアでは「1927年(昭和2年)―王電ビルヂング(三ノ輪橋)が完成」。その路線は「王子電車」というのが普通だったようだ。
荒川線入口の1階通路は、たぶん最初からあったものだろう。日光街道には北千住―水天宮の市電が走っていて、王電ビルの前に電停があり、乗り換え客のための通路が必要だった。王子電車の電停が「三ノ輪」、日光街道の方が「三ノ輪橋」となっている地図もある。
『1960年代の東京』(写真=池田信、解説=松山巌、毎日新聞社、2008年、2800円)には1964(昭和39)年に撮られた梅沢写真会館の写真が載っている。その写真では通路の上の梁に「王電……」の文字がある。都電に変わって20年が経っているが、この辺りでは「王電、王子電車」のほうがまだ普通に通用していたのかもしれない。「荒川線」を使うようになるのは1974年10月からである。また、ビル中央上部のアーチの中に車輪のようなマークのレリーフがある。王子電車の社章だったのだろう。

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