goo blog サービス終了のお知らせ 
ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




左:古川商店(雑貨店)。荒川区南千住1-16。
右:伊万里(洋品店)。南千住1-17。2013(平成25)年11月6日

都電荒川線三ノ輪橋電停のすぐ北に、線路と平行に走るアーケードの商店街が「ジョイフル三ノ輪」。アーケードのある通りは両端が折れているが、ほぼ直線で約400メートルに100軒以上の店が連なる。「ジョイフル三ノ輪」の名前をいつから使い始めたのか分からないが、「三ノ輪銀座商店街振興組合」が組織されているから、以前は「三ノ輪銀座商店街」といったのだろう。
商店街の周辺は空襲の被害を免れているので、古い木造家屋は戦前からのものという可能性がある。上の写真の看板建築は、正面を見ただけでは戦後まもなく建てられたようにも見えるが、航空写真で上から見ると、左写真の建物は瓦葺きの寄棟屋根の二軒長屋である。



左:マツダ紙文具店、右:みのりや米店。南千住1-18。2013(平成25)年11月6日

上の写真の隣り合った2軒も、戦前からの看板建築のように見える。ただし古い航空写真で見る屋根の形と、現在のそれとが一致しないようなのだが。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





桜湯。荒川区南千住1-5。1989(平成1)年2月19日

写真手前の通りは明治通り。右手にすぐ常磐線のガードで、その先は三ノ輪の大関横町交差点。昭和22年の航空写真を見ると、明治通りの南側は東京大空襲による焼け跡が広がっているが、北側は隅田川まで焼失を免れたようだ。『戦災焼失区域表示帝都近傍図』では、桜湯の右から後ろにかけて建物疎開をしている。
『銭湯遺産』(町田忍著、戎光祥出版、2007年、6264円)によると、大正元年には営業していたらしい。なんと、番台と玄関の柱には、明治43年の荒川大洪水時の床上浸水の跡が残っていたという。明治通りの拡幅にともない、昭和5年に建物全体を後ろへ下げた。その際、玄関や塀、浴室のタイル部分を改装した。浴室のタイル絵はその時に制作されたらしい。入口両脇の腰の部分にもタイル絵がある。1999(平成11)年2月28日で閉店した。
現在は「ラ・アトレ千住三ノ輪」(14階建26戸、2001年5月築)というマンションに建て替わった。タイル絵はたぶん誰かが何処かに保存しているのだと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





森永牛乳中居町販売店。足立区千住中居町9。1988(昭和63)年12月11日

足立電話局の南の道路の向かいにあった牛乳店。10年位前まであったのではないかと思うが、今は住宅に建て替えられている。特異な表面の看板建築で、建物上部の壁に「和田」の字と「まるわ」のマークのレリーフがある。つまり、『日本近代建築総覧』の「和田牛乳店(旧和田邸)、建築年=昭和15年頃、木造2階、設計施工=大工」とある建物だ。

『足立風土記稿 地区編1 千住』(編集:足立区教育員会文化課、平成16年)に「和田牧場」の項目がある。牛乳店の建物は「和田牛乳」の牧場がこの地にあったことを示す旧跡といっていいものだった。
当書によると、和田牛乳は徳川慶喜に鷹匠として仕えていた和田半次郎が明治維新後に創業した。店は二長町(現台東区台東)にあった。1897(明治30)にこの地(旧足立電話局のある土地がほぼそれに当たるらしい)3000坪の土地を得て牧場を始める。当時は街道筋の後背地は水田や蓮沼が広がっていた。牧場で絞った牛乳は水戸街道を二長町に運ばれて製品化された。1926(大正15)年、西新井に「和田第一牧場」を開設して移転する。跡地は借家と借地にした。工場や住宅が建ち始めて、牧場などにしておくよりも、ということだった。1927(昭和2)年、牛乳不正問題(結核牛問題)をきっかけに、「牛乳営業取締規則」が改正されると、乳製品の製造に大きい設備が必要になり、個人の家業では経営が難しくなった。大正期には隆盛を極めた和田牛乳も1943(昭和18)年に明治牛乳に買収されてしまう。

写真の建物が昭和15年頃の建築とすると、やはり和田牛乳の販売店兼和田家住居として建てたものとしていいようだ。森永牛乳の販売店になったのは偶然だろうが、店を貸すなら明治乳牛よりも、となったのかもしれないなどという妄想が起こる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






NTT足立電話局。足立区千住中居町15
1988(昭和63)年12月11日

山田守の設計で1929(昭和4)年に建てられた有名な建物だ。施工は大倉土木。RC2階建てで、屋上に会議室を増築している。今もNTT東日本によって現役で使われている。NTTは建物を使いながら保存維持する方針のようで、建物の保存方法としては理想的なやりかただろう。
NTT足立電話局は2002(平成14)年3月で廃止された。以後はNTT東日本東京支店の営業企画部が入って事務所にしている。上と左の写真は、月額350円のキャッチホンを宣伝している頃のもの。上の写真は2枚の写真を合成しているので切れ目に段が入ってしまっている。
建物は逓信省が千住郵便局電話分室として建てたもので、当時逓信省の技師だった山田守の表現派風のデザインが見られる。建物の角に大きくカーブをつけてそこに玄関を置き、二階は水平線の間に縦長の窓と柱のような壁を並べた斬新なデザイン。そこをスクラッチタイルの壁で包んで柔らか味も感じさせる。二階には当初、電話交換機が据え付けられていたという。



電話局でなくなった後は、NTT千住ビルの名称に替わった。2003(平成15)年1月12日



近影。2012(平成24)年1月15日

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





飯島会計事務所。足立区千住中居町28。1988(昭和63)年12月11日

前の通りは千住駅前通りで、右へ行くと国道4号線(日光街道)を越えてJR北千住駅にぶつかる。国道4号との北千住駅入口交差点から西へ、墨堤通りとの千住龍田町交差点までは1936(昭和11)年に開通した。街灯には「北千住昭和会」の標示板がついている。稲荷神社の横を入る道はすぐ右へ曲がって駅前通りの裏道になってしまう。昔の、畑の中を通っていた道が整備されないまま残っているのだろう。
神社の左は三泉ビルという5階建てマンションである。そのビルが以前は千住金美館という映画館だった。戦災で焼失した後、1951年11月に建て替えられて再館された。1961年(昭和36年)には閉館したということだ。その写真が『足立風土記稿 地区編1 千住』(編集:足立区教育員会文化課、平成16年)に載っている。「1956年頃」ということで金美館から駅前通りを東方向に撮っていて、飯島会計事務所の建物には「常磐相互銀行」の看板がかかっている。昭和22年の航空写真にはないから戦後の建築である。現在は東日本銀行と名前が変わり、少し東へ行った向かい側のビルに入っている。
現在は建物が取り壊された後はTimesの駐車場になっている。写真右の看板建築の建物は現存する。飯島会計事務所は東へ行った中居掘り通りに近いところにその看板をあげた小さいビルがあるが、それだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





スナック長屋。足立区千住柳町1。2012(平成24)年1月15日

右奥へまっすぐ通っている通りは大正通り。信号のある交差点で千住龍田町、千住柳町、千住中居町、千住寿町が接している。『 遊郭部>廓メシNo.11(双子鮨)』というサイトで、千住大門商店街の双子鮨をレポートしている。マグロが3カン乗った握りの並1200円がうまそうだ。当サイトでは鮨のことはあっさり片づけて、「大将」から聞き取った昔の千住遊郭の話などを解説付きで紹介している。その中に写真の建物が「スナックビル」として出てくる。ここでは外観に合わせて「スナック長屋」とかってに命名した。半分パクリだ。
建物は、航空写真を見た感じでは、角の一戸建ての家と五軒長屋がつながって六軒長屋に見えるものらしい。戦後すぐに建てたものではないかと思う。テナントは写真では「大ちゃん」「のりっぺ」「カラオケyou-yu」「スナック・ウイング」「お茶漬けおにぎり・みね」に空き家が1軒。2012年の住宅地図ではシャッターの店は「セブン」。このセブンが1969年の地図に「バーセブン」で出ていて、一番の老舗だったようだ。古い店はなじみ客も歳をとってしまうということだろうか。

1枚目写真の手前を左に入るとじきに「千住大門商店街/振興組合」のアーチがある四つ角に出る。そちらに曲がらず、そのまままっすぐ行く通りが千住柳町の遊郭があった目抜き通りで、その入り口に遊郭の大門があった。「遊郭部」では、大正通り―大門の道にカフェー街があった、という「大将」の話が紹介されている。
千住遊郭へくる客は、常磐線と東部鉄道の北千住駅からと、都電の「北千住駅」停留所から、という場合が多かった。これらの客は4号国道で一緒になり、斜めに大門に繋がっている裏道を行くのが近道なので、そこを行く場合が多かったと思われる。その道筋が大正通りを突っ切ると「カフェー街」の道になる。人通りがあるので、自然と飲食店が開業するようになっていったのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





溝口荘。足立区千住柳町23。2012(平成24)年7月14日

千住柳町といえば千住遊郭があった町で、日光街道の千住宿辺りに散在していた貸座敷を、1919(大正8)年に移転させたのが始まりである。あらかじめ土地を区画した新開地である。千住柳町の整然とした区画はそのときのものなのだろう。平均して1戸が100坪だった。(『足立風土記稿・地区編1千住』〈足立区教育委員会文化課編集、平成16年発行〉参照)
1937(昭和12)年には業者は57軒、娼妓405名(『「ぬけられます」あちこち廓探索日誌>北千住』参照)だったという。
戦争中は町の南部が建物疎開で削られたようだが空襲での焼失はまぬがれた。戦後はカフェー調の建物に建て替えたりして、戦前の和風旅館のような建物と戦後のカフェー調の建物が混在していたらしい。
1956(昭和33)年、売春防止法施行で「健全な学生街に生まれかわって、他にみられるように青線化することもなく、そっくりそのまま学生下宿屋に転向した。」(『改定東京風土図 城北・城東編』〈サンケイ新聞社編、現代教養文庫、昭和44年、560円〉)

そこで写真の溝口荘である。溝口荘は確かに学生相手の下宿屋だったのだろうが、それ以前には娼家だったのかどうか。場所はニコニコ商店街に近い遊郭の裏門の方だが、その間近である。goo古地図の昭和22年と38年の航空写真を見ると、両方とも同じ建物のようだから、溝口荘は戦前に建てられた可能性がある。玄関が3か所もあるのが気になる。ネットでは大方が娼家だったことに否定的で、要は見た目が簡略に過ぎるということだろう。ぼくも確信はもてない。


溝口荘。2012(平成24)年1月15日


『東京懐かしの街角』より

左の写真は『東京懐かしの街角』〈加藤嶺夫著、河出書房新社、2001年、2500円〉からお借りした。キャプションは「昭和47年8月●千住柳町24」。右の家の玄関の横に「開花荘」と書かれている。1969年の住宅地図に当たってみると、開花荘は25番地なので、キャプションの24番地は撮影地点をいっている。写真左の家は1969年の地図では「八爪?(読み取れない)学生寮」で26番地になり、溝口荘の向かい側だ。戦前の娼家はこういう造りの家が標準だったのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





上野屋。足立区千住大川町38。2012(平成24)年7月24日

ニコニコ商店街の北側。看板建築にした三軒長屋と二軒長屋だ。戦前からある建物ではないかと思う。航空写真を見ると、これらの長屋の裏にも3棟の古い長屋が残っているように見える。店を開いているのは手前の天ぷらの上野屋だけのようだ。三軒長屋の右端は、1989年の地図では「丸万寿司」。錆びたトタンの二軒長屋の方は「牛→豚/お惣菜/中林商店」と「鮮魚・みなとや支店」の看板が残っている。



ふるいち。住大川町37。2007(平成19)年1月27日

1枚目写真の右奥に写っている。和菓子の「ふるいち」と袋などの包装資材の「タカサワ商店」。「TOSTEM」の看板は青木ガラス店、郵便ポストの前は栄屋商店、「くすり」の看板は大道薬局。ふるいちの建物は残っているがそれ以外は取り壊されて駐車場になったり住宅に建て替わったりしている。


あらい青果店。千住大川町50
2012(平成24)年7月24日

ニコニコ商店街から1歩北へ入ったところで、写真右に花屋のハナヨシが写っている。右の角の家は「プチ菓子店」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ハナヨシ生花店、魚きん。足立区千住柳町41。2012(平成24)年7月14日

千住柳町の西北端で、写真右の横丁の右側は千住元町、ニコニコ商店街のハナヨシ(花義)の向かい側は千住大川町。ニコニコ商店街はここから始まり、反対の千住元町の商店街は「千住元町明光会」となる。商店街とはいえ、北千住駅からはいうまでもなく、国道4号線からもだいぶ入ったところだから、閉まった店や住宅に建て替えられた家が多い。そんな中でハナヨシの四つ角は商店街の体裁を残している。魚きん鮮魚店も入った看板建築の家は戦前からあるものではないかと思う。


寿司処福むら。千住柳町41
2012(平成24)年7月14日

1枚目写真の右の横丁の奥に小さく、赤い日よけが写っている店。昔の航空写真を見ると、この場所には三軒長屋と思える家が2棟、縦に並んでいる。その端の1戸が残っているのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ニコニコ湯。足立区千住柳町2
左:1988(昭和63)年12月11日
右:2012(平成24)年1月15日

大正通りにある銭湯。いつの工事になるのかは知らないが、通りに面した正面を改装して「湯あそびひろばニコニコ湯」の字をかわいい書体で取り付けている。ニコニコ湯の名前はそのときに付けられたわけではなく、左写真の撮影時の住宅地図でも同じである。昭和27年の創業というが、最初からニコニコ湯だったのかもしれない。千住柳町の北の境界は「ニコニコ商店街」の通りだが、ニコニコ湯は千住柳町の南端に近いところにあり、お互いに距離があって関連性は薄いと思う。
周辺は空襲で焼き払われた地区のようで、ニコニコ湯の伝統的な銭湯建築は戦後の創業時のものだ。正面入り口の写真を撮っていなかったのを反省している。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »