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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




太安堂。品川区東大井1-20。2013(平成25)年9月22日

京急鮫洲駅から旧東海道へ出る間の横丁。鮫洲運転試験場で試験を受ける人を相手にした代書屋が今でも2・3軒残っている。ぼくが運転免許の試験を受けたのは1967年だったが、やはりこの駅前の代書屋で書類を整え(タイプして作成してもらう)顔写真を撮って試験場に向かった。顔写真は自分で用意しなければならなかったので、主にそれが目的だった。当時は軒並み代書屋が並んでいたのではなかっただろうか。今はいったい誰が利用するのかと、代書屋の存在自体が不思議である。
上の写真は旧東海道から入ってところで、奥が鮫洲駅。写真左に並ぶ商店長屋は昭和20・30年代に建ったもののようだ。ごく最近の写真のつもりでいたが、すでに手前の太安堂と奥の白い長屋(はまやタバコ店、一番堂)が建て替わっている。その間の長屋に入っている「バスケット(喫茶店)」「中田堂瀬能事務所(代書)」はかなり長いこと営業しているようだ。「あんず(飲み屋)」の日よけのテントは「テルヤ(洋服店)」だったときのまま。


中田堂。東大井1-20。2009(平成21)年4月12日

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国立予防衛生研究所。品川区上大崎2-9。1987(昭和62)年11月22日

国立予防衛生研究所はJR目黒駅から北へ200mのところにあった。現在はUR都市機構の「シティコート目黒」という4棟484戸という、2002年に完成した大きい団地になっている。
建物は『日本近代建築総覧』では「国立予防衛生研究所本館、建築年=昭和7年、備考=旧海軍大学施設」とあるだけ。海軍大学校として建てられたもので、『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年、2400円)には写真のキャプションに「海軍大学校/竣工年=昭和2年、設計者=大蔵省 予防医学研究所に転用されて現存。直線を基調に緊張感のある意匠」とある。大蔵省設計の建物一般に言えるが、特別な特徴がない公共建築の外観に見える。
『ウィキペディア>海軍大学校』によれば、築地から上大崎へ移ってきたのは1932(昭和7)年なので建築年もその年だろう。海軍大学校の以前は「陸軍衛生材料廠」があった。海軍大学校は高校を卒業して入るのではない。海軍に入って10年ほども実務を積んで優秀と認められた士官が選ばれて入学する。募集人員は10〜20名前後という。
『ウィキペディア>国立感染症研究所』によれば、国立予防衛生研究所は厚生労働省の施設として1947年に設立された「予防衛生研究所」が前身。1949(昭和24)年6月1日、「国立予防衛生研究所」に改称。1955(昭和30)年3月23日に海軍大学校跡地に移転してきた。1997(平成9)年、「国立感染症研究所」に改名。1992(平成4)年10月、新宿区の厚生省戸山研究庁舎に移転した。建物は1999(平成11)年に取り壊されたという。


国立予防衛生研究所。1987(昭和62)年11月22日

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内田祥三邸。港区西麻布4-7。1988(昭和63)年4月17日

広尾ガーデンに新たにつけられた道路を北へ歩いていて港区との境の道路に出たところで出あった洋館だ。1枚しか撮らなかったのが残念。写真右へいくと堀田坂(ほったざか)の上になり、現在は「堀田坂ハウス」(1991年5月築、5階地下2階12戸)という低層の高級賃貸マンションが建つ。洋館は1990年春頃に取り壊されたという(『坂のある町の今昔>北条坂、堀田坂』)。
『日本近代建築総覧』では「内田邸、港区西麻布4-7-6、建築年=昭和2年、構造=RC2階建、設計=内田祥三、施工=島藤某、備考=その後一年一室の割合で完成」。施工者の「某」は名前が判らず「なにがし」の意味。備考の意味は昭和2年から完成までに何年かかかったということだろうか。写真では3階にみえる。『建物紹介 東京都港区』というサイトには「地下1階地上3階、施工:大林組」とある。
東京大学の建物群で有名な内田祥三の自邸である。内田の名前は当ブログでは初出かもしれない。スクラッチタイル貼りの1階と塀が、「内田ゴシック」と言われるデザインに思える。
内田邸は戦後、GHQに接収され、10年ほどソ連大使館として使われた(『INAX REPORT 172号 生き続ける建築6内田祥三』)。その間、内田家の人は和館に住んだという。洋館の右に写っている入母屋屋根の家がそれだろうか。

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一ツ木通り。1985(昭和60)年1月15日
左:オレンジボックス。港区赤坂3-19
右:ディアシティ赤坂一ツ木館。赤坂4-2

30年前に撮った赤坂の繁華街の写真。今と違ってずらっと車が駐車している。
左写真右端のオレンジ色のビルが今もあるオレンジボック。1979年3月に建った5階建てのビルで飲食店やライブハウスが入っている。その向かい側に右写真のディアシティ赤坂一ツ木館。1984年11月築の7階建て56戸のマンションだが、1・2階には飲食店を中心の店舗、地下1階は「ぷらっと赤坂小路」という飲食街だ。



左:清峰堂不動産(みすじ通り)。赤坂3-10
右:マドモアゼルナワ美容室(赤坂田町通り)。赤坂3-7。1985(昭和60)年1月15日

左写真は黄色の看板の「清峰堂不動産」が現在あるところと同じなら、赤坂3-10、向かい(写真右側)が赤坂3-19といった辺りになる。この裏通りは一ツ木通りの東に並行している「みすじ通り」という。
右写真の美容院は街灯に「赤坂見附田町(たまち)通り」とあるから、みすじ通りの東の通りだ。写真右のビルの壁に似たビルがあるからそこだろうと決めて赤坂3-7としたが自信はない。

ぼくは赤坂という場所とはほとんど縁がないが、自動車免許をとるのに「赤坂自動車練習場」へ通った。1966年のことで、ビートルズ来日の年である。赤坂教習所(普通はそういったと思う)はTBSのすぐ南、住所は赤坂2-14、現在「国際新赤坂ビル東館」が建っているところにあった。土地勘がないから路上に出てもどこを走っているのか判らない。いつのまにか神宮外苑を走っていたり、薬研坂から青山通りへ出る坂道発進に緊張した。
今はTBSの建物は建て替えられ、周囲もすっかり変わってしまったと思うが、ぼくの中では相変わらずTBS会館と東京放送、その向かいにアマンドというイメージだ。

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カナダ大使館の門。港区赤坂7-3。1988(昭和63)年4月17日

青山通り沿いのカナダ大使館の西の横町に入ったところにあった門。現在、大使館のビル(1991年竣工)が建っているところだ。写真では使われていないような感じだ。青山通りに向いた門もあったようなので、そちらが正門として使われていたのだろう。
大使館敷地の奥に建つ大使公邸(『港区ゆかりの人物データベース>カナダ大使公邸』)は1933(昭和8)年の建設だが、門もあるいは同時期のものなのかもしれない。

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港区役所赤坂支所。港区赤坂4-8
1988(昭和63)年4月17日

青山通りの東宮御所の向かい側に建つ「赤坂コミュニティーぷらざ」の先代の建物。赤坂区役所として建てられ、1947年に芝区、麻布区と合併して港区が成立すると、その支所になった。『日本近代建築総覧』では「港区役所赤坂出張所(旧赤坂区役所)、港区赤坂4-18、建築年=昭和3年頃、構造=RC2階建、設計=東京市」。外観のデザインは震災復興期の折衷主義のようだが、角の正面の単純な平面とそこから左右後方へ伸びる庇の線などが表現派風な感じを受ける。
『1960年代の東京』(写真:池田信、解説:松山巌、毎日新聞社、2008年、2800円)に1965年撮影の写真が載っている。その写真では正面玄関の前の植え込みはなく、玄関上のバルコニーの緑の壁はタイル張りと分かる。そこの文字も「港区役所/赤坂支所」で、後に取り換えられている。また、玄関の左側に「赤坂公会堂」の袖看板が目立つ。
ネットでは『港区>広報みなと2015.08.11写真今昔物語 第15話』に1966年撮影の写真を載せている。

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ARUN’S。品川区南品川5-11。2015(平成27)年5月30日

東急大井町線の大井町駅前の通り(都道420線)から北東へ入るすずらん通りがゼームス坂通りにぶつかる、その向かい側。ARUN’S(オルンズ)は日よけの看板によると、バングラデシュ料理、および一杯やれるバー。モルタル塗の看板建築の横にバラックの倉庫か店舗がくっついている建物だ。1981(昭和56)年の住宅地図では「日の出寿し」。

下の写真は1枚目写真の右に続く家並み。近年、正面を改装しているようだが、看板建築が並んでいる。左から、石川サイクル、割烹釣り仲間、二軒長屋のマツドコ理容とスナック・ハイマート。1981(昭和56)年の住宅地図では「藤林自転車、立川食堂、リハツマツドコ、バーハイマート」。


釣り仲間。南品川5-11。2015(平成27)年5月30日

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辰巳屋。品川区南品川5-9。2015(平成27)年5月30日

小林自転車店の向かいの焼き鳥・弁当の店。2階の前面に壁を切り取ったようなもので飾っていて、銅板貼り看板建築に見えてしまう商家だ。
辰巳屋から100mほど坂を上ると「秋田ハウス」という3階建てのアパートがある。そこが「ヤオ」という床屋があったところで、『日本近代建築総覧』に「理髪ヤオ、南品川5-10-46、木造2階建て、銅板貼」で載っている。この建物の貴重な写真が『東京レトロ>大井町は良い建築の多い町(失礼)』および『都市徘徊blog>ゼームス坂の理容室』で見ることができる。上端部を切り妻屋根のようにして、その下にロンバルディア帯の飾り、2階の窓の上に3連のアーチの飾りがある。

下の写真はゼームス坂通りの南品川五丁目交差点から第一京浜へ出る方へいった中ほど。二軒長屋と思われる。


幸助(居酒屋)。南品川5-8。2015(平成27)年5月30日

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みの屋海苔店、小林自転車店。品川区南品川6-7。2015(平成27)年5月30日

ゼームス坂通り南品川五丁目交差点からすぐ南のところ。銅板張りの看板建築が2棟並んで残っている。向かい側には辰巳屋の銅板貼り看板建築が見られて、名所といっていい場所だ。
みの屋海苔店は普通なら2軒長屋に当たる広い幅がある。上部の壁を二分割している柱のようなものが、中央ではなく右に寄っているので、二軒長屋として建ったのではないようだ。2階の窓の間に店名と商標を入れた看板が額縁に入ったような感じで入っている。戸袋を兼ねたものらしい。この看板の銅板のピースが、それを囲む壁のピースの4分の1の大きさで、けっこう力の入った看板だ。
小林自転車店は二軒長屋かと思うのだが、建物自体は左右対称ではない。店舗にしている方が半間ほど広い。幅の狭い方は裾の部分をみの屋の造りにしているから、みの屋が倉庫にでも借りているらしい。
小林商店の右の奥村不動産は古い長屋の正面を看板建築風に改装したもののようである。



みの屋海苔店、小林自転車店。南品川6-7。2015(平成27)年5月30日

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杉浦青果店。品川区南品川6-7。2015(平成27)年5月30日

ゼームス坂の通りの南品川五丁目交差点の角に八百屋だった銅板貼り看板建築が残っている。坂道としてのゼームス坂の登り口になるところで、ゼームス坂沿いにある看板建築を代表するような間口の広い商家だ。残念なことにすでに店をたたんでしまった。『'昭和の街の模型>近所の看板建築』に営業中の写真が載っている。
しながわ観光協会>杉浦商店』には、「エンジュの並木が美しいゼームス坂下、二日市交差点角にある看板建築、昔ながらの八百屋」とある。以前は「二日市交差点」という名称だったのか、あるいは近所の人が使う通称だったのだろう。写真右奥にいくとと「品川区立二日市公園」がある。1889(明治22)年に6町村が合併して品川町が成立する。その6町村の中に「二日五日市村」がある。毎月2日と5日に市が立つ農村といった感じだ。品川町成立後は、二日五日市村は「品川町大字二日市」となったが、その二日市が公園の名前として継承されているのだろう。



浅田電気店。南品川6-7。2015(平成27)年5月30日

杉浦商店のとなりは三浦乾物店が建て替わった家で、その隣が浅田電気店。出桁造りの家の2階の前面に看板を取り付けたように見えて、看板建築とはいいにくい。右写真は建物の裏側。手前の駐車場は「加藤製作所光秀寮」という4階建てのマンションがあった跡地。

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