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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





上:阪口銅器製作所、左:旧宮川商店
品川区南品川4-17。2015(平成27)年5月30日

阪口銅器製作所はかとうフォトの向かい側。「品川銀座」の提灯がかかっている。ゼームス坂下の、角に天理教教会がある交差点から北が「品川銀座商栄会」の品川銀座商店街になるが、商店はポツンポツンとあるだけで、商店街の体裁にはなっていない。
阪口銅器は外観からはすでに廃業していると思える。阪口銅器とその左の看板建築にした家とで二軒長屋で、航空写真で見ると、阪口銅器の裏に見える切り妻屋根の家は、坂口銅器の二軒長屋とほぼ同じ造りの長屋らしい。
宮川商店だった家は大野美容院の交差点を西へ入ったところにある。なにを商っていたのだろうか。「明睦會々員」の表札が残っている。



丹羽クリーニング店。南品川4-17。2015(平成27)年5月30日

阪口銅器から南へすぐのところ。銅版貼り看板建築の丹羽クリーニング店の左右の3階建ての家も古い看板建築を改修して使っているのかもしれない。
丹羽クリーニングから北へ3軒目に「モチタ(持田)クリーニング店」がある。この店が銅版貼り看板建築の長屋だったときの写真が『東京レトロ>大井町は良い建築の多い町(失礼)』に載っている。1995年頃の撮影という。

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吉野屋豆腐店。品川区南品川4-19。2015(平成27)年5月30日

大野美容院の横を東へ行くと南品川四郵便局の前を通って100m足らずで第一京浜国道に出る。周囲は住宅地でアパートも多いようだ。写真の下見板の日本家屋は第一京浜に出る手前にある。写真右の吉野屋豆腐店は、あるサイトに創業80年とあった。建物は看板建築風だが戦後に建て替えたもののようだ。



かとうフォト。南品川4-18。2015(平成27)年5月30日

ゼームス坂下の大野美容院から少し北のところ。出桁造りの家が2棟くっついて並んでいるようだが、屋根は境界のところでお互いに食い込んでいるので、あるいは合わせて1棟の家なのかもしれない。かとうフォトはDPEの店ようだが営業しているのかどうか。右の家は1981年の地図では「ワコールショップ・アン」。同じ地図で、写真左の真新しい住宅は「大ばやしそば」。

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今村洋品店、大野美容院。南品川4-4。2015(平成27)年5月30日

看板建築が並んでいるという評判のゼームス坂を今年になって初めて歩いた。JR大井町駅から歩き始めたのだが、当ブログの今までの慣習で北の坂下の方から見ていく。
今村洋品店と大野美容院が入った家は出桁造りの日本家屋で、屋根は寄棟を直角につないで両端は切り妻といった塩梅だ。北側は全面が波トタン貼りで、裁ち落した面のようなので、昔の航空写真を見るとはたして店がもう1軒入るだけ伸びていた。今でもかなり大きい家だが、かつては三軒長屋といえるのかもしれない。



左:元二軒長屋。上:今村洋品店、大野美容院
南品川4-4。2015(平成27)年5月30日
左写真は大野美容院の後ろの家。二軒長屋だったうちの1軒が残っているもの。

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天笠輪店。品川区南品川3-5。2009(平成21)年4月12日

旧東海道の品川寺(ほんせんじ)の山門から南へ60mほどで海雲寺の山門である。写真はその脇にある銅板張りの二軒長屋。屋根の庇が前に出ているので看板建築とは言いにくい。建物の表面右側は以前は自転車屋で、銅板の壁に「天笠輪店」と「マリヤー號・光號・ナトリー號」という店名と商品名の文字が残っている。自転車はどこのメーカーのものか勿論判らない。店独自で組み立てたものかもしれないとも思う。

下の写真は天笠輪店の隣の理髪店。二軒長屋の左の店で、看板建築風に改装している。ストリートビューで見ると日よけのテントが外されている。閉店したのだろうか。


ホリ理容室。南品川3-5。2004(平成16)年1月11日

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竹内外科医院。品川区南品川3-6。2004(平成16)年1月11日

南北の旧東海道と京急青物横町駅前の東西の通り(都道421号=ジュネーブ平和通り)との交差点間近に洋風下見板の洋館がある。写真では「竹内外科」。明治45年に建てられたものという。たぶん医院としての開院もそのときなのだろう。玄関の柱にはスクラッチタイルが貼られ、欄間にはステンドグラスがはまっている。『日本近代建築総覧』では「竹内外科、建築年=明治末~大正初、初代院長は戸塚海軍医総監」という記載。
2008年1月からは耳鼻咽喉科に替わり、医院名を「竹内医院」と変えた。世代交代だろうか。看板も「竹内醫院耳鼻咽喉科」となった。旧字の「醫」は建物の外観に合わせたのだろう。最近は外壁を塗りなおしていたから当分はこの建物を使っていくのだろう。



鈴木タバコ店。南品川3-5。2004(平成16)年1月11日

竹内医院から100mほど南に品川寺(ほんせんじ)の山門が旧東海道に向けている。その門前に鈴木タバコ店の出桁造りの商家がある。大正時代の建物らしい。正面右に昔のままのショーウインドーを改装して自販機を置いている。さいわい、上部のステンドグラスの部分は残っている。


矢場靴店。南品川3-5
2009(平成21)年4月12日

竹内医院の交差点から京急青物横町の方へ少しいったところ。『おおよこチャンネル(青物横丁商店街)』には、「おばちゃんシューズ大量仕入れ」とか「若者の靴は正直置いてません」とあった。なにやら確信をもって商売しているようだ。隣の銅版貼り看板建築は、店舗部分を改装して貸店舗になった。

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がやがや。品川区南品川2-17。2000(平成12)年3月1日

旧東海道とジュネーブ平和通りとの交差点、東海道南品川交差点から旧東海道を少し北へ入ったところにあった建物。現在は2011年2月に建った「アスキー南品川Ⅲ」という4階建てのマンションに替わったが、最近まであったようだ。1981年の住宅地図では「レストラン品川会館/養老の瀧」、1999年の地図でも「養老乃瀧青物横丁店」である。写真の「がやがや」は店が変わったばかりの頃ということになる。



居酒屋のんべい。南品川2-17。2000(平成12)年3月1日

がやがやのすぐ南に並んでいた建物。現在は「菱倉ビル」という4階建てのビルに建て替わった。そのビルの完成が2002年12月なので写真の建物は撮影後1年くらいで取り壊されたのだろう。1981年の地図では「そば大海老」。中華料理なら「だいかいろう」なのだろうが、建物は和風だから日本蕎麦の「おおえび」と思える。破風のところに「大海老」の看板がかかったままだ。現在のビルの玄関の横に「大海老」の銘板があり、建物のオーナーが変わっていないことを示している。

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松岡畳店。品川区南品川2-8。2000(平成12)年3月1日

旧東海道を南下していくと商店街は「品川宿場通り南会」から「青物横丁商店街」に変わる。街灯は同じものが続いていて、その表示板の文字が変わるだけで境目ははっきりしない。
松岡畳店の古い家屋は旧東海道沿いに残る古い家屋の中でも有名な1軒だ。ネットの情報では、松岡畳店は1779(安永8)年の創業で、現在の店主は7代目という。建物は1915(大正4)に建てられた、二階が低い中二階の形式。建築費が安く上がったようだ。この建て方は都内では残っている建物はいくつもないと思われる貴重なものだ。



長さん。南品川2-7。2000(平成12)年3月1日

松岡畳店の隣が食器・厨房器具の坂巻商店で、その家の側面を見ると蔵造風にみえる古い家だ。その家の隣が現在は「えいちゃん」という居酒屋の写真の家。「長さん」から替わったのは2009年10月という。写真ではベランダのモルタル壁の囲いがテントで隠されているが、現在はその壁の「鮮魚/魚長/仕出し/御料理」の文字のレリーフを見せている。元々は「魚長」という魚屋だった。
写真左に鳥居が見える。1981年の地図では「萩原木材」で、その屋敷神のものらしい。


佐藤アパート。南品川2-7
2009(平成21)年4月12日

えいちゃんから3軒ほど南へ行ったところの横町を西へ入ると、正面に鳥居が見える。諏訪神社である。写真の家は諏訪神社の裏手にあり、写真右の石垣が神社のもの。地図では「佐藤アパート」で、壁の一部を洋風の下見板にした古い家だ。アパートとして建てられたのか、あるいは民家をアパートに改装したものなのだろうか?

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藤栄商会。品川区南品川2-17。2000(平成12)年3月1日

旧東海道の南品川2丁目の15年前の家並み。ジュネーブ平和通りとの交差点から北へ200mほどのところ。写真左のマンション1階の「ショップ99」は今は「ローソンストア100」で、店は続いているともいえる。その右の2軒は、今は取り壊されて駐車場に替わった。クリーニング店から右は今も変わっていない。
撮影時の地図では、写真左手の看板建築風の家は「藤栄商会」と「東京金型工業」。その右の家は「ユニ電機」。藤栄商会は「Toei」の看板で、店先で売っているのは傘だろうか?

下の写真は上の写真のところから南へ75mのところ。写真左手の長屋風の家はしもた屋になっているが、スナックだったような造りだ。今はビルに建て替わった。その右の松林堂(定食屋)から先は今も変わっていない。松林堂は創業60年という古い店だという。


松林堂。南品川2-17。2000(平成12)年3月1日

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木庭印房、林理髪店。品川区南品川2-11。左:2000(平成12)年3月1日、右:2009(平成21)年4月12日

旧東海道の目黒川から南へ340mほどのところ。古い二軒長屋が残っている。この辺りは「品川宿場通り南会」という商店街が組織されている。以前は「南品川商工会」といっていたのを2001年4月に改名したという。左写真は旧商店街名の頃で、街灯が右写真とは異なる。改名を機に交換したしたのかもしれない。
長屋の左は「青波堂木庭印房」。右は看板がないから商売はやめたようだが、床屋だったのだろうとすぐ分かる造りである。1981年の地図では「ハヤシバーバー」。



左:富田屋工業所。南品川2-10。2004(平成16)年1月11日
右:明立電気工業所。南品川2-10。2000(平成12)年3月1日

富田屋工業所は木庭印房から数軒南のところ。『しながわ観光協会>富田屋工業所・町家造り』によると、大正7年に建てられた町屋造りの商家で、水道工事の店。伊東深水(1898-1872、朝丘雪路は実娘)がしばしば訪れ、二階をアトリエ代わりに芸者衆を写生していたという。深水は1919(大正8)年に結婚して東京府荏原郡大井町南浜川(現在の品川区南大井)に居を構えた(品川区>品川人物伝 第35回)から、そこから南品川へ出没したのだろうか。
現在は、家は元の姿に近いように修復されたようで、横のトタン張りが下見板に回復され、1階の軒の上に右から書きの看板が取り付けられた。その看板には「創業明治二十七年」とある。
明立電気工業所は富田屋から3軒南、常行寺への参道との角にあった家。ただの民家にしか見えないが「明立電気工業所」の表札がかかっている。現在は取り壊されて時間貸しの駐車場に。

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大門交差点。港区浜松町2-1。1989(平成1)年11月23日

第一京浜の大門交差点からJR浜松町駅の方を撮った写真。写っている2階建ての建物は取り壊されてしまっているが、そこに新しいビルが建ったわけではないので、現在の景観もあまり変わりがない。写真左手奥はいうまでもなく世界貿易センタービルで、その手前の2階建てのビルのところは空地だったが、いよいよ再開発の工事が始まったらしい。そこには29階建て、高さ156mのビルが建つ。それが完成した後、世界貿易センタービルも建てなおす計画で、2019年に解体する予定という。
世界貿易センタービルは1970(昭和45)年3月の竣工で、使用期間は解体時で約50年。この位の年数なら建て替えられるビルは普通にあるのかもしれないが、やはり驚いてしまう。霞が関ビルと共に日本の高度成長の象徴のようなビルといえると思う。建て替わってしまうと、「世界貿易センタービルの跡地に建った」と過去が語られるのだろう。そうなる前に、世界貿易センタービルが建つ以前はどうだったかここに書き残しておこう。とはいってもネットによる情報だけなので、よくは判らないのだが。
世界貿易センタービルディング>企業情報>エリア紹介』には「終戦後も一面焼け野原と化した浜松町駅周辺にただひとつ残されていた都電車庫が、復興に伴って賑わいを見せていました」とあるから都電車庫だったわけだ。「車庫が賑わいを見せる」というのが分からないが、車庫の周辺が、ということなのだろう。
『東京今昔街角散歩』(Jtbパブリッシング、2012年)の昭和5年の地図には「昭和通」(第一京浜)から「車庫」へ、引き込み線が描かれている。そこで昭和22年の航空写真を見ると、引き込み線は確認できず、車庫に電車も写っていないようだ。その時点では車庫ではなくなっていたのだろうか? また、ネット検索すると「東京市電気局浜松町工場」(電気局は今の交通局に当たる)というのが出てくる。『大林組70年略史』には、1919(大正8)年8月、「東京市電気局浜松町工場塗工場他」が竣工したという記載がある。たぶん、市電の車両工場があって、関東大震災後それが芝浦にあった支所に移転し、芝浦工場に発展した。浜松町の跡地は車庫にしたのかと推定できる。現在は東京都交通局大門庁舎がある。



東電サービスステーション。浜松町2-3。1990(平成2)年

1枚目写真の世界貿易センタービルの手前に写っている建物。1969年の地図に「東京電力サービスステーション」となっている。1958年の区分地図に「東電芝出張所」とあるのも同じ建物だろう。昭和22年と38年の航空写真に写っているから戦前の建物らしい。陸屋根であり、RC造だったので空襲で周りは焼けてもなんとか残ったのかもしれない。

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