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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




club polaris。静岡県熱海市銀座町7。2015(平成27)年11月20日

熱海銀座商店街の中央部西側、銀座町(ぎんざちょう)7番地の全域が写っている。店は右(北)から、club polaris、小宮袋物店、パインツリー(喫茶)、スカイホール(パチンコ)だった店、高橋呉服洋服店。建物は2・3階だがRC造に見える。1950(昭和25)年4月の熱海大火の後、昭和30年頃に建てられたものと思うが、耐火を意識して建てているのだろう。
ストリートビューで現在の様子を見ると、スカイホールだった店がマルヤという宿泊施設・カフェになっている(2015年11月開業)。ここは少し古い商店街の地図に「丸屋喜助商店」となっているから経営者は変わっていないのかもしれない。高橋呉服洋服店は廃業した様子だ。




上:スカイホール。銀座町7。2009(平成21)年2月20日
左:高橋呉服洋服店。銀座町7。2015(平成27)年11月20日

シャッターに商店街の地図を設置している建物には、アーケードに「パチンコスカイホール」の看板が下がり、壁には「PARLOR SKY HALL」の字が残っている。
高橋呉服洋服店は角に塔屋のような飾りをつけて、今では割とレトロな外観だ。写真のように1階は改装されて、店は廃業したかと思える。今は「コミュニティスペース ひまわり」の看板が玄関の脇に出ている。2009年の写真では店舗の一部が写っている。

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小町通り。鎌倉市小町2-1、10。2016(平成28)年6月29日

小町通りの中間辺りで、アーチのすぐ後ろに扇川を渡す瀬戸橋があるのだが、人が前にいてまったく分からない。小さな橋で欄干が低いから歩いていても気が付かない人もいると思う。扇川という名前は上流の扇ガ谷(おうぎがやつ)から付いたものだろう。また、瀬戸橋というのは小町通りが昔は「瀬戸小路」と言ったからで、小町通りというようになったのは戦後のことだという。
橋はRC造で北東の親柱に「昭和貮拾七年拾壹月竣工」と彫られている。文字はへこんだ枠の中に彫られているが、元はそこにはめ込まれた銘板があったのだろう。「鎌倉小町商店会」は架橋と同じ昭和27年(1952)に発足した。

橋の袂の「富士洋傘小町店」は鎌倉市梶原に本社があり、小町店の出店は1960(昭和35)年。店舗は扇川の上にかぶさるように建てたものだろう。



瀬戸橋から見た扇川と「瀬戸橋」と彫られた親柱。2016(平成28)年6月29日



中の下馬橋。小町2-10。2016(平成28)年6月29日

扇川は瀬戸橋から下流は暗渠になり、若宮大路に出てところで南に曲がっていたようだ。そこに架かっていた橋の欄干が残っている。ネットでは「中の下馬橋」の跡といわれている。橋の名前が分からないので、ここでもその名前を使うが、ほかの名前があったように思える。
扇川は若宮大路に沿って南下し、鎌倉郵便局の辺りで通りを横断すると、水面が現れる。そこから南へ、滑川に合流するまで170m余りだ。

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加登屋。神奈川県足柄上郡山北町山北1825。2016(平成28)年4月22日

川村屋呉服店から東へ3軒先の加登屋。戸袋の看板に右から書きで「和洋御料理」とある。『4travel.jp>丹沢・大山旅行記(2010.04.09)』によると、元は旅館。山北町に出張してくる商人や会社員を相手の駅前旅館だったのだろう。料理店も今は営業していない。



村越木材。山北町山北1825。2016(平成28)年4月22日

加登屋から1軒おいた並び。切妻屋根の先端を折り曲げたような屋根は「はかま腰屋根」という。それが2棟並んでいる。「村越木材」だった建物。駅前商店街の通りから県道76号までの広大な敷地に木材を置いて営業していたようだが、たぶん10年前くらいには廃業してしまった様子だ。今は写真の2棟を残して敷地はだだっ広い駐車場のようになっている。写真の右の棟が事務所、左が住居と思える。下の写真が事務所の裏側。
古い航空写真を見ると、県道沿いに大きな倉庫のような建物がある。たぶん製材所だった建物だろう。『写真撮っけど,さすけねがい?>2011年4月12日 御殿場線 桜の山北 春爛漫』に、村越木材の、木材を立てかけて置く屋根のある置場と、一部だが県道沿いにあった建物が写っている写真がある。この写真も貴重だが、町営マンション「サンライズやまきた」建設のため取り壊された飲食店などが記録されているのが凄い。


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横山酒店。神奈川県足柄上郡山北町山北1927。2016(平成28)年4月22日

山北駅北口から東西に御殿場線と平行に通っているのが「山北駅前商店街」。駅前広場に対して洋館風の「タケイ美容室」と「木川薬局」の間を県道76号線に出る通りが北に向かっている。そこを境に商店街は東西に分けられる。「東大通り」のほうは、県道74号にぶつかる400mほどの通りかと思うが、西大通りより商店街という感じは希薄である。
駅前のタケイ美容室の隣が、出桁造りの「横山酒店」。『横須賀建築探偵団>建築探偵のアングル38』によると、タケイ美容室と同じく1928年(昭和3年)に建てられという。2階の屋根の下に出桁造りにしたような庇があって、屋根が二重に見える。



川村屋呉服店。山北町山北1927。2016(平成28)年4月22日

山北駅前商店街の東へ行った、県道76号へ出る横丁との角が「趣味のきもの」と書かれた白い暖簾がしゃれている「川村屋」。横の壁は1階が石積みだか石貼りだかで、2階が漆喰だかモルタル塗りで、右から書きで「川村屋」のレリーフがある。老舗なのだろう。正面横に蔵が付いている。



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露木米店。神奈川県足柄上郡山北町山北2799
2016(平成28)年4月22日

県道76号線(主要地方道山北藤野線)の、山北駅入口交差点から西へ620mのところ。露木米店の店舗の右に富士急湘南バスの「萩原中」バス停がある。米店は正式には「露木勝兵ヱ商店」で、入り口のガラスドアには「スーパーかつべえ」とあり、食品全般をそろえているらしい。会社の HP には「明治28年創業」をうたっている。
なんとも変わった屋根で、なにも知らなければ最近建ったコンビニかとも見えてしまう。『神奈川の近代建築探訪』の「露木勝兵ヱ商店(スーパーかつべえ)」には「全体を赤いトタンで囲われ、屋根もまた、黒のトタンで葺かれていますが、ふっくらとドーム状に仕上げられていて、その四隅には突起状の装飾があります」とあり、その通りの写真である。現在では屋根と壁がきれいに塗り直されている。突起物の装飾が取り外されたのが残念だ。『神奈川の近代建築探訪』では、店の方の話で100年くらいは経つ建物と聞いて、昭和はじめ頃のものかと推定している。
店のHPに、大正初期とする写真が載っている。それが現在の店舗とほとんど同じ外観でである。明治末に建てられた建物ということになりそうだ。その写真では前面が8枚のガラスの引き戸で、屋根の下と庇の間の壁には横長の回転窓が4枚並んでいる。なによりドーム状の屋根が不思議で、どこから出てきた形なのだろう? 明治期に建った洋風の店舗建築だとすれば、なんとも面白い建物が今に残っていることになる。



露木米店の後ろ。住居だろうか? 店舗だったようにも見える。角にあるタバコ自動販売機は初めて見るタイプだ。右上に硬貨投入口、その下に釣銭が出る穴。選択ボタンは前に出ている部分の上の縁に並んでいるボタン? 傾斜している面に見本が入っていたのだろうか? 商品は押したボタンの下に出てきたのだろうか?



関鉄次郎商店。山北町2796。2016(平成28)年4月22日

露木米店の裏手にある平屋の看板建築。セメントなどの土木建築資材の卸売業の店。あっさりした外観だが、前面中央の看板と軒灯は貫禄がある。昭和初期の建物だろうか?

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大勝パーマ。神奈川県横浜市中区山下町186
2002(平成14)年1月19日

横浜中華街の上海路にあったパーマネント店。今も建物は健在で、2007年12月から餃子専門店「百八十六番餃子」になっている。建物は戦後の看板建築といっていいだろう。二階のベランダとその手すりが印象的だ。
大勝パーマの素晴らしい写真を載せている『週刊 横濱80’s>中華街』では、1959年(昭和34年)の開業としている。建物は『ヨコハマ経済新聞2007.12.27』では、「築60年以上」だから、戦後すぐの1947(昭和22)年頃になりそうだ。

中華街ランチ探偵団「酔華」>中国理髪「發記」の跡地で改築工事が』によれば、1枚目写真右端の家は「発記」という中国理髪の店だった。この記事が書かれた2007年の数年前に廃業したそうだ。『横浜市>刊行物>中区解体新書』によると、ドアに《発記中国理髪》と書かれていて、店主は毛さんといい、競馬中継を横目で見ながらやってくれたとか。現在地での開業は昭和21年という。

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旅館オリエンタル。神奈川県横浜市中区山下町187
2009(平成21)年7月26日
右写真は2014年3月撮影のストリートビュー

横浜中華街の南門通り(南門シルクロード)にあった小さなホテル。その正体がしれない存在感で結構注目されていた物件で、ネットでもかなり取り上げられている。好奇心が抑えられなくなって、宿泊して、その体験をレポートしてくれたサイトも何件かある。なぜか皆さん、3階の部屋へ入れられている。
ネットの情報によると、1960(昭和35)年頃に、船員用のホテルとして開業したらしい。『はまれぽ.com>中華街にある怪しい建物、オリエンタルホテルは営業してるのか!?』では、「近くに造船所があり、台湾などから船が乗り入れ船員さんで賑わう街だった」そうだ。
建物はRC3階建てらしく、正面はタイル貼り、屋上に住宅風の家屋を増築している。玄関ドアの斜めに取り付けた引手のバーがレトロである。看板には「旅館オリエンタル」の他「HOTEL ORIENNTAL」と「東方旅社」の表記がある。
2015年に取り壊されて、2016年6月に「オリエントビル」という3階建てのビルに替わった。また、ホテルの右(北)の駐車場には2017年3月に9階建ての「ホテルリブマックス横浜元町駅前」が建った。

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北京堂。神奈川県横浜市中区山下町166。2002(平成14)年1月19日

横浜中華街の関帝廟通りを西から入ってすぐのところ。今は写真左端の北京堂だけが残っている。上の写真では店の店名が全部は判らない。下の写真は2009年撮影のストリートビューで北京堂の方から見たもの。建物は2002年の写真と変わらないので、それで見てみると、左から「北京堂(中国骨董)」「横濱屋(猫の雑貨)/カメラ」「緑チャイナ祖蔭彫刻屋」「tef tef(アジア雑貨、2007年開店、2010年4月看板建築風の現店舗完成)」「金福楼(中華料理、2014年9月で閉店)」。


2009年8月撮影のストリートビュー



愛龍號の三軒長屋。山下町133。2002(平成14)年1月19日

関帝廟通りの山下町公園の並びに食品などの商店が並んでいる。写真の看板建築風の三軒長屋は今も残っている。写真では画素数が低くて左の店の看板が読めないが、食品を売っているようだ。今は「雅秀殿」という豚まんなどの店になっている。「秀味園(台湾料理)」と「愛龍號(中華材料)」は変らない。

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インペリアルビル。神奈川県横浜市中区山下町25。2009(平成21)年7月26日

一見、どうということのない普通のビルである。隣の上田ビルは1972年に建ったものだが、同じ頃のビルにも見える。これが1930(昭和5)年に建った、大さん橋入口の「ジャパンエクスプレスビル」や海岸通りの県庁向かいの「昭和ビル」と同じ設計者による、関東大震災復興期の建物と分かると、改めてつくづくと眺めることになる。
『日本近代建築総覧』では「インペリアルビル、中区山下町25、建築年=昭和5年、構造=RC4階建、設計者=川崎鉄三、施工者=白井工務店」。
はまれぽ.com>…「インペリアルビル」に突撃!(2015.09.29)』、及び『ウィキペディア』によると、外国人専用アパートメントホテル(長期滞在型のホテル、24室)として建てられた。終戦後は約10年間米軍に接収された。その時期に5階部分の増築がなされている。
川崎鉄三は生没年不明というのが不思議で、親族などはどうなっているのだろう? 1912(明治45)年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)建築科卒業。1925(大正14)年に「若尾ビル」建築のために横浜に来た。川崎鉄三が横浜で手掛けたのは7棟という。当ブログでは今まで挙げてきた他に「加藤電気工業」を収録している。
インペリアルビルは当時としては超モダンな外観だったと思われるが、そのデザインはどこから出てきたものなのだろう? 施主の意向なら、施主が建築の最先端の動向について知識があったことになりそうだが、施主は保守的であることが通り相場だ。余計な飾りはなくていいから、という注文だったのだろうか?
写真では1階に楕円形の窓があるが、今はビルオーナーの意向で原形に戻す形に改装された。『神奈川の近代建築探訪インペリアルビル』には、楕円形の窓が4個ある時の写真が載っている。
ビルの裏側にあった駐車場にはビルが建って、今はビルの裏側は見られなくなった。

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長者町電話局。神奈川県横浜市中区長者町5。2009(平成21)年4月5日

写真の建物はグーグル地図では「テルウェル東日本(株)神奈川支店」。テルウェル東日本はNTTグループの会社で、建物の管理、オフィス用品等の販売、電気・通信システム等の工事・保守、電柱広告、電報など、幅広い業務を行っている。建物角の交差点名が「長者町電話局前」だから、建物名としては「長者町電話局」として一般に認知されているのだろう。
『日本近代建築総覧』に「長者町電話局、横浜市中区長者町5-60、建築年=大正14年、構造RC2階建、設計者=逓信省(上浪朗〈うえなみあきら、1898-1975〉)」とあり、施工は大林組。横浜中央電話局の長者町分局として建てられた。
角の曲面が印象的で、玄関の階段状の造形が柱状の壁にも繰返し現われる。この階段状の造形は他の逓信省時代の電話局でもよく見られたものだが、それらの古い建物がすっかり減ってしまった今では、この長者町電話局の存在は貴重である。幸い、NTTではこの建物を保存していく考えのようだ。



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