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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




商栄ビル。神奈川県横浜市中区太田町5。2010(平成22)年4月10日

馬車道(写真右)と相生町(あいおいちょう)通りの交差点から撮った商栄ビル。「馬車道商栄ビル」ともいうらしい。『横浜の防火帯建築と戦後復興>商栄ビル』によると、昭和29年度の事業として横浜市建築助成公社から融資を受けて昭和30年9月に竣工した防火帯建築の共同ビル。建築主は9名と神奈川県住宅公社の協同による「併存ビル」という。竣工当時の写真と見比べるとあまり変化はない。2階の窓は2段になった鉄枠の跳ね上げ式窓だったようだ。太田町(おおたまち)通りの角で曲がっているL字型の平面である。
平安堂薬局」は看板に「創業明治3年」とある。店名は家伝薬「上気平安湯」による。精神安定剤だろうか。平安堂薬局は商栄ビルの建て主の一人だ。
2016年に取り壊されたようで、現在は駐車場。


商栄ビル。太田町通り(写真右)との角。2009(平成21)年7月26日

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伊勢佐木センタービル。神奈川県横浜市中区長者町7。2009年(平成21)4月5日

長者町通りとイゼザキモールとの交差点角にある戦後の復興期に建てられた「防火帯建築」。不動産サイトでは1954(昭和29)年1月築としている。『横浜の防火帯建築と戦後復興』によると、「昭和29年度事業として、横浜市建築助成公社から助成をうけて六者共同による共同ビル」で、外観の特徴として「3層と比較的低く構えた外観と、長者町通り・伊勢佐木町通りのそれぞれに面したガラスのカーテンウォールが水平的な広がりを強調している。隅切り部にもガラス面があるが垂直に設けられたルーバーの装飾がアクセント。(「融資建築のアルバム」より引用)」とある。長者通り側の入口に「伊勢佐木町 センタービル」の古そうな看板が掛っているから「伊勢佐木町センタービル」でもよさそうだが、同名のビルが他にもあり、当記事では「伊勢佐木センタービル」とした。かつては長者町通りに市電が走り、横浜一の繁華街であった伊勢佐木町との交差点だから、ビルが建った当時はまさに横浜の「中心」といっていい場所だったらしい。



伊勢佐木センタービル。1988(昭和63)年8月6日

伊勢佐木センタービルの長者町通りの並び。昭和末の時代だから今も続いている店はないかもしれない。センタービルの隣は同じ3階建てのビルだがだいぶ高さが低い。その隣は長者町七丁目交差点角の「HDイセザキビル」で1965年4月築。この2棟のビルの裏は、「イセブラ小路」という飲み屋街の路地になっているそうだ。
写真右の映画館は「横浜松竹・横浜セントラル」。1999年に閉館した。今は、外観や内部は改装しているが、建物はそのままでパチンコ店の「キコーナ伊勢佐木町店」になっている。
シネマ・ジャック&ベティブログ>散財劇場vol.03 建築写真文庫「映画館」』によると、「横浜大映」として昭和33年1月に開館した映画館。昭和45年頃「東映」、昭和50年頃「松竹」と変わったようだとしている。その後、観客の減少に合わせて、大劇場を二分割して一方を洋画の横浜セントラルとしたのだろう。

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山北体育館。神奈川県足柄上郡山北町2594。2016(平成28)年4月22日

山北体育館は山北駅前大通り(山北駅前商店街)の「テーラーサナダ」だった空き店舗の少し西の向かい側にある。上の写真は駅前大通りの裏の、切り通した御殿場線の上の沿道から撮った。
山北町>やまきた町歩き2015.05.13』の内部の写真を見ると、正面入口から入って右手が廊下。そこを奥に進んで突き当りが2階への階段。2階は板張りの体育館でバスケットのゴール板がある。また『晴れたらいいね>山北町駅前大通り(2016.05.20)』によれば、1階は畳敷きの道場。
タウンニュース>足柄版>山北体育館 58年の歴史に幕(2017.10.21)』によれば、1959(昭和34)年に竣工した体育館は、老巧化により2018年度以降に取り壊す方針という。今もあるかどうか。






タニカワ理容館。山北町2583。2016(平成28)年4月22日

御殿場線の山北駅の西は掘り下げて通した線路で、その両側の斜面は桜を植えた並木で、花の時期は桜のトンネルを走る電車の写真を撮る名所である。線路をまたぐ橋は幾つかあるが、写真は「中橋」の前にある理髪店。
看板建築とは言いにくいが、洋風に見えるように外側を造っている。写真では分からないが、ベランダの手すりの壁状のところに「バーバータニカワ」の字が浮き彫りになっている。
2014年3月撮影のストリートビューには、建物左の窓に「BAR Singers」の文字が残っている。この建物にあった店だろうか?

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武書店倉庫。神奈川県足柄上郡山北町2608。2016(平成28)年4月22日

山北駅前大通り(山北駅前商店街)を駅から西へ行くと、角に山北町商工会館や武書店がある四つ角がある。写真の白い壁の家もその角に建っている。壁は最近改装されたもので、それ以前は下見板張りの洋風の外観だった。家の後ろと、右の平屋部分の横側に下見板張りの壁が残っている。『鉄道の栄枯衰退と共に殉じたる街 相模國山北』によると、武書店の旧店舗で、現在は倉庫になっているらしい。建物の後ろは「理容木村」。


武書店倉庫。山北町2608。2016(平成28)年4月22日



魚一。山北町2610。2016(平成28)年4月22日

武書店倉庫から西へすぐのところにある鮮魚店。切妻屋根の上にパラペットのような囲いを巡らしている。外観を飾るためのもののようだ。

魚一の隣が「テーラーサナダ」と、なんとか看板の字が読める家。テーラーにしては間口が広い。ワイシャツやネクタイなんかも置いていたのかもしれない。


テーラーサナダ。山北町2610。2016(平成28)年4月22日

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しみず食堂。神奈川県足柄上郡山北町1889。2016(平成28)年4月22日

山北駅北口の駅前広場の西の端から西の方向を撮った写真。写真右の通りが御殿場線と平行に走っている「山北駅前大通り(山北駅前商店街)」。450m先で、駅前大通りの北を平行に走っている国道76号と合流する。はるか先まで同じ外観の長屋風の店舗が続いている。この建物群の向かい側に、今まで紹介したポッポ駅前店、マルカデンキ、魚浅などがある。
「長屋群」は二軒長屋を基本に9棟、15軒ほどの店がある。現在営業しているのは半分くらいだろうか。広い山北駅構内に国鉄が建てた家作ではないかと想像する。この長屋群があるので、山北駅前商店街が商店街の体裁を保っている感じがする。
「しみず食堂」は、看板は「食事処」と暖簾の「しみず」だけだが、ネットでは盛んに「しみず食堂」で出てくる。土地の人もその名前を使うようだ。ラーメン、カレーライス、オムライスなど大衆的なメニューで、お勧めはカツ丼だという。メニューが実にもう伝統的な田舎の駅前食堂である。是非ともこの方針で続けてほしい。



長屋群の真ん中あたりにある駄菓子屋「やまだや」

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上:マルカデンキ、八百元商店
神奈川県足柄上郡山北町1861
左:魚浅。山北町1888
2016(平成28)年4月22日

山北駅前大通りの西大通りの方にある、古そうな建物の商店。「マルカデンキ」は側面が洋風な下見板と白く塗った窓枠が、古い駅舎のようにも見える。二階手前の窓の桟を見ると、戦前の建具に思えるのだが……。写真では看板に隠れているが、正面二階の窓も同じ模様の桟である。「ナショナル」の看板が掛ったままだ。
マルカデンキの左(西)が八百屋の「八百元商店」。庇がマルカデンキの建物と共通である。
八百元の左は「田中屋肉店」。大正3年創業という。観光客はコロッケやメンチカツ買ってそのへんで食べるようだ。田中屋の左は横浜銀行の駐車場で、その左に「魚浅」。Google地図では「鮮魚魚浅」。ネット検索しても出てこないので廃業したと思われる。

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やまきた駅前観音堂、岡本屋呉服店、ポッポ駅前屋
神奈川県足柄上郡山北町山北1917。2016(平成28)年4月22日

山北駅北口の広場の前を東西に通っているのが「山北駅前大通り」で商店街になっている。駅前から北へ、県道76号へ出る通りとの交差点(タケイ美容室と木川薬局が向き合っている)で、山北駅前大通りは「西大通り」と「東大通り」に区分される。対面通行はできそうな道幅だが、それぞれ山北駅へ向かう一方通行で、山北駅まで来てしまった車は県道へ向かうしかない。
駅前広場の東西の端の位置に、2013年頃まで「山北駅前大通り」のゲートがあったのだが、老巧化で取り外された。設置されて50年くらいは経っていたのだろうか? 写真は西大通りの入口付近だが、「岡本屋呉服店」の前にゲートがあった。
「ポッポ駅前屋」の真っ黒な建物が目をひく。看板に「休憩 お食事 お土産 鉄道模型」とあるが、食堂である。以前は「山北町観光案内所」だったが、それが「ふるさと交流センター」に移って、2011年4月にポッポ駅前屋が開店した。そのせいか、観光案内所で食事処を聞くとここを挙げてくれるとか。「食べログ」などを見ると、安価だし電車の時刻まで鉄道模型を眺めて時間をつぶせるらしい。もし機会があれば、カレーうどんを食べてみたい。建物は大正時代のもので、元々は茶舗だったという。

岡本屋呉服店の左は「やまきた駅前観音堂」。商店街のゲートが撤去されたとき、代わりになるものを、と商店街の有志で発案、地元の彫刻家蘭二朗氏が制作した観音菩薩を空き店舗に祀った。2014年10月24日が開眼法要。地域の安全を見守ってくれることになった。北山駅に下り立ったハイカーも安全を願って寄っていかなくてはならない。

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タケイ美容室。神奈川県足柄上郡山北町山北1927。2016(平成28)年4月22日

山北駅北口の駅前広場から、御殿場線と平行に「山北駅前商店街」の通りがある。駅前からは県道76号へ出る通りがあり、その両通りの交差点角が、両側とも洋館風の建物で、すでに山北駅前の有名な建物だと思う。山北駅が東海道線の駅としてにぎわった当時をしのばせる建物である。駅前に建って眺めると、レトロな街並みを再現した鉄道模型のジオラマの中にいる気分になれる。
山北町(やまきたまち)はD52を展示した山北鉄道公園や鉄道資料館などを開設している。鉄道遺産を核に、観光客を誘致しようという方針のようにみえる。だとすると、タケイ美容室と木川薬局が向き合う光景は貴重な観光資源であろう。
神奈川の近代建築探訪タケイ美容室・木川薬局』によると、両方とも木造2階建て。建築年はタケイ美容室が昭和7年、木川薬局が昭和13年頃。



木川薬局。山北町山北1917。2016(平成28)年4月22日

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山北駅。神奈川県足柄上郡山北町山北。2016(平成28)年4月22日

JR御殿場線の山北(やまきた)駅は東海道線の駅として1889(明治22)年に開業した。1934(昭和9)年12月に丹那トンネルが開通するまで44年間、日本の大動脈たる東海道線の全列車がこの田舎駅に停車した。この駅で山超えのための機関車を増結し、石炭と水を積み込んだのである。昭和初期には「山北機関区」で働く職員は650人にもなったという。旅客列車が着くたびに鮎寿司弁当や山北産のみかんは飛ぶように売れたのではないかと思う。
今、その賑わいをかろうじて伝えるのは、駅構内の広さと駅前広場に向かって建つ2棟の洋風看板建築くらいだ。
駅舎は関東大震災で大破した後、1924(大正13)年に建て直されたもの。
御殿場線歴史的痕跡探訪記 ~國府津-山北間編 明治頌歌』に『山北町史』に拠るとして、関東大震災の被害が引用されている。それによると、液状化現象によると思われるが駅構内が水浸しになり、構内にあった貨車29両が転覆し、荷役停車中の貨物列車が脱線したという。



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中沢屋酒店。神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1259。2016(平成28)年4月22日

御殿場線に乗り換えるため小田急線新町田駅に降り立ったついでに、「ロマンス通り商店街」をちょっとばかり歩いてみた。その商店街は御殿場線と小田急線の間を東西に通っている、道幅も適当な、まあまあ商店街らしい通りだが、賑わっているとはいえない。駅から離れるにつれ、商店街らしさも薄れる。
「ロマンス通り」という名称の由来と、いつ頃から称しているのかが気になる。やはり小田急のロマンスカーから来ているのだろうか? 新宿―小田原の特急を「ロマンスカー」の名称で運行を始めたのは1949年10月、戦後まもなくの時期だ。3000形車両を投入したのが1957年7月。

ロマンス通り商店街には古そうな商店の建物が点々とあるのだが、いつ頃の時代のものなのだろう? 関東大震災でかなりの被害を出したということだから、昭和初期の復興期が、この町にもあったのかもしれない。


内藤履物店。松田町松田惣領1263。2016(平成28)年4月22日


中村陶器店。松田町松田惣領1315。2016(平成28)年4月22日

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