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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



スナック ラボア。静岡県静岡市清水区旭町2
2014(平成26)年11月27日

新清水駅前の国道149号から新世界通りを抜けると裏通りに出るが、向かい側に写真の建物がある。ラボアの建物は、トタン葺きの壁だから木造かと思うが、左側側面には軒のすぐ下に窓があるので、3階建かもしれない。屋根は傾斜があまりない、右が高い片流れ屋根。建物正面は狭いが、奥行きが深い。地図上で測ってみると35mだ。右の路地は東の通りに通じていて、かつてはバーなどが並ぶ飲み屋街だった。その路地はわずかに右(南)に向いていて、通りに出る手前ではさらに右にカーブする。建物はその路地に倣って奥にわずか広がる平面。
お散歩日記>静岡県静岡市清水区(旧旭町赤線)』には、「昭和三十六年の地図に因れば「ごきげん横町」と名付けられておりました」「一軒は営業中と確認済みであります」とある。その一軒はラボアの建物の中程にある「酒場 戸田村」と思われる。2014年の調査なので今はどうだろうか。
ラボアの横には「ごきげん横丁」のゲートがあったのだろうか。今は洗濯機が置かれていて、通り抜ける人もいないようだ。

2022.04.06追記
ごきげん横丁の東で、通りに出る手前の南に向くカーブの成因が気になっていた。戦前の地図を見れば簡単にけりが付く話だが、静鉄「波止場線」の跡のようだ。かつて「静岡電気鉄道」は「清水相生町駅(現・新清水駅)」から東に延びていて、区役所の東の通りに出ると南に向かって、「松原駅」を通り「波止場駅」が終点だった。
1945(昭和20)年7月6日の空襲で施設が被災し、運休していたが1949(昭和24)年3月で正式に廃止した。すると線路跡に建物が建つのは昭和25~30年頃となりそうで、それが新世界通りとごきげん横丁の長屋式建物と考えてよさそうだ。
そのへんことは『写真撮っけど,さすけねがい?>東海道の宿場町江尻 ── 旧清水市』でも触れている。

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新清水駅向かい側。静岡県静岡市清水区相生町9。2014(平成26)年11月27日

国道149号の静岡清水線・新清水駅の向かい側の街並み。北方向(右)に2020年に取り壊された「ホテルサンルート清水」が写っている。「アミー」の看板が掛かる古いビルは、撮影時には1階が「PACHINKO CENTER」というパチンコ屋だった。『お散歩日記>静岡県静岡市清水区(旧旭町赤線)』というサイトに掲載されている昭和36年の住宅地図にも「パチンコセンター」で載っていて、その店が続いてきたのかと思われる。2017年頃には閉店した。
アミーの右の「ワタナベビル」は昭和36年では「渡辺カメラ レストラン」。アミーの左に2棟の3階建の建物があるが、その間の路地が「新世界通り」で、この周辺の飲み屋街では最も有名な場所だ。昭和36年の地図では「新世界食街」。
新日本Deep案内>あの金嬉老事件が起きた清水港の元赤線地帯「旭町」の昭和丸出しな盛り場を歩く』によると、パチンコ屋の換金所は新世界通りにあったという。




新世界。清水区相生町9
2014(平成26)年11月27日

上写真の通りは国道149号の東の裏通り。国道側から新世界通りを突っ切って出てくる通り。こちらの新世界の入口には提灯を飾ったゲートがある。
『お散歩日記』では、通りの奥の駐車場に昭和55年の地図に「クラブみんくす」の記載があるので、「金嬉老事件」の発端になった場所ではないかとしている。事件の起こったのは1968(昭和43)年2月20日。「旭町」としている資料もあるが、「旭町歓楽街」を言っているかと思われる。『新日本Deep案内』では「住所は相生町9番地」と断定している。

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エイリア。静岡県静岡市清水区旭町4。2014(平成26)年11月27日

国道149号の新清水駅付近の東の裏通り。エドワルドスの向かい側になる。スナックなどが並んでいるがすでに営業していないように見える。2020年のストリートビューでは写真のままで、少し荒廃が進んだか、という感じだ。



マーブル。清水区旭町4。2014(平成26)年11月28日

1枚目写真の右奥の四つ角から西方向を見た家並み。現在は替わった店もあるが、建物は写真そのまま。
家並みが切れるところに路地があり、その路地と国道149号の間が相生町8の住所。撮影時は相生町8には北が駐車場、南が「ホテルサンルート清水」(1981年7月開業、2019年5月閉店)があったが、今は取り壊されて更地である。
かつてこの国道沿いの相生町8に映画館が3館あった。『静岡市清水区の映画館(2)』によると、「セントラル劇場」「清水東宝劇場」「清水東映さくら劇場」である。いずれも1945・46年に開館し1970年代に閉館した。この3館から近くの国道149号沿いには、新清水駅の北に「栄寿座」、区役所前交差点に「清水松竹劇場、清水オリオン座」があったという。映画街といってよく、その最盛期は飲み屋街と同じく、清水港の整備と重なる時期だったのだろう。

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マーブル、ViVid。静岡県静岡市清水区旭町3。2014(平成26)年11月27日

清水港付近の主要な道路は国道149号になるのだろうか。東海道本線清水駅前から国道1号と分かれて南へ、巴川の羽衣橋で国道150号につながる。延長はわずか2.6 km。国道149号が東海道線を陸橋で越えて南へ400mの間の両側が「相生町(あいおいちょう)」、相生町の東に「旭町(あさひちょう)」で、両者とも南北に長い町域である。
国道の東の両町が飲み屋街として知られている。清水港を背景にして成立した飲み屋街なので歴史は古いのだろうが、現在見られる建物は古いものでも昭和30年頃の建築に見える。戦前の建物は、たぶん空襲で焼かれて残らなかったのではないだろうか。
旭町6に清水区役所があり、その北が旭町3。上の写真は区役所の北の通り。左(西)に行くと国道149号。「マーブル」と「ViVid」が入る家の左は「あき寿司」、さらに左にバーやスナックの看板が7個ついた建物。「スナックぼったくり」なんていうのがある。
ストリートビューを見ると、看板建築にしている家は2017年頃に取り壊された。




上:Broad-way、左:エドワルドス
静岡市清水区旭町3。2014(平成26)年11月27日

国道149号の東の裏通りに並んでいるフィリピンパブ。ストリートビューを見ると、Broad-wayには今はテナント募集の看板が貼ってある。エドワルドスは2016年頃に「GLAMO ROSA」という店に変わった。
新日本Deep案内>あの金嬉老事件が起きた清水港の元赤線地帯「旭町」の昭和丸出しな盛り場を歩く』では、「金嬉老事件」と旭町との関連を述べている。また、かつては赤線あった町だという。そこでのエドワルドスの写真は三角形の中にミッキーマウスが描かれている。

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オオタケ洋品店、鳥関肉店。静岡県熱海市清水町14。2015(平成27)年11月20日

写真左奥が清水町商店街の南端。昭和25年の熱海大火後に建ったと思われる商店がまとまって残っている。左奥の茶色のビルが「米倉不動産」で、そこから右へ「鈴木屋(履物、傘、不動産)、リサイクル修理工房オーヨー、旭屋(寝装品)、ポピンズ(婦人用品)、―、板東塗料、オオタケ洋品店、鳥関肉店、タカサ洋品店」。
商店街には洋品店が多いような気がするが、生活者用の商店街だからだろう。鈴木屋履物店は草履や下駄を売っていて、古い商店街に似合う店だ。
現在では別の店に変わったり、閉店してしまった店もあるかもしれない。



鈴木屋、オーヨー。熱海市清水町14。2015(平成27)年11月20日

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青木商店。静岡県熱海市中央町17。2011(平成23)年5月20日

写真右に「清水町商店街」の街灯が写っているが、青木商店(建材、金物)はその商店街の1軒。写真左手がすぐ県道11号との市役所前交差点で、清水町商店街はそこから南へ、昭和町に変わる交差点までの240m。銀座通り商店街などの観光客向け商店街ではなく、生活者用の商店街である。歩道には簡単なアーケードが架かっている。昭和25年の大火後に建ったと思われる商店の建物がまだ少しは残っている。
「清水町商店街」の表示がある鈴蘭灯は、ストリートビューで見ると、2018年に今のものに取り替えられて商店街の表示はなくなってしまった。商店街の組織はどうなってしまったのだろう?
青木商店は大正15年創立で、株式会社としての創業が昭和24年。建物は熱海大火後の建築という。
下の写真の家は青木商店から1軒おいた並び。2015年に3階建のビルに建て替わった。


ふれあい友の会。中央町17。2011(平成23)年5月20日

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熱海第一交通タクシー乗場。静岡県熱海市中央町14。2015(平成27)年11月20日

糸川と初川との間を、グーグルマップに「あたみ梅ライン」とある県道11号が通っている。その中央町(ちゅうおうちょう)交差点(国道135号との交差点)と市役所前交差点との中間にあった建物。2019年に建て直されて5階建のマンション(第一交通の社員寮らしい)に変わり、その1階が「第一交通タクシー乗場」と車庫になっている。
正面を洋風にした看板建築だ。後は1階が車庫なので2階だけのなんとも簡便な建物である。社員の寮や休憩所になっていたと思われる。外観から、戦前築の看板建築と見ていたが、昭和25年の大火ではこの辺りも被害を受けている。大火後の建物である可能性が高い。
第一交通が建てたのではない。ウィキペディアの『第一交通産業』には「熱海第一交通(熱海市昭和町 旧:熱海京王自動車)」とあり、『第一交通産業㈱』には「1994年4月、第一交通産業が熱海京王タクシーを買収」とある。それ以前は「熱海京王タクシー」の看板が掛かっていたのだろうか。

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熱海芸妓見番。静岡県熱海市中央町17。2015(平成27)年11月20日

初川に面して建つ「熱海芸妓見番」と「熱海芸妓見番歌舞練場」の建物。熱海銀座の南が糸川、さらに南にあるから観光客はなかなかここまでは流れてこないような感じだ。
建物は昭和29年4月1日が落成式。昭和25年の大火で焼けたので再建したのかと思うと、そうでもないようだ。置屋だった跡に建てたのかもしれない。
『熱海温泉誌』(熱海市教育委員会制作、熱海市発行、2017年、3000円+税)によると、「熱海の芸妓組合はまず1913(大正2)年に設立されたようである。……なお1932(昭和7)年には改めて芸妓置屋組合が組織されている。」「初期の組合事務所は、今井家の屋敷跡地に造られた入浴施設「大湯」の1室で、その後は小沢湯の階下に移ったといい、温泉浴場施設の一部に間借りする形で出発した。昭和8~9年頃になって初めて組合事務所専用の建物が浜町に新築される。」その場所は載っている地図から、熱海銀座の裏(現・銀座町6)と思われる。
芸妓・置屋の数は「2016(平成28)年7月現在、熱海芸妓置屋連合組合に登録されている芸妓数は約120名。置屋は60カ所弱である。……1箇所の見番で抱える芸妓数としてはまだ全国屈指だ。」
見番は、建物が建ったときに設立された「熱海観光事業株式会社」が運営している。組織としては「熱海芸妓置屋連合組合」と重なるという。資本金1500万円を3万株とし、置屋1軒あたり100株の営業株を定めた。置屋を300軒と予測したわけだ。昭和40年代には株の空き待ちが生じたという。
なお、置屋(おきや)は芸者が所属する家で、その組合が見番(けんばん)。

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大倉山記念館。横浜市港北区大倉山2-10。2000(平成12)年1月26日(5枚とも)

住所の大倉山は、太尾町(ふとおちょう)だったのが住居表示の変更になった2007(平成19)年11月からで、つい最近決まった住所だ。東急東横線の大倉山駅や、記念館のある丘の名称として聞きなじんだ地名なので、一般に分りやすいと思われたのと、やはりかっこいいからだろう。記念館の旧住所は太尾町706。
「大倉精神文化研究所」として1932(昭和7)年に建った建物。研究所は1981(昭和56)年に運営が難しくなって横浜市に土地を売却、建物を寄贈した。1984(昭和59)年に「横浜市大倉山記念館」として開館した。研究所は記念館内に存続している。




ネットなどでは出てこない資料と思われるので、『かながわの近代建築』(河合正一著、神奈川合同出版・かもめ文庫、昭和58年、630円)の「大倉精神文化研究所」の記述を紹介する。

 大倉山の丘の上に建つこの特異な建物は、着工後3年かかって昭和7年に実業家・大倉邦彦によって建造された。
 洋紙業で成功した大倉は、学問の世界にも情熱を注ぎ、東西文化の融合に意欲を示した。そして私財を投じ、学問・信仰・修行を合致させた研究機関として、「日本文化の精髄を発揮し進んで世界文化に貢献」することを目的とし、「弘く世界史を貫く人類文化の普遍的意義に通暁すると共に深く我が国の精神文化を請究する」ために財団法人・大倉精神文化研究所を設立した。
 大倉は研究所設計を、長野宇平治に依頼した。ロマン主義の作風から出発したこの建築家は、数多くの銀行建築等を手掛けて古典主義に傾いていた。そしてプレ・ヘレニズムと称される様式で、この研究所をまとめ上げた。
建物は、全体的にはヘレニズム様式を基調としながら、その細部に神社、仏閣、古紋様の意匠を配するなど、建築主の意図をよく帯しており、ギリシャ神殿風の正面入り口と塔屋部をもつ中央館の両側に東・西館がつながり、殿堂、道場を配し、書庫、研究室もある。
 外装には千歳石を用い、銅板棒葺の屋根を架けている。
 創設以来、戦前・戦後を通じ財団の研究所として用いられているが、昭和56年4月に横浜市へ土地を売却、建物を寄付し、建物が存続する限り永久使用の契約を交わしている。その結果、土地は横浜市緑政局、建物は同都市計画局が管理し、その一部を財団法人・大倉精神文化研究所が使用している。
設計:長野宇平治、施工:竹中工務店、竣工:昭和7年4月(1932)、構造:鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階・地上3階建

建築様式は今では「クレタ・ミケーネ文明の様式」としたほうがいいようだ。パルテノン神殿は紀元前438年だが、クレタ島のクノッソス宮殿はそこから1000年遡る。



「精神文化」というとなにやら怪しい気分がしなくもないが、辞書にある「学術・思想・宗教・哲学・道徳・芸術など、精神活動によって生み出される文化の総称。→物質文化」(大辞泉)と受け取っていいようだ。研究所のHPによると、設立の趣旨は「東西両洋における精神文化及び地域における歴史・文化に関する科学的研究及び普及活動を行い、国民の知性及び道義の高揚を図ることにより、心豊かな国民生活の実現に資し、もって日本文化の振興及び世界の文化の進展に寄与する」ことを目的とする、とある。精神とは日本精神をいうようだが、大倉の著作も読まないでは確かなことは言えない。研究の方法としてまず、本を集めて図書館を造ることをしているのは、合理的に思える。
「東西両洋」の考えは、大倉邦彦が上海の東亜同文書院に学んだことが大きく関わっていると思う。1906年にそこを卒業すると大倉洋紙商工の天津出張所に就職する。中国語の技能が買われたのだろう。大倉洋紙店の社長になれたのもきっかけは東亜同文書院といえる。
大倉は1926年に図書館の建物を見るために世界一周する。そのときヨーロッパの西洋建築についての造詣を深めたのかもしれない。「マンガで学ぶ大倉邦彦物語」にはサグラダ・ファミリアの前に立つ大倉の1コマがある。

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飯島遊技場。静岡県伊豆の国市伊豆長岡1033。1998(平成10)年9月6日

現在、「一條」「金城館」「いずみ荘」といった旅館が面している「温泉場出逢い通り」の四つ角の西角にあった遊技場。伊豆箱根バスの「御幸町(みゆきちょう)」バス停がある。右後ろは「ときわ旅館」で、今は「一條」に替わって「スーパーコンパニオン付き宴会のお宿」だそうだ。
写真の遊技場(普通は射的場といいそう)はバルコニーの囲いの赤茶色のタイル張りの壁が目立つ。「ボットル」の表記がユニーク。

下写真は横へ回り込んだもので、隣の看板建築の商店が並んでいる。看板の「丸京商店」が読める。その両側に商品名が書いてあるのだが、目をこらすと「雑貨、文具」の文字がなんとか浮かんできた。店の左に写っている街灯は今も使われている。柱の上部、腕の下に針金を曲げて作ったアヤメの飾りが取り付けられている。「あやめ御前」にちなんだもの。
現在は2棟とも取り壊されて、駐車場になっている。


丸京商店。伊豆の国市伊豆長岡1033。1998(平成10)年9月6日

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