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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




林糀(はやしこうじ)製造所。静岡県浜松市中区肴町(さかなまち)316。2019(令和元)10月7日

肴町通りの中央の四つ角を東に入ったところに林糀製造所の出桁造りの店舗がある。『さかなまちドットネット>林糀製造所』によると、1882(明治15)年の創業という老舗だ。米糀、甘酒の素、糀味噌などを製造販売している。写真の店舗は昭和24年の建築。店舗の右の平屋とその奥の建物が製造所かと推測する。
店舗の裏は住居だろうか? そのさらに裏に1902(明治35)年に建てられた蔵が残っている。下の写真は裏の路地から見られる蔵。現在も米蔵として使っているという。路地に面した2階建コンクリート造の建物は戦後に増築した倉庫だろうか。


林糀製造所の蔵。中区肴町316。2019(令和元)10月8日

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三米(さんよね)商店
静岡県浜松市中区肴町(さかなまち)314
2019(令和元)10月8日

写真の通りは浜松市街を南北に通っている大手通り(国道257号)の東の裏通りで、肴町通りという商店街。肴町は『ウィキペディア』には「徳川家康が浜松城に在籍していた頃、六人の魚商が浜松城南側の榎門筋(現在の紺屋町通り)において棚を出し魚を販売すると共に浜松城の御用をつとめるようになると、魚屋の便を考えて家康の家臣、本多重次らによって大手門近くの東海道の裏通り(現在の本通り、肴町通り)に魚河岸を設置し魚屋だけの町を構えさせたのが始まりとされる。」とあって、歴史を誇る町名、地域である。戦前まで「三星魚市場」という魚市場があったという。今は飲食店の多い繁華街。

海産物問屋三米商店のビルを見たときは、戦前のビルが残っているのかと疑った。浜松市は「浜松地域遺産」を認定して顕彰・活用していく事業を始めた。三米商店のビルは令和2年に認定された。「三米商店主屋」の名称で「昭和 31 年建造の鉄筋コンクリート 3 階建てビル」である。前面上部のアーチと両端の柱の装飾、2・3階の窓の上下の装飾など、1956年建築とは思えない外観だ。1階は木の枠のガラス戸でRC造のビルではまず見られない造り。大正8年創業という。
右の3階建のビルは「丸喜屋商店」。店のHPによると、昭和27年に三米商店の小売り部門として独立した乾物屋。

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静岡銀行浜松営業部本館。静岡県浜松市中区田町322。2019(令和元)10月8日

写真手前の大通りが南北に通っている「田町中央通り」、右奥への通りは東西の「しにせ通り大安路」。1995(平成7)年にきれいに整備されて付いた名前だろうか。「大安寺(だいあんじ)通り」と言っていたかもしれない。
静岡銀行浜松営業部は「遠州銀行本店」として1928(昭和3)年に竣工した。SRC3階地下1階建。設計は中村與資平、施行は清水組。遠州銀行は1943(昭和8)年、静岡銀行に合併され、建物は静岡銀行浜松支店として使われてきた。
中村與資平(1880-1963)は浜松の生まれ育ちで、東京帝国大学建築学科卒業後は朝鮮・中国東北地方(ソウル、大連)で活動した。1922(大正11)年に東京に「中村工務所」を開設した。作品は東京と静岡県に多い。戦時中に中村工務所をたたんで郷里の浜松に引っ込んでしまう。戦後は静岡県教育委員会で活動したらしい。

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猿島要塞防空指揮所。神奈川県横須賀市猿島。2014(平成26)年10月16日

島の中央部、標高40mの高台が「広場」になっていて、その北東部に「展望台」「観測所」「防空指揮所」などと言われている建物がある。「トンネル」の中央部よりやや南よりの真上になる。どのように使われていた施設なのか明確に示した資料は見つからなかった。
建っている場所と形から敵機の観測を、昭和20年になれば主にB29の編隊の動きを見張っていたことは想像がつく。1階は窓の多い開放的な造りなので、「防空指揮所」にしては無防備ではないか。
本土決戦基地マップ>猿島高角砲台』では「戦後改変の可能性あり」「地下1階地上2階。地下部と地上部は別の年代に造られた可能性がある」としている。「地下1階地上1階塔屋付き」としたほうがいいような感じだ。また、付近には「発電機室の燃料タンクの土台跡」と「兵舎跡」があるという。





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高角砲跡1。神奈川県横須賀市猿島
2014(平成26)年10月16日

北の切通し(三叉路)の南のトンネルを抜けて島の東の通路を北へいくと、道沿いに4箇所の高角砲跡が並んでいる。ここでは南から順に高角砲跡1~4としてみた。あるいは間違っているかもしれないが、写真を見れば分るようにどれも同じだから気にしないことにする。
史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ヶ崎砲台跡 保存活用計画』(2017年、横須賀市教育委員会)によると、猿島要塞は「1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって大きな被害を受け、1925年(大正14年)7月に第三海堡などと併せて陸軍の防御営造物から除籍された。その後横須賀軍港防御用地として海軍省へ移管された。1936年(昭和11年)に海軍大臣から横須賀鎮守府司令長官に猿島防空砲台新設の訓令があり、猿島高角砲台の建設が着手された」。それまでは特になにかするようなことはなかったらしい。「1937(昭和12年に95式陸上用高射装置の生産第1号が据え付けられた」。明治の、軍艦に備えた設備から飛行機に対処することにしたわけだ。「1944(昭和19)年10月14日に海軍大臣から横須賀鎮守府長官あて、12.7cm 連装高角砲2基を基幹とする防空砲台建設の訓令があり、同年 11 月 30 日以降 1945年(昭和20年)7月31日までの間に8cm単装高角砲から12.7cm 連装高角砲2基に換装された」。
高角砲跡1~4は8cm単装高角砲が置かれた。明治に設置された第1砲台より一段下の海抜22mの東が開けたところに土地を削って据えられた。
現地の案内板には「昭和16年ごろより鉄筋コンクリート製の円形の砲座が5座造られ、その上には高射砲が配備されました。これが現存する砲台跡です。高射砲は終戦を迎えるまで空に向かって火を吹き続けましたが、終戦と共に進駐軍に解体され、砲台だけが残されました。」とある。爆撃を受けた、という話は聞かない。もし爆弾を落とされていれば明治期の要塞跡も壊されていたはずだ。



上:高角砲跡2。下:高角砲跡3



高角砲跡4

まつへ、森へ。>猿島、走水から観音崎めぐり2.猿島要塞・海軍「防空砲台」の時代』に、「海軍で「高角砲」と呼ばれる砲は陸軍では「高射砲」とよばれる」とあった。ぼくは「高射砲」という言い方しか知らなかった。
明治の第2砲台跡の北東の位置に12.7cm連装高角砲跡と思われるのがあるのだが、写真は撮っていない。

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第一砲台弾薬庫。神奈川県横須賀市猿島。2014(平成26)年10月16日

トンネルを抜けると短い切通しに出る。第一砲台の後方施設に当たる。砲台はトンネルの向かい側の崖の上に27cm加農砲(カノンほう)2門が置かれた。切通し北端の弾薬庫の上と、南側の兵舎の向かい側である。念のために言うと、第一砲台は、島の北に4箇所が並ぶ高角砲跡とは異なる。無理して砲台跡を見に行く人はいないようで、現状がどうなっているかは分らないが、たぶん埋もれているのではないだろうか。
弾薬庫の切通し側の入口は、南の切通しにある第二砲台弾薬庫と同じ仕様のようだ。関東大震災後海軍の管轄になり、1936(昭和11)年から高角砲(高射砲)が設置されるのに伴い、そこへの通路に改変された。弾薬庫としての部屋の形は残されていて、出口は新たに開けられた。
左写真には弾薬庫の上に通路とトンネルと思えるものが見える。砲座の西側背後に通された「高塁道」だろう。



南のトンネルと第一砲台兵舎。2014(平成26)年10月16日

切通しの南側のトンネルは島の東側へ抜ける道だが、レンガ造ではないので、高角砲への通路として昭和10年代に通されたものと思える。弾薬庫を改変した通路があるわけだが、爆撃を受けた場合を考えて、通路を2箇所確保したのだろう。
そのトンネルの手前右(西)側に兵舎が2部屋造られている。
猿島要塞に関してネットで見られる資料では、『史跡東京湾要塞跡 猿島砲台跡 千代ヶ崎砲台跡 保存活用計画』(2017年、横須賀市教育委員会)が詳しい。そこでは「第一砲台棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)」という言葉を使っている。

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猿島要塞トンネル。神奈川県横須賀市猿島。2014(平成26)年10月16日

一直線の「切通し」を行くと道はクランク状に折れ曲がってトンネルに入る。長さは90mという。トンネルの上は標高40mの島の尾根筋、トンネルの床面は30mくらいらしい。南の第二砲台と北の第一砲台との連絡路であるが、トンネルと並行して左(西)側に部屋(地下施設)が造られている。地下施設は2階建で幅はトンネルより2・3割広いようだ。現地の案内板では「フランス積みレンガ構造の2階建て」「個々の用途はまだ不明ですが、猿島砲台全体の弾薬を貯蔵する大本の弾薬庫(弾薬元庫)としての利用は確認されています」とある。
トンネルの左側にはところどころに地下施設への出入り口が並び、トンネル中央辺りには外(西側斜面)へ出られる出入り口がある。「山頂付近にあった指令所や照明所への重要な連絡通路」だったという。
ネットではさかんに「愛のトンネル」といってそのいわれを解説しているが、ぼくのような老人には使いたくない名称である。ついでに言うと、繁殖期を「愛の季節」というのも嫌い。

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左:兵舎1、右:屋外の便所。神奈川県横須賀市猿島。2014(平成26)年10月16日

土木学会選奨土木遺産>猿島要塞の解説シート』によると、猿島要塞は東京湾防衛の要塞の一つとして築かれた。第1期工事は1881~84(明治14~16)年。横須賀鎮守府が置かれたのが明治17年だから、それに先行して要塞が構築されたわけだ。「戦備完了は1895(明治28)年4月1日」の意味がよく分らないが、「千代ヶ崎砲台」が明治28年の竣工なので、それをもって「戦備完了」としたのかと思う。なお、1894年に始まった日清戦争は、1895年4月17日に講和条約を調印している。
「設計・施工は、陸軍臨時建築署(当時)が担当し、そこで技術主任であった上原勇作陸軍工兵大尉(後元帥)がフランスで築城学を学んできた経緯から、フランス式築城方式が採用された。」とある。軍港に付随する施設なのに陸軍の管轄だった、というのが不思議である。
その後「関東大震災によって被害を受けた猿島砲台は、一度も使用されることなく1925(大正14)年に除籍。その後、海軍に移管されて高角砲陣地となり、終戦を迎える。」

島の観光コースに従って道なりに上っていくと両側に石垣を築いた「切通し」に入る。その右(東)側に、兵舎1、弾薬庫1、兵舎2、弾薬庫2が並んでいる。兵舎・弾薬庫は、外から見えるのはレンガの壁に入口が付いたもの。要塞の施設は砲撃から守るために地下に造られ、それらの連絡路として切通しを通したのだろう。空から見えないように、としたサイトもあるが、当時飛行機のことは考えていなかったと思う。
弾薬庫1の向かいに便所と思われる小部屋がある。奥に出入り口がないので兵舎ではなく見える部分だけのものらしい。外から出入りできる便所があったほうがいいということで造ったと思われる。



左:弾薬庫2、右:西側施設の便所

弾薬庫はそう大きいものではない。幅は外のレンガ壁の幅くらい、奥行きはレンガ壁の幅の5倍くらいだが、手前は通路でその奥に2部屋だけ。正面左の小さい入口は廊下のもので、廊下から弾薬庫が覗けるらしい。大砲1門ごとに、その下に弾薬庫が造られたかんじだ。弾薬庫2は第2砲台のためのもの。
弾薬庫2の向かいに便所跡がある。壁に出入り口があるので、奥に兵舎かなにかの施設があって、そこの便所らしい。汲取り式だろうから取り出しやすいように外側に設置される。

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猿島要塞発電所。神奈川県横須賀市猿島。2014(平成26)年10月16日

現地の案内板によると、「1895(明治28)年に完成した蒸気機関による発電所。建物の構造はレンガ積みだけで自立した壁(モルタルが塗られている)と、木造キングポストトラスという小屋組の屋根で構成されている」。柱の無いレンガの壁の上に屋根を架けるための木造の枠組みがある、ということだろうか。「建物内部には汽罐室(建物手前)と発電機室(建物裏)、石炭庫(前に出ている部分)があり、汽罐室の下には蒸気機関で使う水を貯めていた地下水槽がある」「電気は裏の切り通しを伝って高台の照明所に送られた」。主に探照灯(サーチライト)のための発電所だったらしい。ネットには「電気灯機関舎」という名称がよく出てくる。
島の観光施設の電気は、今もここから送られているという。発電機は新しい、たぶん市販のものだと思うが、昔の蒸気エンジンの発電機は今も残っているのだろうか? その点に触れたサイトは見つからないので、期待するのは無理のようだ。



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そう馬。静岡県静岡市清水区旭町2。2014(平成26)年11月27日

新清水駅前の国道149号の東の裏通り。相生町と旭町の間の通りで、かつての歓楽街を貫く中心の通りだ。写真の横丁の左側(北)は旭町1。写真ではその旭町1には2階建の集合住宅が建っているが、2012年まではバーなどが入った長屋風の建物があって、飲み屋街だった。
写真撮っけど,さすけねがい?>東海道の宿場町江尻 ── 旧清水市』には、旭町1のバーなどが記録されている。2008年に撮られた写真で、ほとんどの店名が分る。また、上の写真の角の家は「うなぎ/ふぐ料理 そう馬」で、奥に「いっき、居酒屋 夢屋、スナック 蟻地獄」が確認できる。
上の写真を撮った2014年では、奥に、営業していたのかどうか分らないが「ム・ム」と「スナック 心の灯(あかり)」があった。



スナック 美よし。清水区旭町2。2014(平成26)年11月27日

そう馬の隣。看板は残っているが、日よけが破れたままなので廃業していると思う。ストリートビューで見ると2016年頃に「晴ちゃん」という店になって、そのとき横の錆び付いたトタンの壁を塗り直している。今は「淳の店」に再度替わった。
この通りは駐車場が目立つ。赤線があったころは娼館だったのが、赤線廃止後には旅館などに代わり、清水港の整備が一段落すると利用客も減って駐車場になってしまった、というふうに想像できる。

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