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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





越野邸。横浜市西区宮崎町40
2003(平成15)年2月8日

紅葉坂の上がり口の石垣の上にあった越野邸。現在は「フェリーチェ紅葉坂」(2014年2月築、6階建、22戸)というマンションに替わって、石垣もなくなった。紅葉坂の右に写っているビルは「県立青少年センター分館/ユースホステル」。
『日本近代建築総覧』に「越野清邸、建築年=大正13頃、木造1階建」で載っている。左写真は紅葉坂に面した門の方から撮影。庭木で遮られて全体はよく見えなかった。

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駿河園。横浜市中区花咲町3-101。2003(平成15)年2月8日

音楽通りの紅葉橋交差点近くにあった葉茶店。出桁造りの伝統的な商家建築だが、戦後のものなのだろうか? このあたりの山側は空襲の焼失からは外れているので、音楽通り沿いの家のなかにも、焼けずに残ったのもあったかもしれない。看板の字は「茶 駿河園 稲葉」、袖看板は「茶|富士のやぶ北|駿河園」。ストリートビューで見ると、2009年から14年の間に3階建のビルに建て替わっている。
駿河園の左は「広瀬洋服店(テーラー)」の木造2階建ての建物。2018年に5階建てにビルに建て直された。

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理髪店。横浜市中区花咲町3-87
2003(平成15)年2月8日

音楽通りの本町小学校の向かい側にあった、事務所と理髪店の建物。ストリートビューでは2009年以前に取り壊されて駐車場になっている。理髪店の看板に店名が書かれているようだが、画像が粗くて読めない。左の建物はすでに空家のようだが、割と立派なファザードだ。洋食屋か喫茶店でもおかしくないような気もする。木造2階建で一昔前のビルのような外観にするのは珍しいと思う。
Ⅰ枚目写真右に「音楽通り」の表示板を付けた街灯が写っている。この街灯は音楽通りに並んでいたものだが、2017年頃撤去されてしまった。

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治屋書店。横浜市中区花咲町2-78。2003(平成15)年2月8日

桜木町駅の西に、線路に沿って南北に通っている幹線道路が新横浜通り。その花咲町(はなさきちょう)二丁目交差点から紅葉橋の裏通りになるのが「音楽通り」で、商店街になっている。掃部山公園の南に隣接するところにある県立音楽堂への往き来に通る道、というのが由来。
音楽通りの中央辺りに本町(ほんちょう)小学校があるが、治屋(はるや)書店はその向かい側にある。現在は「Orange Concept」というレストランに替わっているが、建物は現存している。Orange Conceptの開店は2010年12月。2009年のストリートビューでは、「にこにこランド(保育園?)」なので、書店の廃業はそれ以前だ。戦前築の看板建築のように見えるが、戦災で焼失した地区らしいので、戦後まもなくの建築かと思われる。

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丸共寝具店。横浜市中区野毛町2-89。2010(平成22)年4月10日

県道218号(桜木東戸塚線・平戸桜木道路)の野毛二交差点。写真左に野毛中央通り、写真右に行くと柳通りの入り口で、その間に1950年頃に建てられたと思われる店舗の建物が並んで残っていた。今は丸共が「クラスミライ横浜」(2023年4月築。6階建)という貸事務所、濱や地所はそのままで、その右は「イニシア横浜桜木町」(2020年2月築。10階建119戸)というマンションに替わっている。
写真の店は左から、「丸共寝具店、濱や地所、茶所しんり、一京屋たばこ店、中華 三幸苑、かめや寿司店」。
「丸共寝具店(スリープショップ丸共)」は、『タウンニュース>野毛の寝具店「丸共」95年の歴史に幕2018.05.17』によると、1923(大正12)年11月、「かさぶろう」という商人が野毛で布団店を開いたのが始まり。「その後、行商から貸布団や打ち返しの全盛の時代をへて、高級羽毛布団などを扱う寝具専門店として今日に至る」という。2018年7月末に野毛店は閉店した。鶴ヶ峰本店が営業している。
建物が残ってしまった「濱や地所」は、『はまれぽ>野毛で篭城…2019.01.21』によると、2007年頃に入居してきた。それ以前も30年ほど不動産屋だったという。さらにその前は、建物の壁の上部に「疊」の字のレリーフがあることから畳屋だったと思われる。
「しんり」と「一京屋」は建て替わったマンションの1階に移った。
1963年(昭和38年)創業という「三幸苑」は野毛3丁目に移っている。
「かめや」は食べログの投稿記事によると、1935(昭和30)頃に居酒屋として開店、昭和25年に鮨屋になったという老舗。再開発を機に廃業したのかも知れない。

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もみぢ菓子司舗。横浜市中区野毛町2-64。2010(平成22)年4月10日

村田家の、野毛柳通りの向かいにある一軒家の日本建築の和菓子店。野毛の飲食店街でこの建物はなかなかのオーラを放っている。1946(昭和21)年の創業だから、そのときに建ったのだろうか? バラックから始まって何年かしてからこの店舗を建てたのかも知れない。本町小学校の生徒が作った「もみぢさんのせんでんポスター」が楽しい。それによって、店主が「にしむらさん」で、趣味は釣り、ドラヤキは白あんの方が好き、などと分かる。「1961年から」の次が読めない。
もみぢの右は「ちんちくりん」という居酒屋。2015年に現在の「jin-bay」という立ち飲み屋に替わり、その時に内装や正面の外観を改修している。右にあった入り口を左に替え、そこにあった窓を2階に移したようである。「サンドイッチ各種 アイスクリーム 珈琲60」の文字は元は1階にあった。コーヒーが60円というと1960年代だろうか。

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村田家。横浜市中区野毛町2-65。2010(平成22)年4月10日

魚料理の老舗として野毛町では有名な店。定食のメニューが豊富で、それが夜でも注文できるとか。店の外観から予想できるような値段なのだが、近頃は外観に反して高い値段の店もけっこうある。この店は安心である。
はまれぽ>野毛の街の歴史について教えて!』によると、村田家は1945(昭和20)年、ふぐ料理店として開業したらしい。当時の店主は戦中、下関の「春帆楼」で修行した人で、神奈川県のふぐ料理免許制度を導入するのに奔走し、他の店の指導もした。
戦前は伊勢佐木町にあって、接収によって野毛町に移ったという。その伊勢佐木町の村田家という米屋の名前を引き継いだのが店名の由来という。
村田家のHPには「創業60年」とあり、そうすると1963(昭和38)年頃になる。これはどう考えればいいのだろう?
建物は木造平屋で、昭和20年代のものに見える。今や周囲に木造平屋の建物はまずないだろう。正面はモルタル壁の四角い外観だが、2013(平成25)年末に「改築」されて、モルタル壁はなくなり、下見板の壁は新しくなった。外観が変わらないように改修したように思える。

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三保園ホテル。静岡県静岡市三保2108。2014(平成26)年11月28日

清水灯台に隣接するところにある大型の旅館だったが、2021年3月31日で閉館した。新型コロナで客数が激減したためだが、施設の老巧化ということもあるらしい。再開するときは建物を建て直すことを考えているのかもしれない。
三保園ホテルを経営しているのは「富士レックス株式会社」という1946年12月創業の会社。三保園ホテルの開業は1947(昭和22)年7月。写真の「新館」は1963(昭和38)年9月の開館。旧館は新館の裏手にある「別館のスペイン館」がそれらしいが、1946年開館時の建物かどうかは不明。
旅館にとって温泉はなんとしても欲しいわけで、2006(平成18)年に地下1159mから汲み上げた地下水を「源泉かけ流しの天然温泉-天女の湯 三保羽衣温泉」として客を誘致した。2013年に富士山が世界遺産になり、三保の松原がその構成要素に指定されると、客数も伸びたようだ。食事もカニ食べ放題などで1泊1.5万位の料金と、ホテル側の努力もなかなかのものだ。ぼくが泊まった2014年では「まぐろ尽くし」のメニューだった。



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門柱。静岡県静岡市清水区三保2110
2014(平成26)年11月28日

清水灯台のある海岸に「清水三保海浜公園」があり、そこに「甲飛豫科練之像」が建っている。その記念碑案内板によると、「甲飛豫科練」とは海軍航空隊の「甲種飛行予科練習生」のこと。昭和19年9月1日、清水航空隊が三保に開設され、予科練生14、15、16期生2700名がそこで訓練に励んだ。『ウィキペディア>清水海軍航隊』によると、第19連合航空隊に編入されたが、半年後の昭和20年3月1日に横須賀鎮守府隷下第20連合航空隊に転籍している。翌4月には上・水中特攻訓練に教程変更。6月30日に解隊。10ヵ月の存在だったわけだ。飛行機の訓練はなかったという。解隊後、生徒は他の突撃隊に行かされた。
甲飛豫科練之像が建立されたのは1985(昭和60)年8月で、建立者は「清水海軍航空隊所属/第14、15、16期海軍甲種飛行予科練習生一同/清水海軍航空隊清空会関係者一同」となっている。清水航空隊の施設は像のある海岸の背後の一帯にあったと思われる。「1947年頃の空中写真」に東西に長い家屋が30棟ほど写っていて、航空隊の宿舎かと思う。現在、そのうちの最も南にあった棟が残っているようだ。また、半島の内浜側に残っている特攻兵器震洋の掩体壕は清水航空隊の遺跡である。

清水海軍航空隊』の甲飛豫科練之像の写真は、道路の脇に建っている。その場所は三保半島を横断する三保灯台通りの「飛翔寮」の門の前に違いない。いつ三保海浜公園に移転したのだろう。

写真の門は豫科練之像の道路の向かい側、「焼肉センター」の横にあるもの。豫科練之像の間近にあるので、清水航空隊と関連付けたくなるわけで、また、「三保飛行場」の存在がなんとなく清水航空隊へ考えが及んでしまう、ということもある。普通に考えれば民家の裏門である。

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清水灯台
静岡県静岡市清水区三保2109
2014(平成26)年11月28日

清水灯台(三保灯台)は三保の松原の「羽衣の松」から2.5km程北にある。付け根から北へ延びる三保半島が西へ曲がる所で、清水港へ向かう船はみなこの灯台に向かって進むことになる。灯台のある半島の曲がり角は「吹合ノ岬」という地名がある。
清水町(現静岡市清水区)は、町の発展は清水港に寄る、ということで明治後期から国にも働きかけて清水港の整備を進め、その関連で灯台の建設にも熱心だったようだ。清水灯台は1912(明治45)年3月1日点灯式が行われた。逓信省航路標識管理所の設計施工で、日本初のRC造の灯台。高さ約18mで八角形平面をした割と小さな灯台だ。
2009(平成21)年2月に経済産業省の「近代化産業遺産」に指定され、2010(平成22)年11月には、「土木学会推奨遺産」の認定を受けている。そして2022(令和4)年9月に国の重要文化財に指定された。
清水区情報誌イノセント>平成24年3月しみず灯台』によると、建設当初の光源は「石油白熱灯」(石油を燃やすものだろうか?)、大正6年に電灯化された。光源を回転させる装置は、ワイヤの先に重りを付けたものが落ちる力を使っていたが、昭和29年に電動化した。灯台守はいろいろと忙しかったようだ。1995(平成7)年3月に無人化された。灯台の横に官舎があり、灯台守は家族でそこで暮らしたようだ。絵はがきに見られる官舎は、洋風の平屋の民家である。取り壊すこともなかったように思うが、勝手に住む人が出てくるのを恐れるのだろう。

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