マケドニアと聞いて私たちはどれだけのことを知っているだろう。
私に関していえば、古代マケドニア王国にはアレクサンドロス大王という英雄がいて、南はエジプトから東はインドをも征服したが、若干31歳で毒殺か酒の飲みすぎかで命を落としたことは知っている。その後の歴史はほとんど知らず、戦後史においてはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部となったことは知っていた。
そして、1991年の社会主義圏崩壊により、旧ユーゴスラビアも解体され、マケドニア共和国になったのだと了解していた。ここで取り上げた映画も、チラシなどさまざまなところで「マケドニア映画」として紹介されている。しかし、厳密に言うとマケドニアという国は存在しない。
それは、古代マケドニアの栄光を自らのものとするギリシャのクレームによってその国名は封じられ、2019年、「北マケドニア」に国名を変更したからだ。なぜ国名まで変更したのかは、それにによってEUへの加盟の道が開かれるからだという(現在審議中)。
まったく余計なトリビアになったが、「北」の有無にかかわらず、私にとっては初めてのマケドニア映画であった。
主人公ペトルーニャは歴史学で大学を卒業し、学歴はあるものの、それを生かした職業にはありつけないままに過ごしてきた32歳のやや肥満体の風采の上がらない女性である。生活態度もどこか投げやりなところが目立ち、だらしない感が目立つ。
面接試験に出かけるのだが、そこでもセクハラ的な扱いを受けるだけで相手にされない。
その帰途、ギリシャ正教のある催事に遭遇する。それは、日本でもよくあるはだか祭に似ていて、川のなかで待機する裸の男性のなかに、橋の上から司祭が十字架のイコンを投げ込み、それを拾ったものが幸運を保証されるというものだ。
川岸で視ていたペトルーニャは、衝撃的に川に飛び込み、その十字架のイコンを拾ってしまう。
問題はここに発する。実はこの行事、伝統的な不文律として女人禁制だったのである。そのイコンを離さない彼女に対し、家族も離反し警察へと連行され取り調べを受けることになる。映画の後半は、警察署が舞台となる。
しかし、彼女はある特定の宗教団体の私的なタブーを犯したのみで、刑法上の規定には何らの抵触もしていないし、社会的な意味でも周辺にどんな迷惑をも及ぼしてはいない。
ペトルーニャの拘束をTVの女性レポーターは懸命に伝えようとするが、一般市民も、TV局もまったく関心を示すことなく、レポーターと同行したカメラマンは局の命令に従って帰ってしまう。ただし、レポーターの要請に応じてカメラはおいてゆく。
一方、狂信的な裸の男達は警察署へと押しかけるが、窓ガラスを割ったりして建造物損壊で逮捕されたりもする。
そんななか、ペトルーニャへの恫喝や哀願を交えた説得が続くが彼女はそれに応じない。イコンは私がとった、私にも幸運が保証される権利がある、だから返さない・・・・と。
彼女の主張は、ジェンダー論などに裏打ちされたものではなく、その発端も衝動的であったし、その後の経過もただ頑なであるかのようにみえるのだが、そのみどころは、この警察署での経過のうちで、当初、怠惰でだらしなくみえた彼女の挙動や表情がどんどん引き締まり、美しくさえ視え始めるところだ。
こうした女性の変貌には既視感がある。
2014年、主演の安藤サクラの体当たり演技が話題になった『百円の恋』の主人公の変遷を思わせるものがあるのだ。
ペトルーニャの取り調べには、検事まで登場するのだが、いかなる法的権威をもっても彼女を拘束し続けることはできないだろう。そしてやがて、彼女は放たれるだろう。
そしてその折、彼女がとった行動は、どこか拍子抜けするような、でもどこかホッとするようなものであろう。
そして、私は期待するのだ。これを経過したペトルーニャは、これまでとは違った生を方を辿るかもしれないと。
カメラワークが面白い。会話などが画面中央で行われるのではなく、登場人物の頭しか映っていないところで行われたり、時折、登場人物がまったくのカメラ目線で登場し、「あんた、どう思うの?」と問われているような気になったりする。
監督はテオナ・ストゥルガー・ミテフスカという女性だが、この映画で初めて知った。