同じようなことがあった。昨年夏のことであった。
私の晩年の20年間ほど、お付き合いがあり、その影響も受けた先達、大牧冨士夫さんのお連れ合いフサエさんの手になる梅干しとお惣菜をお送りいただいたのだった。そして今年もまた・・・・。ありがたいことである。
これを敢えて「徳山村の味」としたのは大牧さんご夫妻が、貯水量が全国最大と言われる(そしてその割にほとんど役立っていない)徳山ダムの底に眠る旧徳山村(全村水没)で過ごされ、その伝統を、とりわけフサエさんはその郷土料理を引き継いでいらっしゃるからだ。
以下、引用した昨年の際の拙ブログにも述べているが、フサエさんの梅干しは、私にとってはこれぞまさに梅干しそのものという味なのだ。
しかし、今年は決定的に違う点がある。フサエさんのお連れ合いの冨士夫さんがこの1月、なんとあの憎っくきコロナのために召されてしまったからだ。
冨士夫さんからの年賀状が、まだ私の机上にあるのに、その訃報が届いたのだった。だから、このフサエさんからのいただきものは、嬉しいとともに、新たに哀しみを誘う。
最後の頃、冨士夫さんから「クラシックについてレクチャーしてくれ」とのことで幾度かの行き来があった。そしてそのお付き合いをさらにというときにコロナがやってきた。
そんなことがなかったら、そのお礼にと去年も、今年もCDを抱え込んで参上し、私なりのうんちくを傾けるところなのだが、それももはや叶わぬ夢となってしまった。
フサエさん ありがとうございました。フサエさんの味、大牧夫妻の味、そしていまはなき徳山の味を堪能させていただきます。
*以下は昨年、やはり、お送りいただいた際のブログです。長くなりますが、そのまま掲載致します。繰り返しになりますが、冨士夫さんの不在がもっとも大きな違いです。
私はほとんど梅干しを買ったことがない。食べないわけではない。いただきものなどはありがたく頂戴している。
しかし、これぞ梅干しという私の記憶の琴線に触れるようなものにはなかなかお目にかかれない。
スーパーのものがダメだといっているのではない。ただ私の抱く梅干しの「原」イメージとは離れているのだ。
私にとっての梅干しの原点は、疎開していた折、岐阜は西濃地方の母方の祖母、カギさんの作ったそれだ。特別なノウハウがあるわけではない。伝統的なそれを頑なに守り、その折々のTPOに応じて、というか長年の経験に応じて、梅の成熟具合、乾す天候などに応じほんの僅かなバリエーションを加えてはいたのだろう。
結果としてカギさんは、今年はやや酸っぱいかなとか、しょっぱいかななどと自己評価をしていたが、幼い私にはそんな微小な差異はわかるはずもなく、ただただうまかった。
当時、私のように田舎で育った人間にとって、梅干しが食生活に占める割合は遥かに大きかった。いまほど副食材に恵まれていない折には、梅干しのみがおかずであったこともしばしばであった。「日の丸弁当」というのがまさにそれであった。
梅干しは子どものおやつでもあった。私もまた、祖母の梅干しを、竹皮を三角にした中に入れ、それをチュウチュウ吸っておやつにしたことが何度もある。梅干しが出来上がった頃のこの夏のおやつは、塩分を補給して子どもたちを熱中症から守る役割を果たしていたのではあるまいか。
その後は、祖母のスキルを受け継いだ母、シズさんの梅干しを食べ続けた。それらの味こそが、「梅干し」のそれであった。そのシズさんが作らなくなって以降、私は自分から求めて梅干しを口にしなくなった。
ただし、その後も、いただきものの梅干しを何度も口にしたことはある。それらはブランドの梅を使用し、果皮はあくまでも薄くて自己主張などせず、果肉もまたとろけるように柔らかく、酸味や辛味は極限にまで抑えられているばかりか、ハニー味さえあって、そのままスイーツにでもなりそうなのだ。
それらがダメだとか、まずいと言ってるのではない。ただ、それらは、私の味覚に残る「原梅干し」のイメージと大きく異なるものであり、いってみれば、梅を材料にした別の加工食品なのだ。
前置きが長くなったが、久々に私のイメージに合った梅干しにお目にかかることができた。かつて、同人誌「遊民」でご一緒した先達の大牧冨士夫さんお連れ合い、フサエさんの手作りの梅干しを送って頂いたのだ。これぞ、私が思い描く梅干しそのものなのだ。
果皮はあくまでもその存在を主張し、果肉はヘラヘラしないでちゃんとしっかりしている。問題はその味で、梅本来のそれを変な妥協で加工し、崩すのではなく、その酸味も、香りもちゃんと残しながら、梅と塩、梅酢と赤紫蘇の色合いと香り、天日に晒したその恵みなどがギュッと凝縮した味わいなのだ。
もちろん、酸っぱすぎたり塩辛すぎたりもしない。
フサエさんの梅干しが、その生粋の伝統によるものだというのにはわけがある。フサエさんが長年暮らしていたのは、いまはすべてがダム湖に飲み込まれ、全村、その姿を消した旧徳山村だったのだ。その山での暮らしの中で、この梅干しの伝統もフサエさんに伝えられたものであろう。
日本一の貯水量を誇りながら、ほとんど無用の長物といわれ、「ムダなダム」と回文による陰口を叩かれるこのダムは、縄文以来の歴史、平家の落人伝説の歴史、などなど、すべてを飲み込んでしまった。まさに一つの歴史と文化の消滅であった。
いくぶん大げさないい方をすれば、その中から救い出されたもののひとつがこのフサエさんの梅干しなのだ。
私のこの言い方は決してオーバーではない。フサエさんは、梅干しにとどまらず、かつての徳山村の食生活を彷彿とさせる書の著者でもあるのだ。
『フサヱさんのおいしい田舎料理 ー 岐阜・旧徳山村で作ってきたもの』(発行・発売 編集グループSURE 2014)がそれで、村では普通に食べていたものの紹介ということだが、やはりそこには山の民ならではの食文化の貴重な記録がある。
私が今、目前にしているのはそういう伝統を引き継ぐ梅干しなのだ。それは同時に、私の祖母、カギさんのそれや母シズさんのそれと通じるものでもある。
そして、その「口福」を味わうことができる私の舌もまた、カギさんやフサエさんが残してくれた伝統的な味覚に鍛えられた私独自の「味蕾」に支えられている。梅干しの中に潜む歴史と伝統、それをいま一度蘇らせてくれるフサエさんの手になるそれを、感謝を込めていただきたいと思う。
フサエさん、ありがとう。冨士夫さん共々、いつまでもお元気で。
【お連れ合い・冨士夫さんのこと】最後の写真は、旧徳山村と福井県鏡にそびえる冠山である。これはまた、フサエさんのお連れ合い、冨士夫さんが俳号にしていらっしゃる山でもある。この一事にも、大牧さんの捨てがたい故郷・徳山への思いがみてとれる。
なお、この冨士夫さんの方は、以下のような句集を出されている。
『大牧冨士夫句集 庭の朝』(風媒社 1,400円+税 2018)
私よりちょうど10歳上で、少年兵の経験もおもちの冨士夫さんの句には、俳句独特の言葉の軽妙な響きと同時に、生きてこられた時代の重みをどっしりと受け止められた言葉たちも散見できる。この時代の、この方にしかできない、句たちの趣がある
颱風のほしいままなる庭の朝
春めくや鯉はしずかに動きけり
わがために春日縁先ぬくめをり
花を見て人見て堤暮にけり
旨しかな雛にかづけて昼の酒
戯れてゐもりの腹をかへしみる
脚絆巻きし日風化などさせぬ
十二月八日庭木と話しをり
「故陸軍ーー」碑のある畑の梅白し
空耳の起床喇叭や敗戦忌
われらみな兵士であった敗戦忌
選び抜かれた11句、
無知蒙昧の後輩ながら迫って来るものがあります
僭越ながらそこから3句
小生、昭和22年2月ころの雪を思い出しながら、です
春めくや鯉はしずかに動きけり
*何尾かの池の魚。小さな緋鯉が1尾だけ、全身を見せてくれた
脚絆巻きし日風化などさせぬ
*脚気に効くといって、勤めに出るとき父は、ゲートルを巻いた
われらみな兵士であった敗戦忌
*25歳までには戦死するはずだった。兄たちのように
大牧さんはほんとうに惜しいことをしました。拙宅から車で20分、一昨年までは「おい、クラシックを教えろ」というリクエストに応えて、フサエさんを混じえて三人、縁側の日溜まりで時ならぬ名曲鑑賞を行い、帰途にはフサエさんの「田舎料理」をいただいて帰ったものです。
その大牧さんが、あの憎っくきコロナで、最後にはご家族とも会えないまま旅立たれるなんて・・・・。
幹彦さん、稲垣さん、斎藤さん、そして大牧さんと晩年に知り合った先達との別れが続きました。
コロナ禍が荒れ狂う今日このごろ、私自身が蟄居状態で親しい人とも会えず、心身ともに老化が急速に進みつつあります。
bbさんはたしか私と同年のはず、なんとかこの危機を乗り切って、またお目にかかりたいものです。