昼食後、気だるく身体が重い。昨夜の途中覚醒が長かったのを思い起こし、少しだけ午睡でもと横たわる。目覚めたら1時間半ほど経過していた。衰えという言葉がよぎる。改めて否定してみても仕方あるまい。
それはともかく、最近読んだ小説について書いておこう。
行きあたりばったりの読書だった。というのは、県図書館はコロナ禍で閉館し、返却と予約図書の貸付というカウンター業務のみだったので、いま取り組んでいるテーマに関係したもの若干と、それだけでは芸がないからとなにか小説でもと、新着図書の情報のなかで見つけたものを予約した。
私の読書は、同じものを読了まで継続して読み進むということは少なく、学校での授業のように、一日のうちに、違うジャンルのものを交互に併読してゆく場合が多い。これが自分の飽き性に対応しているのだ。
で、見つけた小説というのが、エドゥアルド・ヴェルキンという作家の『サハリン島』(北川和美・毛利公美:訳 河出書房新社)だった。もちろんこの作家やこの小説についての予備知識はまったくない。ただ、ロシアの現代作家で、そこそこ売れているらしいというはかんたんな解説に書かれていた。
カウンターで手にとって驚いた。予備調査が不十分だったのだが、なんと400ページ二段組の大長編小説ではないか。
初めて出会う外国の小説の場合、冒頭で状況を掴むまではちょとスリリングだ。それがいつの時代で、どこで、主人公の年齢、男女、その素性のようなものが次第にわかってくるからだ。
この小説の場合、ロシアの小説であること、タイトルなどからして、ロシアの中央部、モスクワとかサンクトペテルブルクからロシア人の男性の主人公がサハリン島に出かけるのか、あるいは、サハリン在住のロシア人の話かとあたりをつけて読み始めた。
男性と特定したのは、祖父譲りのマッキンソッシュのコートを改造し、拳銃二丁を素早く操作できるポケとをつけるなどとあったからだ。
しかし、これは大違いで、まずはロシア人ではなく日本人だったことだ。もっともロシア人の血が混じっていて瞳が美しいブルーであったのだが。それと、男性ではなく、若い女性であった。うかつにも、それに気づくためには数ページを要したのだ。
名前はシレーニ、彼女は、未来学の権威オダ教授の命を受け、国の指令をも背負って、サハリン島の実態調査に出かけるのだった。サハリン島=樺太の北緯50度の南側が1945年までは日本の領土だったことを知る人はいまや少ないだろう。
しかし、この書の描く状況はそれ以上に奇妙である。それも一挙に説明されることはないので、読み進めるうちに徐々に把握して行くほかはないが、どうやらアメリカ、北朝鮮(この小説ではコリアンとだけ書かれているが)を中心とした第三次世界大戦が勃発して、その激烈な核兵器の攻防の結果、安保条約を無視したのだろうか、鎖国的に生き残った日本のみが国家の体をなして存続していて、しかも、天皇制をいただく大日本帝国を国体としているのだ。ただしその軍隊は「自衛隊」と呼ばれ、その戦艦などに、「エラの・ゲイ」(広島へ原爆を投下したB29の改造機だ)とか「マッカーサー」とか名付けているのは笑える。
アメリカを始め、他の国々はほとんど消え失せたようだ。アジアではコリアンや中国の生き残りはいるものの、人をゾンビ状態にする移動性恐水病(MOB この命名は、ハンナ・アーレントなどが説く全体主義を先取りするような暴虐性を秘めた群衆=モッブを意識しているのかもしれない)の蔓延で、人間が住む状況ではなくなっている。それでも、それらがサハリンに潜入し、患者が暴徒化する様子が描かれている。
ようするにこの小説では、大日本帝国が序列の中心にあり、最下層には戦争を引き起こしたコリアン、それに加担したともとれる中国人がいる。それに黒人やしばしば白人のアメリカ人は、見世物的に檻に入れて吊るされ、投石などの虐待にさらされている。これらは極めて差別的に描かれていて、しばしば抵抗を覚えることもある。で、ロシア人はというと主人公がハーフであったり、サハリンでそれを警護する青年、アルチョームがロシア系であったりするなど、好意的ないしはニュートラルに扱われている。
この二人を中心としたサハリンの南部をほぼ一周する紀行は奇妙な風習に満ちており、ガリバー旅行記を思わせる風刺も含まれる。しかし、この視察旅行、サハリン地区での大地震により、ここに集中していた刑務所や収容所が損壊し、収容者たちが暴徒化し、加えて、上述したMOBの感染が広がるなど、緊迫した後半へと至る。
最終的に大日本帝国はサハリンを全面的に「浄化」することとし、12発の核弾頭を打ち込む。主人公、シレーニもこの巻き添えで命にも関わる重症を負うが、「皇室病院」の手厚い治療で回復へ向かい、オダ教授への報告は、学術報告書ではなく小説になるのだが、この小説自体がそれであるということにもなっている。しかし、それだけではない。このエピローグは丁寧に読まれねばならないだろう。
本文ではほとんど述べられなかったシレーニとアルチョームとの死の別れに先立つ関係が明らかになり、その未来の結晶である記念すべき物体に彼の名が刻まれることになったことが述べられている。
また、少女時代のシレーニに感動を与えたかつての詩人、彼はその後転落し、冷酷な殺人鬼としてサハリンに収容され、視察に訪れたシレーニと対決するはめになるのだが、そのシンカイという男性の述懐がラストに置かれている。そこには、シレーニとの再会が「エデンの園の門のそばで」と希望に満ちて語られているのも皮肉というほかはない。
このように、この小説では、時折語り手が転換したりする。それはどうしてかというと、それはまた、ロシア人のエドゥアルド・ヴェルキンがなぜ日本を名指したような小説を書いたかに通じるのだが、彼が敬愛する日本の小説家が芥川龍之介であり、中でもその『藪の中』をもっとも評価していることからしても頷けるところである。
総じていって、400ページを飽きることなく読み続けられる面白さをもっているし、映画的な描写もあってまさに映画にしたら一大スペクタクルになることは間違いないのだが、問題は、コリアン、中国人、黒人などがあからさまに人間以下の存在としてしか描かれていないことである。
いかにSF的な設定で、自然条件的な背景として「そうなってしまったデストピア的状況」として語られていようとも、当のコリアンや中国人がこれをどう読むのだろうか。
この辺がどうしても気になってしまって仕方がないのだ。
著者に人種偏見的な先入観があるとは思いたくないのだが、もしそうならば、もっと抽象度を上げる表現があったのではとも思える。しかし一方、それでは現実のサハリンを取り巻くリアルな状況から逸れてしまうのだろうか。
いろいろ、複雑な読後感が残る小説であった。
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