六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

なぜ美濃国一之宮が「武運長久」の祈願所に? 小学生の参拝記

2017-12-08 23:04:56 | 歴史を考える
 岐阜は西濃地区の歴史的痕跡を辿る旅は、美濃国一之宮・南宮大社に至った。
 社伝では崇神天皇の頃の建立というからやはり4世紀に遡る。
 Wikiでの紹介は以下のようだ。
 「岐阜県西部、南宮山の山麓に鎮座する。《国府の南》に位置する宮」として《南宮》を名乗るようになったとされる。鉱山を司どる神である金山彦命を祭神としており、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている。境内には江戸時代の遺構18棟が残っており、国の重要文化財に指定されている。」

              

 なお、「大社」を名乗るのは全国で24社あり、出雲大社、春日大社などが著名である。
 この南宮大社はそれほどの規模はないが、往時の格式としてはそれなりの評価があったのだろう。それは上の記述にあるように、ここの祭神が金山彦命(かなやまひこのみこと)という当時の最先端の資源、その加工技術などを含め金属を司る神様だからだと思う。

          

 ここでこの大社と私個人の関わりについて書いておこう。
 たびたび述べているように、私は戦中戦後の数年間、縁故疎開で大垣郊外、ほぼその西端で過ごしていた。
 当時、父は兵士として満州へ駆り出されたきり、敗戦になるやその連絡も途切れ、母と二人、親戚の家の敷地内にあったトタン葺きの掘っ立て小屋に身を寄せていた。

          

 信心深い母は、ひたすら父の無事を祈り、戦中も、そしておかしな話だが敗戦後も、「武運長久」にご利益があるという社寺仏閣に祈祷に出かけた。ほとんどの場合、私も同行した。
 そのひとつに南宮大社もあったのだ。

          

 なぜこの大社が武運長久にご利益があるとされたのかは、その祭神の性格にあるのだろう。すでに見たようにここは「全国の鉱山・金属業の総本宮」である。この金属が拡大解釈され武器の神とされ、したがって、武運にご利益があるとされたのだ。こうしたこじ付けとも思われる武運長久へのすり寄りは、戦時中は全国の至る所の社寺仏閣にあって、軍国主義体制での宗教的祈りはすべからく武運長久、敵国殲滅に収斂されていたのであった。
 「平和」など祈ろうものなら、特高警察や憲兵隊に引っ張られ、「非国民」として処罰は必至という時代だったのである。

              

 ところでこの南宮大社、私の当時の住まいからは6~7キロは離れていたのだが、私と母はそれを徒歩で往復していたのだった。昔の人は10キロぐらい離れたところまでは平気で歩いたし、子供ながらに私もまた健脚であった。
 あわや戦争未亡人という母はさておき、私にとっては南宮様へのお参りは楽しいピクニックであった。おにぎりの弁当と水筒をもち、田園地帯を縫って行くその道端には、スカンポやスイスイ葉、野いちごなど、おやつになるもののも豊富であった。

          

 そんな思い出がある大社だから、懐かしさはもちろんあるが、なぜか荘厳さを感じることは少ない。かえって馴染みすぎているからだあろう。
 このお社の基調である朱塗りの柱の明るさ、華やかさも、荘厳さとはまた違った雰囲気を醸し出しているせいもある。

              

 私たちの祈りが効いたのかどうか、それから何年か後、父は無事シベリアから帰還することができた。

 西濃地区歴史の旅は次回が最終回。
 見事な名残の紅葉も紹介するつもり。






 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

点在する礎石とそれを彩る草紅葉 美濃国分寺跡にて

2017-12-07 22:56:49 | 日記
 私たちが訪れた大垣郊外の地は、いわば濃尾平野の西の突き当りで、いまや冬ざれた田畑のなかに集落が点在する片田舎にすぎないのだが、かつてはここに国府がありその近くには国分寺、国分尼寺、そして美濃一之宮(南宮大社)があるという、往時の県庁所在地だったような箇所なのである。

          
               在りし日の国分寺のジオラマ
 
 それらがすべて、遺跡となって点在するのみで、かつての賑わいを想像すべくもないのだが、ただし、この地が、かつても今も、交通の要所であったことは明らかである。
 この地から少し西には、南から迫る養老山脈、北からの伊吹山地という狭い地形のなか、美濃から近江を経て京に至る道が集中している。その挟地を経由しない限り、人は著しい遠回りか、険しい山越えを強要されることになる。
 だからこの地には、その狭地に不破の関が置かれ、その東方の開けた箇所に美濃国の重要拠点が配置されたと思われる。

          
                 七重塔の礎石群

 ちなみにいまもなお、東海道線の在来線、新幹線、国道21号線(かつての中山道)、そして東名高速道路といった幹線が、まるで砂時計の狭い箇所のように、わずか一キロに満たない幅のところを並行して走り、その狭地を抜けたところで思い思いの方向に拡散している。

          
                 塔の心柱を支えた礎石

 そのうちのひとつ、いまは広々と整備された美濃国分寺跡を訪れた。ここは8世紀中頃、聖武天皇の命により、全国68か所に建立された国分寺の一つで、その建立は1400年の歴史を遡ることとなる。
 北側の山裾に立つ現国分寺の他には視界を遮るものもないまさに平らで開けた土地である。
 広大な土地だが、建物などは一切ない。かつてこの地にあった七堂伽藍の痕跡が、ただその礎石として残るのみだが、それがかえって、往時の壮大な佇まいを偲ばせ、想像力を刺激する。

          
                   講堂の礎石群

 あえてその在りし日の立体的なイメージを求めるならば、その近くにある大垣市の歴史民俗資料館に展示されている復元ジオラマが参考になる。

          
              寺の中心 金堂の堂々たる礎石たち

 広い敷地は一面の草紅葉が目を楽しませてくれるが、それを踏みしめながらかつての建造物の痕跡をたどる。
 いろいろ詳細を記すとキリがないので、主だった痕跡を紹介しよう。

              
          
          
          遺溝を彩る草紅葉や葦の紅葉、木立のすすきも美しい
   
 最初は、七重の塔の礎石である。これらの上に、最上部の九輪や宝珠を含めて54メートルの塔が立っていたというから驚きだ。
 この高さは、現在のビルの高さに換算すると十数階建てとなる。

          
               古墳から出土した円筒の埴輪

 中央の石が、塔全体を担う心柱が立っていたところだ。所によっては、その礎石の中央が凹字様にくぼんでいるものもあるが、ここの場合には逆に凸字様になっていて、ここに立った心柱の底面がくぼんでいたと思われる。
 いずれにしても、この決して広くない箇所に54メートルの塔を振り子状の力学的な力の分散を計算しながら建立した往時の建築技術は大したものだと思う。

              
                古墳内から出土した石棺

 そのほか講堂あとなどの礎石も残っているが、やはり圧巻は金堂跡で、東西8基、南北5基と残されたひときわ大きな礎石は、この上にそびえていた大伽藍の偉容を彷彿させるに十分である。

          
              国分寺の石積みと当時の柱の一部

 そうした遺跡とは直接関連しないが、その敷地一面にちょうど程よく色づいた草紅葉が広がり、とてもきれいであった。一隅にあって群生している葦のグラディーションも目をなごませてくれた。

 この遺跡に隣接して、大垣市の歴史民俗資料館があるのだが、さほど多くはない展示品は、これでもかと羅列されるそれらより見やすかった。
 もちろん国分寺跡からの出土品も展示されているが、すでに見てきた昼飯古墳群などからの出土品も展示されていて、円筒埴輪の実物や、石棺なども見ることができる。

 とくに目を引いたのは、やはりこの付近で出土した須恵器の実物で、犬や鳥などの線描が施され、それらの文様がが鮮やかに残っている。そのふくよかな丸みも、そして色彩もまた温かい。

          
         古墳出土の須恵器 線描された動物や鳥が面白い

 この広い国分寺跡を立ち去る折、いまいちど振り返ると、この平らに開けた地に、かつて豪勢な七堂伽藍がそびえていたとはにわかに信じがたく、それらを消し去り埋もれさせた時の力と、にも関わらずその痕跡をもとに消え去ったものを蘇らせ、それを記憶にとどめようとする人の追憶への欲望をひしひしと感じるのであった。
 そして、その過去と現在のあざなえる葛藤が、私のなかにも、かつて生き、いま生きている人々への共振のようなものとしてあるのだろうと思った。

 西濃路、歴史探訪は続きます。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1600年の時を超えて前方後円墳に立つ 西濃歴史探訪より 

2017-12-05 22:53:55 | 歴史を考える
 昼飯と書いて「ひるい」と読む。「ひるいい」と読まないのは、前回触れた「おおはか」が「おはか」になったのと類似した現象かもしれない。
 それにしても面白い地名である。
 私などは、これから、
  家にあれば笥(け)に盛る飯(いい)を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る
 という、謀反露見で捉えられ護送される有間皇子の歌を思い出すが、あれは和歌山方面にいた中大兄皇子に尋問を受けるための虜囚の旅で、この辺とは関係がない。

          
               左は整備以前 右が整備後

 ついでながら、椎はドングリの仲間で、そのなかでもあまり葉が大きい方ではない。どうしてそんな小さな葉に飯を盛るのかと高校生の頃思ったものだが、万葉の頃と今では植物の呼び名などその指示対象が変化しているから、きっともっと大きな葉に盛ったことだろうと思う。

          
             全体像 左「前方」 右「後円」

 さて昼飯に戻ろう。ここには、国指定史跡昼飯大塚古墳がある。
 まずはその概説を見ておこう。
 「昼飯大塚古墳は今から約1600年前に築かれた岐阜県最大の前方後円墳です。その特徴は墳丘の長さが150mにもなることやその構造が三段築成となる点、さらには後円部の頂上に竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬という3つの埋葬形態が存在する点にあります。
 保存整備では現況の墳丘を修復しながら、後円部の一部に復元ゾーンを設けて葺石や埴輪、周濠を復元しています。」(大垣市のホームページから)

          
           「前方」部分に登り「後円」方面を臨む

 その規模は以下のようだ。
 墳丘長 約150メートル
 後円部径 99メートル
 高さ 13メートル
 前方部高 9.5メートル
 周壕含む総全長 約180メートル

          
                いよいよ「後円」部分へ

 その他いろいろな説明もあるが、何はともあれ、この前方後円墳が、その上に茂った樹木や堆積物を取り除き、その創建時の様相をあからさまに示しているのがありがたい。
 ちなみに、ここに載せた一番上の写真が、整備前と整備後を示す展示からとったものである。

              
            「後円」部分から「前方」部分を振り返る

 この古墳はみごとに往時の姿に復元されていたが、その規模が大きいのと、その周辺に今や他の建造物があったりして、全体を俯瞰できる撮影スポットがなく、ドローンか何か使わない限りなかなかその全貌が撮せないのだが、なんとか撮り得た範囲のものを載せるので、不足分は想像で補っていただきたい。

          
        「後円」部分の全景 半分は石積みの様子を残している

 この古墳のもうひとついいところは、誰でもそこに登り、その規模や高さ、そこからの眺めなどを体感できることだ。1600年前の古代人たちが作った古墳を踏みしめるなどということは滅多にできることではない。
 わけの分からない権威を振りかざして、その学術調査すら認めようともしないどこやらの古墳とはえらい違いだ。

          
            「後円」部分に残された円筒埴輪の列

 「前方」というのはもちろん方形をしていてそちらが前部になるからだ。そちらから登った。もちろん創建時にはなかっただろう緩やかな階段で私のような老人でも登ることができる。生憎の寒い日で、古墳の上では、この地方の寒風の固有名詞である伊吹おろしを全身に浴びたが、それにもまして1600年の年月を超えてここに立つという爽快さを享受することができた。

              
                同じ円筒埴輪を近くから

 そこから「後円」、つまり後方の丸い部分に歩を進める。そこが最高地点だ。その中央に立つと、まるで古代の大君になった気分で四囲を睥睨することができる。
 この部分の周辺には、全体を囲っていたであろう円筒形の埴輪が二重の列になって設置されている。もちろんこれはレプリカであるが、その本物の出土品は、後述の歴史博物館で目撃することができた。

          
               この古墳のミニチュアのレプリカ

 ここはお勧めのスポットである。
 前方後円墳の全体像をまじまじと観ることができるのみならず、そこに登って吹き付ける風を体感できるなんて、そして1600年前の時に還ってこの地で生きた人びとの歴史に思いを巡らすことができるなんて、そんな機会はざらにあることではない。
 ここは、21世紀にチマチマと生きている自分の生を、悠久の時の流れに置いて、相対化してみるには格好の場所である。

          

 西濃地方歴史探訪の旅はまだまだ続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大墓ー青墓・おおはかーあおはか・おはか 西濃歴史探訪より

2017-12-04 13:17:54 | 歴史を考える
 過日、名古屋の従前からの知り合いの方から、岐阜は西濃方面の歴史的な痕跡を探訪するのにお供をしないか誘われた。そうした歴史探訪に暗い私はさしづめアッシー君の役どころである。
 そのお誘いを二つ返事で引き受けたのは、その方との長年のお付き合いもあるが、その行く先が、なんと、私が戦時中から敗戦後の数年間、疎開暮らしをしていた大垣の郊外の、そのすぐ隣村に位置したからであった。
 隣村であったと言うべきだろう。私がいた頃は不破郡青墓村といって、大垣とは別の、いろいろな集落がまとまった村であったが、今や大垣市に吸収されてしまっているからだ。それらの集落とは、青墓、青野、榎戸、矢道、昼飯などであるが、そのそれぞれが江戸時代には独立した村であり、明治になってそれらが合併し、青墓村となった。
 なぜこんな些事をことさらに言い立てるかというと、上記のそれぞれの旧集落に、古代から平安にかけてのこの地方の隆盛を物語る痕跡が残されているからである。
 今回はそれらを巡ったわけであるが、巡った順序は車の運行上の都合なので、それは無視して歴史的な順序で整理してみよう。

          
          昼飯(ひるい)古墳公園から 典型的な冬空の養老山脈

 明治時代に、周辺の集落が合併して青墓村になったといったが、それはやはり青墓がそれらの中心であったということであろう。
 どういう意味で中心であったかは、「青墓宿」を説明する以下の文章の中にもある。
 「美濃(みの)国にあった東山道の宿駅。青波賀,大墓などとも書く。現在の岐阜県大垣市青墓町。平安末期から鎌倉期にかけて遊女や傀儡(くぐつ)がいた宿として著名。宿の長者を青墓長者といい,《保元(ほうげん)物語》によると保元の乱後に斬られた源為義の子の母は青墓長者の女(むすめ)で,《平治物語》には平治の乱に敗れた源義朝が青墓に逃れたと記され,源氏と関係の深い地であった。」
 これからわかるように、いまは何の変哲もないのどかな田舎なのだが、往時は京、鎌倉と密接な関連のある場所だったのである。

          
               昼飯古墳公園から 近くの紅葉

 ついでに、「青墓」の読みについて書いておきたい。
 当然これは日本語の読み(音読)としては「あおはか」である。
 しかしである、その隣接するところに住んでいた少年時代、私も、そして周辺の大人たちも、そこを「あおはか」とはいっていなかった。
 ではどういっていたかというと、「おはか」である。
 「おまはん、どこへ行きんさる」
 「ちょっと《おはか》の親戚へ」
 といった具合だった。
 私自身、「青墓」という漢字表記を見る前は、この地は「おはか」であると信じてやまなかった。

          
            昼飯古墳公園から 近くの金生山方面を見る

 これは、名古屋の鶴舞地区の呼称に似ている。他地区の人が読めば「つるまい」なのだが、その地域では圧倒的に「つるま」が多いのである。
 鶴舞町・鶴舞公園・鶴舞中央図書館・名古屋市立鶴舞小学校などはすべて「つるま」で、地下鉄や中央線の駅名は「つるまい」である。

 さて、「あおはかvsおはか」であるが、上に引用した青墓宿の説明の中にもヒントがある。そのひとつの地名の由来のなかにある「大墓」がそれである。
 この地区には大墓があるのである。
 では、大墓とは何か。
 それは4世紀後半に端を発する古墳群である。この古墳=大墓がこの地の地名の発端であることは確かなように思われる。ではなぜ、「おおはか」が「あおはか」に転じたのであろうか。

           
       金生山の一部 全山石灰岩の山は削られ、子供の頃に観た面影はまったくない


 それはどこでもそうであるが、当初、造成された塚としての墳墓は、時代とともに草木に覆われてゆく。今日の多くの古墳が、そうした草木に覆われ、素人目には小山だか丘だか分からなくなってしまっている。
 そうした緑に覆われた古墳が、ようするに青墓に転じたのではあるまいか。しかし、文字によらぬ口伝で受け継がれた地名は「おおはか→おはか」だったのではあるまいか。

 私たちが訪れたのは、昼飯(上に述べた青墓村を構成している集落のひとつ)の大塚山古墳(典型的な前方後円墳)であるが、現在は、それが造成された往時の様子がよく分かるように整備されているものの、それ以前には、竹藪や雑木に覆われて、その形状すら明確ではないこんもりした緑の塊であった。
 まさに、「青墓」と化していたのであった。

 前置きだけでじゅうぶん長くなった。
 以下、次の順で述べてゆきたい。

 1)昼飯大塚山古墳
 2)美濃国分寺跡
 3)南宮大社
 4)「今様」発祥の地、「圓興寺」
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インスタ映えする?「マラーの死」

2017-12-03 16:14:32 | アート
 昨日観た、名古屋市立美術館でのランス美術館展の目玉は、ジャック=ルイ・ダヴィッドの「マラーの死」であったが、画集などではお目にかかったことはあるものの、本物はもちろんはじめてであった。
 この絵は、フランス革命後の混迷のなかで暗殺されたジャコバン派の政治家ジャン=ポール・マラの、まさにその暗殺現場(といっても忠実な再生ではない)を題材としたもので、画家ジャック=ルイ・ダヴィッド自身が、このマーラーの盟友であったという。
 したがって、人によっては、この絵そのものがキリストの殉教とオーバーラップした作品だという評価もある。

            

 その詳細な背景は以下を参照されたい。

   http://www.salvastyle.com/menu_neo_classicism/david_marat.html

 ところで、この美術展、作品展示の最後に、面白い企画があった。
 それはちょっとした空間に、マラーの死と同様な装置や小道具が配置されていて、誰もがそれらを用いてマラーになりきり、その死を演じることができるという企画であった。
 私がそこへ差し掛かると、ちょうど年配のカップルがそれを演じて、相方が写真を撮っていた。
 以下は、その方にことわって、私も撮させてもらったものである。

           

 撮影を終えて、その人から、「お宅もどうですか。シャッターを押しますよ」と誘われたが、「いや、私のような年寄りが死んだ人の真似なんかしたら、本当に逝ってしまいますから」と断った。

 もうお気づきのように、これはインスタのための装置である。
 美術館も集客のためにいろいろと大変なようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする