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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「今様」という新しい歌が生まれた場所 紅葉の名所圓興寺にて

2017-12-10 11:49:27 | 歴史を考える
 「今様(いまよう)」といわれる歌をご存知だろうか。
 読んで字のごとく、「現代的な」とか「今風な」という歌で、その「今」とは平安の中期から後期にかけてであるという。
 これは、声に出して歌うもので、平安後期には、後白河法皇がこれに熱中しすぎ、喉を痛めたという記録も残っているというから相当の流行り方だったようだ。
 歌の歌詞は、やはり七五調で、「7、5、7、5、7、5、7、5」で1コーラスを構成したようだ。
 この形式にのせてさまざまな歌詞が作られたという。それらを後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』という書の名前をお聞きになったことがあるかもしれない。

              

 よく人口に膾炙するものとしては
 「遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ 揺るがるれ」
 などがあるが、その発展形としては「越天楽今様」などがあり、さらにそれが筑前に広がり、いまに伝わる「黒田節」になったともいう。

                 

 こうして、時の法皇まで巻き込んだ歌曲であるから、さぞかし京の都が発祥の地と考えられがちだが、そうではないのである。
 ではそれがどこかというと、ここ数回にわたって述べてきた、岐阜は西濃の地、濃尾平野の西の突き当りに位置すし、いまは、ひっそりとした佇まいの里が散在する場所なのだ。

              
『梁塵秘抄』が刻まれた石碑の背後の自然石には「遊びをせんとや生まれけん」との文字が
 
 しかしこの地が、古墳時代から律令制に至り、さらには『吾妻鏡』や『保元物語』、『平治物語』のも登場する繁華な宿場(青墓宿)で、その周辺が往時の美濃国の政治、経済、宗教の中心であり、かつ、美濃、近江、京を結ぶ交通の要であったことはすでに述べてきた。

 さて、この「今様」の発祥と深い関わりがある箇所がこの地区にある圓興寺なのである。
 この圓興寺、八世紀の終わりに、最澄がこの地の豪族大炊(おおい)氏の庇護のもと、壮大な七堂伽藍を建立し、その周辺が大いに栄えたといわれるが、それらの伽藍は織田信長によって焼かれ、いまはその後再建された小規模なものにとどまる。
 そして上に述べたこの地が美濃国の県庁所在地的な役割を担った時代も戦国時代にはひっそりと幕を閉じたようだ。

              

 今様の発祥はこの地が栄えていた平安末期、遊女(あそび)と呼ばれた巫女のような女性の集団が青墓にいて、そのなかに後白河法皇にも今様の歌を伝えたという乙前や延寿、延寿の娘、夜叉姫がいたことによる。
 この夜叉姫にはまた、別の物語があるのだが、長くなるので割愛する。

          

 こうしてこの地は、今様という歌の形を生み出したことにより京とのつながりがあるのだが、いまひとつ、後に鎌倉幕府を開く源氏(いわゆる河内源氏)との縁もある。
 源氏一族は平治の乱(1160年)で平清盛と闘って敗れ、激しい追討や落ち武者狩りを振り切って、大炊一族を頼ってこの青墓にたどり着くのだが、源義朝の子、朝長は、追討との戦いで深手を負っており、これ以上は足手まといと自ら乞うてこの地で命を落としたという。
 源義朝は、頼朝や義経の父であるから、この朝長は頼朝、義経の異母兄ということになる。

               

 圓興寺は、こうしてここで亡くなった源朝長の墓所の所在地でもある。
 なお、さらに東方へ逃げ延びた義朝ではあったが、愛知県知多半島の野間で、恩賞目当ての家臣の裏切りによってその命を落としている。

          

 今はひなびた山裾の寺ではあるが、往時の都の文化や政治、軍事などが交わる場所であったことは興味深い。
 なお、この寺内の紅葉は見事で、今秋、まとまった紅葉を見はぐれた私には、絶好の目の保養であった。

          

 西濃歴史の旅はこれで終わるが、とりわけ私が入れ込んだのは、疎開という偶然事であれ、少年の日の住まいに隣接する土地が、古墳時代からの、かくも歴史に彩られた地であったという驚きであった。
 そしてそれらは、改めて発掘され、復元されるまで、古層に埋もれたままで、その上に新しい歴史、新しい文化、そして新しい人の暮らしが重層的に覆いかぶさっていたということである。

              

 それはもちろんこの地方に限ったことではない。今日私たちが、そしてあなたが暮らすその地の古層にも、かつての文化が埋もれている可能性は多分にあるのであって、その意味では、歴史は時系列に沿うと同時に、空間的な地層のなかに断面として潜んでいるともいえる。
 私たちは、誰かが開き、誰かが生き、誰かが死んだその地層の上に今日生きているのだ。

          

 そして私たちが生み出し、そこで生きたことどもも、やがては古層に埋もれ、その上で新しいものたちが暮らすのだろう。その新しいものたちは、私たち人類の末裔なのだろうか、それとも、AIが司る全く新しい文明(?)なのだろうか。
 神ならぬ私たちは、来るべき未来を俯瞰することはできない。

 西濃路を巡る歴史の旅はひとまずこれで終わりです。

          

【追記】この圓興寺をこよなく愛し、その境内に「遊びをせんとや生まれけん」の石碑を揮毫したシンガーソングライター桃山春衣(1939~2008 著作に『梁塵秘抄 うたの旅』青土社2007)の今様浄瑠璃「遊びをせんとや生まれけん」を貼っておきます。
   
         https://www.youtube.com/watch?v=vzyIwdZBOnQ





 
コメント
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