都市は直線が多い。
基本的にはいまもバウハウスの空間を直線で仕切るデザインが支配している。確かにこれは空間を余すところなく使う機能主義にとっては合理的なのであろう。
しかし、無駄を排した空間の配置はやはり緊張感を強要されるようで疲れる。
考えてみれば、近代合理主義そのものが人間を疲弊させるシステムなのだ。
昭和の面影を残す路地裏に出会うとホッとしたりする。
なぜだろうか。そのひとつの要因は、空間の仕切りが排除的になるのではなく、どこかで曖昧に融合しているからではないだろうか。
上の写真では、路地に置かれた洗濯機などのもろもろのモノたち。これらは今ではそのほとんどが建造物の内部へと収納される。それによって人の営みは内面のものとなり、外部との境界は隔絶される。
しかし、路地にはそれらが外部と融合し、他者との境界が曖昧になる面白さがある。
映画を女性と二人きりで観た。
別に相思相愛の相手ではない。たまたま入ったキャパシティ200ほどの映画館で、その映画を観たのは彼女と二人きりだったというわけだ。
だから並んで観たわけではない。彼女は私より後方にいた。
映画が終わってクレジットが出始めた頃、彼女が出てゆく気配がした。だから最後の何分かは私一人になった。
この時期、各地でイルミネーションが盛んである。
当初は、電力の無駄ではないかなどといわれた時期もあったが、LEDによりそうした声も聞かれなくなった。だから、これでもかといったものが夜を彩る。
でも、私はわざわざ観に行ったりしない。理由は簡単だ。寒いからだ。その代償に、風邪でもひいたらたまったものではない。
ただし、通りかかりのところにあるものは、そこそこに観る。
そしてどこかでひっそりと、戦中戦後の、あの真っ暗な夜を思っている。