岐阜は西濃地区の歴史的痕跡を辿る旅は、美濃国一之宮・南宮大社に至った。
社伝では崇神天皇の頃の建立というからやはり4世紀に遡る。
Wikiでの紹介は以下のようだ。
「岐阜県西部、南宮山の山麓に鎮座する。《国府の南》に位置する宮」として《南宮》を名乗るようになったとされる。鉱山を司どる神である金山彦命を祭神としており、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている。境内には江戸時代の遺構18棟が残っており、国の重要文化財に指定されている。」
なお、「大社」を名乗るのは全国で24社あり、出雲大社、春日大社などが著名である。
この南宮大社はそれほどの規模はないが、往時の格式としてはそれなりの評価があったのだろう。それは上の記述にあるように、ここの祭神が金山彦命(かなやまひこのみこと)という当時の最先端の資源、その加工技術などを含め金属を司る神様だからだと思う。
ここでこの大社と私個人の関わりについて書いておこう。
たびたび述べているように、私は戦中戦後の数年間、縁故疎開で大垣郊外、ほぼその西端で過ごしていた。
当時、父は兵士として満州へ駆り出されたきり、敗戦になるやその連絡も途切れ、母と二人、親戚の家の敷地内にあったトタン葺きの掘っ立て小屋に身を寄せていた。
信心深い母は、ひたすら父の無事を祈り、戦中も、そしておかしな話だが敗戦後も、「武運長久」にご利益があるという社寺仏閣に祈祷に出かけた。ほとんどの場合、私も同行した。
そのひとつに南宮大社もあったのだ。
なぜこの大社が武運長久にご利益があるとされたのかは、その祭神の性格にあるのだろう。すでに見たようにここは「全国の鉱山・金属業の総本宮」である。この金属が拡大解釈され武器の神とされ、したがって、武運にご利益があるとされたのだ。こうしたこじ付けとも思われる武運長久へのすり寄りは、戦時中は全国の至る所の社寺仏閣にあって、軍国主義体制での宗教的祈りはすべからく武運長久、敵国殲滅に収斂されていたのであった。
「平和」など祈ろうものなら、特高警察や憲兵隊に引っ張られ、「非国民」として処罰は必至という時代だったのである。
ところでこの南宮大社、私の当時の住まいからは6~7キロは離れていたのだが、私と母はそれを徒歩で往復していたのだった。昔の人は10キロぐらい離れたところまでは平気で歩いたし、子供ながらに私もまた健脚であった。
あわや戦争未亡人という母はさておき、私にとっては南宮様へのお参りは楽しいピクニックであった。おにぎりの弁当と水筒をもち、田園地帯を縫って行くその道端には、スカンポやスイスイ葉、野いちごなど、おやつになるもののも豊富であった。
そんな思い出がある大社だから、懐かしさはもちろんあるが、なぜか荘厳さを感じることは少ない。かえって馴染みすぎているからだあろう。
このお社の基調である朱塗りの柱の明るさ、華やかさも、荘厳さとはまた違った雰囲気を醸し出しているせいもある。
私たちの祈りが効いたのかどうか、それから何年か後、父は無事シベリアから帰還することができた。
西濃地区歴史の旅は次回が最終回。
見事な名残の紅葉も紹介するつもり。
社伝では崇神天皇の頃の建立というからやはり4世紀に遡る。
Wikiでの紹介は以下のようだ。
「岐阜県西部、南宮山の山麓に鎮座する。《国府の南》に位置する宮」として《南宮》を名乗るようになったとされる。鉱山を司どる神である金山彦命を祭神としており、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている。境内には江戸時代の遺構18棟が残っており、国の重要文化財に指定されている。」
なお、「大社」を名乗るのは全国で24社あり、出雲大社、春日大社などが著名である。
この南宮大社はそれほどの規模はないが、往時の格式としてはそれなりの評価があったのだろう。それは上の記述にあるように、ここの祭神が金山彦命(かなやまひこのみこと)という当時の最先端の資源、その加工技術などを含め金属を司る神様だからだと思う。
ここでこの大社と私個人の関わりについて書いておこう。
たびたび述べているように、私は戦中戦後の数年間、縁故疎開で大垣郊外、ほぼその西端で過ごしていた。
当時、父は兵士として満州へ駆り出されたきり、敗戦になるやその連絡も途切れ、母と二人、親戚の家の敷地内にあったトタン葺きの掘っ立て小屋に身を寄せていた。
信心深い母は、ひたすら父の無事を祈り、戦中も、そしておかしな話だが敗戦後も、「武運長久」にご利益があるという社寺仏閣に祈祷に出かけた。ほとんどの場合、私も同行した。
そのひとつに南宮大社もあったのだ。
なぜこの大社が武運長久にご利益があるとされたのかは、その祭神の性格にあるのだろう。すでに見たようにここは「全国の鉱山・金属業の総本宮」である。この金属が拡大解釈され武器の神とされ、したがって、武運にご利益があるとされたのだ。こうしたこじ付けとも思われる武運長久へのすり寄りは、戦時中は全国の至る所の社寺仏閣にあって、軍国主義体制での宗教的祈りはすべからく武運長久、敵国殲滅に収斂されていたのであった。
「平和」など祈ろうものなら、特高警察や憲兵隊に引っ張られ、「非国民」として処罰は必至という時代だったのである。
ところでこの南宮大社、私の当時の住まいからは6~7キロは離れていたのだが、私と母はそれを徒歩で往復していたのだった。昔の人は10キロぐらい離れたところまでは平気で歩いたし、子供ながらに私もまた健脚であった。
あわや戦争未亡人という母はさておき、私にとっては南宮様へのお参りは楽しいピクニックであった。おにぎりの弁当と水筒をもち、田園地帯を縫って行くその道端には、スカンポやスイスイ葉、野いちごなど、おやつになるもののも豊富であった。
そんな思い出がある大社だから、懐かしさはもちろんあるが、なぜか荘厳さを感じることは少ない。かえって馴染みすぎているからだあろう。
このお社の基調である朱塗りの柱の明るさ、華やかさも、荘厳さとはまた違った雰囲気を醸し出しているせいもある。
私たちの祈りが効いたのかどうか、それから何年か後、父は無事シベリアから帰還することができた。
西濃地区歴史の旅は次回が最終回。
見事な名残の紅葉も紹介するつもり。