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なぜヴィオラは馬鹿にされるのだろうか?

2015-03-03 15:23:47 | 音楽を聴く
 ヴィオラという楽器はどういうわけか、揶揄される場合が多い。
 音楽に関するジョークのうちではダントツで、「ヴィオラ・ジョーク」は単独のジャンルをなし、それだけで一冊の本ができるほどである。
 例えば、「世の中には2種類のヴィオリストがいる。下手なヴィオリストと、死んだヴィオリストだ」がそれであるが、これは巧いヴィオリストなどどいうものはいないということをあからさまに表現したものだ。
 もちろん、そんなことはないのだが、なぜそんな話が累積されることになったのだろう。よくはわからない。

       

 さほど音楽に造詣は深くないが、私の知っている著名なヴィオリストは、パウル・ヒンデミット、キム・カシュカシャン、ユーリー・バシュメット、そして今井信子などである。

 この内、ヒンデミットはとっくに亡くなっているが、ヴィオリストとしてより作曲家としてのほうが著名だろう。ヴィオラ・ソナタ(ピアノ伴奏付き)3曲のほか、無伴奏のヴィオラ・ソナタ3曲を含み、オペラから交響曲、協奏曲など数多くの作品を残している。

 彼はユダヤ人ではなく生粋のドイツ人だったが、ナチスの意に沿う音楽を作曲しないということで「退廃音楽家」のレッテルを貼られ、作品上演の機会も奪われ、亡命を余儀なくされている。

 キム・カシュカシャンで印象に残るのは、テオ・アンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』での演奏だ。ここで彼女は、エレニ・カラインドールの曲の主題をさまざまなヴァリエーションで演奏し、映画の感動を何倍にも増幅することに成功していた。私の記憶に深く刻みつけれれた映画音楽であった。

 ユーリー・バシュメットも優れたヴィオリストであるが、近年はモスクワ・ソロイスツ合奏団を率いる指揮者としても活躍している。
 その名古屋公演を一昨年、名古屋で聴く機会があった。パガニーニのヴィオラ協奏曲イ短調を、彼自身のソロで演奏したが見事なものであった。

 さて、前置きが長くなったが、ヴィオラ奏者、ヘルマン・メニングハウスのソロ・リサイタルに行ってきた。
 彼もまた、1986年、カラヤン末期のベルリン・フィルに最年少メンバーとして登用されたという逸材だ(ただし当時はヴァイオリン)。

3月2日、pm7:00   電気文化会館 ザ・コンサートホール
曲目 バッハ 無伴奏チェロ組曲 第一番
    ビーバー パッサカリア
    ヴュータン カプリッチョ ハ短調
    バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第三番

 プログラムを見てわかるように、ヴィオラの曲ではなく、その音域を活かした曲目の選択といえる。もっともヴィオラはこうしたある種の「普遍性」があるのでこうした曲目の選択はよく行われる。
 バッハの二曲はいわずとしれた名曲だが、チェロ組曲の方はあのチェロの重厚な音の響きに比べるとやや物足りない気がする。もっとも、そんな先入観は捨てて、ヴィオラの演奏として聴くべきなのだろう。
 ただし、私としては、「ヴァイオリンのためのパルティータ」の方が気に入った。

 この中でヴュータンが唯一、一九世紀の作曲家だが、そのせいもあって他の曲と曲調も異なり、技巧的にも見せ場(聴かせ場)もあって面白かった。それもそのはず、この曲は「パガニーニへのオマージュ」として書かれたものだった。
 惜しむらくは、いつまでも聞いていたい心地よい曲なのに、四分足らずとアンコール曲ぐらいに短いことだ。

 でも、なんやかんやいいながらライブはいい。
 伏見の居酒屋で一杯引っ掛けて、岐阜のバスの終車に間に合うように帰った。


このコンサートの前に、映画、『アメリカン・スナイパー』を観たが、それについては少し整理をしてから述べてみたい。
 あちこち行ったので、この日は8,000歩ほどを歩いた。

 





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