六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

『アメリカン・スナイパー』を巡って

2015-03-05 00:24:30 | 日記
 『アメリカン・スナイパー』は一筋縄ではゆかない映画だ。
 だから、とりあえずは映画そのものというより、それを巡る状況について考えてみたい。タイトルを上記のようにしたのは、そのせいである。

          

 そのひとつは、映画ではなく「スナイーパー」一般について語ったマイケル・ムーアのツィートが問題となり、右派勢力から「恥を知れ」とか「ISISの仲間」とかの中傷が飛び交い、ついには、日本でいったら安倍氏のお友達の稲田朋美のような極右政治家、サラ・ペイリンが「ファックユー マイケル・ムーア」と書かれたポスターを手にしてポーズを決めている写真がネットに流れるに至ったことだ。そのポスターの「Moore」のアルファベットの「O」には十字が書き込まれ、「これ(=マイケル・ムーア)が標的だ」という過激なメッセージが込められていた。
 
 ことほどさように、アメリカの極右勢力を始め共和党員たちによって「愛国映画」として極めて熱烈な支持を得ていることが事態をややこしくしている。

          
 
 はじめに結論めいたことをいっておくと、監督のイーストウッドは決してこの映画を戦争賛美の愛国映画として作ったわけでもない。もともと彼はイラク戦争に反対の立場であるし、映画そのものを気をつけてみれば、戦争そのものの残忍さ、戦場へと動員された者たちに残された悲惨な爪あとや後遺症(いわゆるPTSD)が随所に描写されているのがわかる。
 主人公そのものがその被害者だし、それゆえに彼は、除隊後、PTSDに悩む仲間たちのための活動に身を入れることになる。

 また、マイケル・ムーアもこの映画を全面的に否定しようとしているのではない。それどころか、イーストウッドの真意をちゃんと受け止めていて、彼が支配する三つの映画館のうちの一つで、戦争によるPTSD疾病者のためにこの映画を上映するとまでいっている。

          

 私はこの二人の評価が重なったところにこの映画の着地点があるように思うのだが、イーストウッドももう一歩踏み込むべきだった、あるいは舌足らずでモチーフがいま一歩伝わっていないという評価もあるし、それらもまったく無視はできないように思う。

 それはどんな点でいえるかというと、この映画が徹頭徹尾「アメリカ軍側」から描かれていて、彼らが立ち向かうのは、抵抗するアラブ反米勢力の「クソ」や「ウジ虫ども」なのである。もちろんこれは、少し想像力を働かせれば、一方の側から戦場を描く場合には当然起こりうることで、相手側から見れば侵略してきたアメリカ軍の方が「クソ」なのだということに気づくはずなのだ。
 しかし、単視眼的なパースペクティヴの持ち主たちにとっては、主人公の側=アメリカ軍の側と自己とを同一化することは容易であり、その立場から自分を「クソ」ではない側に置き、この作品を愛国映画として快哉を叫ぶこととなる。

          
 
 スナイパーのみを取り上げてみても、視点を変えれば、主人公のライバル、元シリアの五輪代表だったというスナイパーも、アラブ側からみれば当然、主人公同様「伝説」なのであり、事実、屋根から屋根へとひらりと飛翔するこのスナイパーを、私自身はロビンフッドみたいでかっこいいなぁと思ったりしたのだった。

 ようするに、イラク戦争そのものがブッシュの大チョンボで始まった偽りの戦争であることをイーストウッドは踏まえていて、にもかかわらず、戦場へと動員された兵士たちの生態をドキュメンタリーにも似たタッチで描いてゆくのだが、愛国主義的なイデオロギーに曇った目には、それらの背景はまったく見えず、「アメリカ万歳」になってしまうのだろう。

          

 こういう愛国主義は怖いものがある。
 映画のラスト、彼を悼む群衆が沿道や歩道橋上で星条旗を林立させている様子は、在特会のデモや、昨年末選挙での、安倍氏の最後の街頭演説での日の丸と旭日旗の林立と共通するものがあってやはり少し怯むものがあった。
 イーストウッドはこのシーンをどんな気持ちで撮ったのだろうか。それはわからない。

 冒頭で、この映画が一筋縄ではゆかないといったのはこんな訳からであった。なお、私自身は、テキサスのマッチョなカウボーイが、愛国心に駆られて戦場を目指し、秀でたスナイパーになってゆくのだが、その道自体が彼と家族を蝕み、そしてそれに気付き始めた彼自身をも飲み込んでしまう過程として観た。そしてそれを、イーストウッドは決して声高にではないが、事態そのもので語らせようとした映画だと思った。

 なお、マイケル・ムーアのとても長い対談を以下に付しておく。

 http://jp.vice.com/program/vice-com-original-program/11712 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なぜヴィオラは馬鹿にされるのだろうか?

2015-03-03 15:23:47 | 音楽を聴く
 ヴィオラという楽器はどういうわけか、揶揄される場合が多い。
 音楽に関するジョークのうちではダントツで、「ヴィオラ・ジョーク」は単独のジャンルをなし、それだけで一冊の本ができるほどである。
 例えば、「世の中には2種類のヴィオリストがいる。下手なヴィオリストと、死んだヴィオリストだ」がそれであるが、これは巧いヴィオリストなどどいうものはいないということをあからさまに表現したものだ。
 もちろん、そんなことはないのだが、なぜそんな話が累積されることになったのだろう。よくはわからない。

       

 さほど音楽に造詣は深くないが、私の知っている著名なヴィオリストは、パウル・ヒンデミット、キム・カシュカシャン、ユーリー・バシュメット、そして今井信子などである。

 この内、ヒンデミットはとっくに亡くなっているが、ヴィオリストとしてより作曲家としてのほうが著名だろう。ヴィオラ・ソナタ(ピアノ伴奏付き)3曲のほか、無伴奏のヴィオラ・ソナタ3曲を含み、オペラから交響曲、協奏曲など数多くの作品を残している。

 彼はユダヤ人ではなく生粋のドイツ人だったが、ナチスの意に沿う音楽を作曲しないということで「退廃音楽家」のレッテルを貼られ、作品上演の機会も奪われ、亡命を余儀なくされている。

 キム・カシュカシャンで印象に残るのは、テオ・アンゲロプロスの映画『ユリシーズの瞳』での演奏だ。ここで彼女は、エレニ・カラインドールの曲の主題をさまざまなヴァリエーションで演奏し、映画の感動を何倍にも増幅することに成功していた。私の記憶に深く刻みつけれれた映画音楽であった。

 ユーリー・バシュメットも優れたヴィオリストであるが、近年はモスクワ・ソロイスツ合奏団を率いる指揮者としても活躍している。
 その名古屋公演を一昨年、名古屋で聴く機会があった。パガニーニのヴィオラ協奏曲イ短調を、彼自身のソロで演奏したが見事なものであった。

 さて、前置きが長くなったが、ヴィオラ奏者、ヘルマン・メニングハウスのソロ・リサイタルに行ってきた。
 彼もまた、1986年、カラヤン末期のベルリン・フィルに最年少メンバーとして登用されたという逸材だ(ただし当時はヴァイオリン)。

3月2日、pm7:00   電気文化会館 ザ・コンサートホール
曲目 バッハ 無伴奏チェロ組曲 第一番
    ビーバー パッサカリア
    ヴュータン カプリッチョ ハ短調
    バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第三番

 プログラムを見てわかるように、ヴィオラの曲ではなく、その音域を活かした曲目の選択といえる。もっともヴィオラはこうしたある種の「普遍性」があるのでこうした曲目の選択はよく行われる。
 バッハの二曲はいわずとしれた名曲だが、チェロ組曲の方はあのチェロの重厚な音の響きに比べるとやや物足りない気がする。もっとも、そんな先入観は捨てて、ヴィオラの演奏として聴くべきなのだろう。
 ただし、私としては、「ヴァイオリンのためのパルティータ」の方が気に入った。

 この中でヴュータンが唯一、一九世紀の作曲家だが、そのせいもあって他の曲と曲調も異なり、技巧的にも見せ場(聴かせ場)もあって面白かった。それもそのはず、この曲は「パガニーニへのオマージュ」として書かれたものだった。
 惜しむらくは、いつまでも聞いていたい心地よい曲なのに、四分足らずとアンコール曲ぐらいに短いことだ。

 でも、なんやかんやいいながらライブはいい。
 伏見の居酒屋で一杯引っ掛けて、岐阜のバスの終車に間に合うように帰った。


このコンサートの前に、映画、『アメリカン・スナイパー』を観たが、それについては少し整理をしてから述べてみたい。
 あちこち行ったので、この日は8,000歩ほどを歩いた。

 





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書かなくともいい(したがって読まなくてもいい)日記

2015-03-01 00:39:43 | 日記
 今月も今日で終わり。
 といっても特に感慨はない。
 
 Mac Book Air の音が出なくなってしまった。
 この間は再起動で直ったが今回は駄目だ。
 サポートセンターに電話。
 いわれるままに2、3を試みたが成果なし。
 システム環境設定のサウンドは消音のまま。
 スピーカーのアイコンは灰色のままだ。
 「もう7年経っていますから・・・」
 と、いかにも寿命を匂わせる口調が結論。
 念のためSNSのMacの相互助言欄にも投稿。

  

 昼食後、何かをやる気がさっぱりでない。
 はがきを書いたのでそれを投函に出る。
 ついでに足慣らしの散歩。
 畦道のイヌフグリやペンペン草はもう咲いている。
 しとやかな感じの梅を見かけた。
 あまりケバくないこういうのが好きだ。

  
  

 このガラケーのカメラ、よく使った。
 シャッターボタンが緑青を吹いて変色してきた。

 帰宅したら、朝からのモヤモヤが形に。
 老人性自己嫌悪シンドロームの来襲だ。
 俺は何をやっているのかと自分を責める。
 責めるのも自分、責められるのも自分。
 勝負がつくはずがない。
 モヤモヤが累積してゆくのみ。

  
 
 夕食を作る。
 メインディッシュはキンメダイの煮付け。
 あとはほうれん草とシメジのバター炒め。
 人参と里芋の炊合せ。
 箸休めに胡瓜のスライスに刻み大葉、
 味付けはサラダオイルに醤油一滴を垂らす。

 夕食後、夜陰に乗じて町内に広報を配布する。
 昼間歩いた道も含むが夜はまた顔が違う。
 ありがたいことに寒くはない。
 班長の任期はあと1ヶ月だから
 広報配布もあと2回ほどで終わる。
 次に班長が回ってくる頃には生きてはいないだろう。

     

 夜風を胸いっぱい吸って帰宅。
 この間買った、サントリーウィスキー発売当時の
 復刻瓶の「白札」をロックで飲む。
 この氷では不味いから、そろそろ水割り用の氷を
 冷凍庫にタッパーを入れて作らなければ。
 水割りの氷はやはりアイスピックで割らなきゃね。

 少しは落ち着いたが、自己嫌悪シンドロームは、
 通奏低音のように鳴り止まない。
 明日は雨模様。

 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする