*写真は最後のヴェトナムの味の素のもの以外は関係ありません。
以下はあまり語られていない歴史の些細ともいえる一断面ですが、私自身が忘れてしまわないうちに書き残しておきます。
ミーチン*という当時のソ連の哲学アカデミーの総裁であった人が来日し、名古屋でも講演をするというので野次馬根性で出かけたことがあります。
それがいつだったかというと、記録によれば1958年の日本共産党の第7回大会に来賓として来日したというものがありますが、どうもその折ではないと思います。
それで別の資料を探していたら、1959年の12月に東京唯物論研究会**で「ミーチンを囲む会」が催されていたことを突き止めました。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/16443/1/0100805101.pdf(長文ですから関心のある人のみお開きください)
名古屋での講演はその流れの一環であったと思います。
すでに、ソ連共産党第20回大会でのフルシチョフのスターリン批判が行われたあとでしたが、日本共産党は公式にはそれを認めていない段階でしたから、ソ連への幻想もあったのか、会場は人いきれがするような盛況でした。
私はというと、1958年の全学連大会で全学連が日本共産党の全面支配を脱した後であり(その大会に私は出席していました)、ソ連共産党を頂点にしたコミンフォルム***体制と、それの継続のような状態にはむしろ批判的でしたから(1956年のハンガリー革命の影響も大)、上に述べたようにいささか野次馬的な参加でした。
そこでミーチンがどのような話をしたのかはまったく覚えていないのですが、唯一、印象的なシーンがありました。
それはひと通りの話が終わったあとの質疑応答の折でした。
誰かが、ソ連での社会学の位置づけについて質問したのです。
それに対してのミーチンの答えはおおよそこうでした。
「社会学というのはブルジョア人文科学であり、やがて史的唯物論に吸収され消滅するであろう」
これは、ミーチンの立場としては十分予想される回答でした。なぜなら、彼は1930年代、哲学のレーニン的段階というスローガンをひっさげてソ連哲学界にのし上がったのであり、そのレーニンはというと、革命が完成した折に残る人文科学は、生産や消費を統制する統計学と経営学だけだろうと断言していたからでした。
私がその折注目したのは、ミーチンではなく、私の前に座っていた明らかに党員と目される社会学の院生でした(私は別のところの学部生でした)。彼は、その言葉を聞くやいなや、みるみる首筋から耳にかけて紅葉させ、明らかに興奮状態で、吐く息も荒くなっているのがその肩の上下から見て取れました。
私は、ミーチンがそういうことは明らかにあり得るのに不勉強なという思いもあったのですが、それ以上に彼に深く同情したのでした。
彼が何か反論したり、追加の質問をするのではとも思ったのですが、それはありませんでした。
で、その後の彼ですが、離党なり何なりするのかとも思ったのですが、そんな気配もなく、少なくとも在学中は党に忠実であったようです。彼の中で、その折の衝撃とどう折り合いを付けたのかは興味あるところですが、それは知り得べくもありませんでした。
ミーチンという人は、当時の左翼やその周辺の人達が裃付けて歓迎したのですが、その割にほとんど影響を残さなかったように思います。それは、上に述べた問答のように、彼が編纂したソ連哲学アカデミーの『哲学教程』に記された「教条」を順守し、その徹底を図るという以外のものを何ももたらさなかったからです。
そんなわけもあってか、ネット上でもミーチンに関する記録や資料は少ないのですが、私が行き当たった面白い例を紹介しましょう。
「ミーチン」というのはヴェトナムでは「味の素」のことなのだそうです。そしてヴェトナムは味の素の大量消費国なのだそうです。
複数のブログなどは、ベトナムの屋台や飲食店で、麺類やスープものを注文すると、まず多量の白い粉が(スプーンに何杯という単位だという人もいます)丼に入れられ、そこにスープは注がれるというのです。そのどれもが、半端ではない多さだと記しています。それが味の素なのです。
これは味の素の経営戦略の勝利かもしれません。ヴェトナムには味の素の工場があり、スーパーなどの食品売り場では日本では信じられない程のスペースで、大きな袋入りの味の素が売られているのだそうです。
そのあまりにも多量の使用に、そうした人工調味料に敏感なひとは、それらを食したあと頭痛がするとも記されています。そして在留の日本人たちで外食に慣れている人たちは、「ホンチョーミーチンニャ-!(旨味調味料は入れないでね!)」というのだそうです。
それに関連して思い出すことがあります。
わが家へこの魔法の調味料、味の素が入ってきたのは1950年代、私が中学生の頃です。当時のパッケージは赤い缶にエプロン姿のお姉さんが付いているもので、耳かきのような小さなスプーンが添えられていました。
それをほうれん草のおひたしなどにほんの少量パラパラとかけるのです。
ある日、私はそんなに少量で旨くなるのなら、まとめて食べたらさぞ旨かろうとくだらぬことを考え、添えられていたスプーンに一杯を口にしました。
ウ、ウ、ウッ、オエーッと思わず吐きそうになりました。
ヴェトナムの飲食店を笑えませんね。
*マルク・ボリソヴィチ・ミーチン(Mark Borisovich Mitin) ロシア革命後の内戦時に共産党に入り,1929年に赤色教授養成学院哲学部を卒業したが,師のデボーリンを批判して,翌30年より《マルクス主義の旗の下に》誌の編集長に就任し,スターリン時代のソ連の哲学界を牛耳った。39年より科学アカデミー会員となり,マルクス=エンゲルス=レーニン=スターリン研究所所長も兼任した。しかし44年にジダーノフによって両職から解任され,第2次大戦後も閑職にあったがやがて復権。来日時にはソ連哲学界のトップだった。
一説には、スターリンの「唯物弁証法と史的唯物論」はミーチンの手によるとするものもある。
**第二次唯物論研究会(通称 唯研) 戦後、日本共産党の周辺にさまざまな学者を集めた民主主義科学協会(通称 民科)という組織があったが、それが路線上の対立などで衰退し、さらには統一戦線的な志向をもったことから、それに対立する意味で日本共産党の肝いりで組織された学者たちの会。第一次は戦前、1930年代の戸坂潤などの組織したもの。現在も唯研を名乗る組織が存在するがかつてのように党派性はないと思われる。
***コミンフォルム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%A0を参照のこと
以下はあまり語られていない歴史の些細ともいえる一断面ですが、私自身が忘れてしまわないうちに書き残しておきます。
ミーチン*という当時のソ連の哲学アカデミーの総裁であった人が来日し、名古屋でも講演をするというので野次馬根性で出かけたことがあります。
それがいつだったかというと、記録によれば1958年の日本共産党の第7回大会に来賓として来日したというものがありますが、どうもその折ではないと思います。
それで別の資料を探していたら、1959年の12月に東京唯物論研究会**で「ミーチンを囲む会」が催されていたことを突き止めました。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/16443/1/0100805101.pdf(長文ですから関心のある人のみお開きください)
名古屋での講演はその流れの一環であったと思います。
すでに、ソ連共産党第20回大会でのフルシチョフのスターリン批判が行われたあとでしたが、日本共産党は公式にはそれを認めていない段階でしたから、ソ連への幻想もあったのか、会場は人いきれがするような盛況でした。
私はというと、1958年の全学連大会で全学連が日本共産党の全面支配を脱した後であり(その大会に私は出席していました)、ソ連共産党を頂点にしたコミンフォルム***体制と、それの継続のような状態にはむしろ批判的でしたから(1956年のハンガリー革命の影響も大)、上に述べたようにいささか野次馬的な参加でした。
そこでミーチンがどのような話をしたのかはまったく覚えていないのですが、唯一、印象的なシーンがありました。
それはひと通りの話が終わったあとの質疑応答の折でした。
誰かが、ソ連での社会学の位置づけについて質問したのです。
それに対してのミーチンの答えはおおよそこうでした。
「社会学というのはブルジョア人文科学であり、やがて史的唯物論に吸収され消滅するであろう」
これは、ミーチンの立場としては十分予想される回答でした。なぜなら、彼は1930年代、哲学のレーニン的段階というスローガンをひっさげてソ連哲学界にのし上がったのであり、そのレーニンはというと、革命が完成した折に残る人文科学は、生産や消費を統制する統計学と経営学だけだろうと断言していたからでした。
私がその折注目したのは、ミーチンではなく、私の前に座っていた明らかに党員と目される社会学の院生でした(私は別のところの学部生でした)。彼は、その言葉を聞くやいなや、みるみる首筋から耳にかけて紅葉させ、明らかに興奮状態で、吐く息も荒くなっているのがその肩の上下から見て取れました。
私は、ミーチンがそういうことは明らかにあり得るのに不勉強なという思いもあったのですが、それ以上に彼に深く同情したのでした。
彼が何か反論したり、追加の質問をするのではとも思ったのですが、それはありませんでした。
で、その後の彼ですが、離党なり何なりするのかとも思ったのですが、そんな気配もなく、少なくとも在学中は党に忠実であったようです。彼の中で、その折の衝撃とどう折り合いを付けたのかは興味あるところですが、それは知り得べくもありませんでした。
ミーチンという人は、当時の左翼やその周辺の人達が裃付けて歓迎したのですが、その割にほとんど影響を残さなかったように思います。それは、上に述べた問答のように、彼が編纂したソ連哲学アカデミーの『哲学教程』に記された「教条」を順守し、その徹底を図るという以外のものを何ももたらさなかったからです。
そんなわけもあってか、ネット上でもミーチンに関する記録や資料は少ないのですが、私が行き当たった面白い例を紹介しましょう。
「ミーチン」というのはヴェトナムでは「味の素」のことなのだそうです。そしてヴェトナムは味の素の大量消費国なのだそうです。
複数のブログなどは、ベトナムの屋台や飲食店で、麺類やスープものを注文すると、まず多量の白い粉が(スプーンに何杯という単位だという人もいます)丼に入れられ、そこにスープは注がれるというのです。そのどれもが、半端ではない多さだと記しています。それが味の素なのです。
これは味の素の経営戦略の勝利かもしれません。ヴェトナムには味の素の工場があり、スーパーなどの食品売り場では日本では信じられない程のスペースで、大きな袋入りの味の素が売られているのだそうです。
そのあまりにも多量の使用に、そうした人工調味料に敏感なひとは、それらを食したあと頭痛がするとも記されています。そして在留の日本人たちで外食に慣れている人たちは、「ホンチョーミーチンニャ-!(旨味調味料は入れないでね!)」というのだそうです。
それに関連して思い出すことがあります。
わが家へこの魔法の調味料、味の素が入ってきたのは1950年代、私が中学生の頃です。当時のパッケージは赤い缶にエプロン姿のお姉さんが付いているもので、耳かきのような小さなスプーンが添えられていました。
それをほうれん草のおひたしなどにほんの少量パラパラとかけるのです。
ある日、私はそんなに少量で旨くなるのなら、まとめて食べたらさぞ旨かろうとくだらぬことを考え、添えられていたスプーンに一杯を口にしました。
ウ、ウ、ウッ、オエーッと思わず吐きそうになりました。
ヴェトナムの飲食店を笑えませんね。
*マルク・ボリソヴィチ・ミーチン(Mark Borisovich Mitin) ロシア革命後の内戦時に共産党に入り,1929年に赤色教授養成学院哲学部を卒業したが,師のデボーリンを批判して,翌30年より《マルクス主義の旗の下に》誌の編集長に就任し,スターリン時代のソ連の哲学界を牛耳った。39年より科学アカデミー会員となり,マルクス=エンゲルス=レーニン=スターリン研究所所長も兼任した。しかし44年にジダーノフによって両職から解任され,第2次大戦後も閑職にあったがやがて復権。来日時にはソ連哲学界のトップだった。
一説には、スターリンの「唯物弁証法と史的唯物論」はミーチンの手によるとするものもある。
**第二次唯物論研究会(通称 唯研) 戦後、日本共産党の周辺にさまざまな学者を集めた民主主義科学協会(通称 民科)という組織があったが、それが路線上の対立などで衰退し、さらには統一戦線的な志向をもったことから、それに対立する意味で日本共産党の肝いりで組織された学者たちの会。第一次は戦前、1930年代の戸坂潤などの組織したもの。現在も唯研を名乗る組織が存在するがかつてのように党派性はないと思われる。
***コミンフォルム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%A0を参照のこと
私の学生時代も、旧左翼の学生は社会学をブルジョア学問と呼んでいました。私は六文さんより若造で、70年安保後の内ゲバ世代です。ミーチンについては名前を知っている程度ですが、その院生の衝撃はわかります。自分の信じる思想の権威筋から、人生を否定されたようなものですよね。それでも党と折り合いをつけるところに、影響下にある人たちにとってのカリスマ性を感じます。それこそが問題でもあるのでしょうが。
私が最初に勤めた会社のトップは、真下信一の下で学び、学生組織の愛知県連合の初代委員長だった人です。そのあと入った会社のトップは、武装闘争や六全協を経た路線転換などに翻弄され、党を去った人でした。どちらも今は故人ですが、党と不可分の人生を送った人たちです。党と距離を置くようになってからも思い入れは深かったようです。
子供のころの味の素も、ある種魔法の調味料でした。それさえ入れればおいしくなるような気がしていました。当時の味覚のカリスマですね。