六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「わだつみのこえ」をどう聴くのか?

2014-05-08 01:13:09 | 想い出を掘り起こす
 『きけ わだつみのこえ』という書があります。
 サブタイトルに「日本戦没学生の手記」とあるように、先の大戦で学業半ばにして戦場へと動員され、非業の死を遂げた、若者たちの手記を集めたものです。
 現在は「第一集」「第二集」を岩波文庫で入手することができます。

 私自身は、もう半世紀前に第一集に相当するものは読んでいるのですが、第二集については記憶が定かではありません。それほど、第一集が衝撃的だったということかもしれません。何しろ、それら戦没学徒というのは私の父の世代というよりも兄の世代といっていい人たちであり、当時の大学生ということで、自らが置かれた不条理ともいえる状況を言葉として生々しく残す能力があった人たちだったからです。

           

 しかしながら、長い年月のなか、それらの内容はもはや私の頭脳にはとどまってはいません。そうした私が、再読をしてみようと思い立ったのは、中日=東京新聞がスクープした木村久夫氏(京都大学経済学部 通訳をしていて現地の人と接触があったためB級戦犯として1946年シンガポールにて処刑された)のもう一つの遺書の発見でした。

 この木村久夫氏が、田辺元の『哲学通論』の余白に綴られた遺書については、健忘激しい私もさすがにかすかではあるが覚えていました。
 新しい遺書の発見も含めてさらに検討されることになるでしょうが、この木村氏の「岩波版」の遺書は、以前から問題含みであったといっていいのです。

 そのひとつは、岩波版での削除部分などの問題点です。
 いま手元に、有田芳生氏のブログに掲載された「木村久夫遺書全文」があるのですが、それと岩波版との間には随所に違いがあります。  
 http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2014/04/post_0142.html
 とくに木村氏が日本の国家的な犯罪への見せしめとして「自分は殺されるのだ」と悲憤する箇所(彼に命令を下した上官たちはすべて懲役刑のみ)や、軍部への激烈な批判は削除されています。

 また、これは技術的な問題かもしれませんが、文中に挿入された折々の短歌が、岩波版では文末にまとめて掲載されています。もちろん、彼の感情の起伏を重視すれば、原文通り文中に置かれてもと思います。

 この、木村氏の遺書を巡っては、さらなる問題があります。
 それは、氏が戦犯として裁かれたことをもって、「彼は反省が足りず、処刑されて当然」という評価があるということです。要するに、「一億総懺悔」的な立場から、彼の加害者性を糾弾してみせようとする立場です。しかもそれが、その編纂などに関わった「わだつみの会」の幹部の人たちから発せられたといいますから驚愕するほかありません。
 
 たしかに、過ぐる戦争においては、日本人は誰しも被害者としての面と加害者としての面を持っています。
 しかし、学業半ばで招集され、一兵卒として通訳に従事した彼を責め立てるのはやはり酷だと思います。そしてそうすることは、かえって彼にそれを強いた者たちの責任を糊塗することともなります。
 とりわけ、軍事裁判においては、軍の方針として、兵卒たちは自分にくだされた命令系統の責任を述べることを固く禁じられていたのですから。

 これらを通じてみた場合、この書の編集編纂自体が、その折々の歴史的、政治的立場からする恣意的な歪みや、なかには改ざんまがいのものもあったといえるようなのです。
 果たせるかな、その発見が報じられて数日後の中日新聞のコラム「大波小波」は《「わだつみ」たちの肉声を》と題して、「これまでさまざまな改変のあったことが指摘され、削除ばかりか、加筆まであったという」とした上で、上に挙げた木村氏の遺書から「陸軍の軍人」を「国を滅ぼしたやつ」と強く批判した部分が恩師によって削除されていた事実を述べ、そしてそのコラムを「知りたいのは事実であり、夢半ばで命を絶たれた若者たちの遺志である」と結んでいます。ちなみに署名は「ポセイドン」です。

          

 こうした揺れ動きは当初よりあったようで、第一集冒頭の「感想」と題した渡辺一夫氏(仏文学者 大江健三郎の先生 第一集の編集に関わる)の文章には、その編纂にあたって自身が提起した問題点とその落とし所のようなものが語られていますし、その「あとがき」の中村克郎氏(わだつみ会理事長 当時)の文章でもさまざまな揺れがあったことが書かれています。
 また、第二集の「あとがき」で平井啓之氏(仏文学者)は、それらを跡づけるように第一集で除外されたものやその復活について触れています。

 映画にしろこうした文集にしろ、ドキュメンタリーとなるとその素材となった事実の集積にその関心がとらえられがちですが、反面、それらを集積する側の主観やあるいはその背景となった時代々々の歴史的、政治的立場によるフィルターは避けることはできないようです。
 しかしながら、それらが一定の度合いを越えてしまうと、事実の集積という側面よりも、集積する者の思想的立場やイデオロギーの押し付けに転じることとなりかねません。
 先にみた、中日のコラム、「大波小波」は明らかにそれを危惧していますし、また、私のブログにコメントをくれた方もそれを恣意的に進めた人たちがいたことを示唆しています。

 さて、私としては、拾い読みの段階から本格的な読みへと移るわけですが、そうしたフィルター、ないしはバイアスの所在を意識しながら、なおかつ、そこから聴こえてくる私の兄たちの声を受容したいと思っています。

 なお、この第二集には、私の高校時代の先輩で、戦前甲子園を沸かせた松井栄造氏(岐阜商業-早稲田)も登場します。短い文章ですが、その中にも、「バッティング」とか「ベンチマン」といった野球用語が出てきます。なお、彼がエースとして優勝した折の岐阜商業のレギュラーのうち、五人が戦場の露となって消えた事実については、私自身も過去、このブログに書いたことがあります。

 
 なお、松井栄造氏の遺書は別途あります。私はそのコピーをみたことがあります。以下にもそれがあります。
  http://sawamuraeiji.yomibitoshirazu.com/matuieiz.htm


お知らせコメントをいただくみなさんへ
 ここへいただくコメントは今まですべて自動的に掲載され、不適切と思われるもののみを事後に削除してきましたが、この度、お書き込みいただいても一時保留にさせていただき、後ほど掲載させていただくことと致しました。
 理由は、植物の話なのにいきなり「靖国礼賛」の動画を貼り付けるなど、明らかにアラシ行為と思われるものが現れるようになったからです。
 そうした、アラシ以外はこれまでどおり掲載させていただきますが、上記の手続きを経ますため、即時掲載ではなく時差が出ることとなります
 何卒事情ご賢察の上、これまでどおり、ご意見など頂きたく、この段、改めてお願いたします。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フルフルトマトさんへのお答え

2014-05-05 02:17:22 | 花便り&花をめぐって
 私は長文の日記を載せたり、訳の分からないつぶやきを残したりすることが多く、そのそれぞれが尻切れトンボであったり、あるいは本文とは関係のない写真を無責任に載せたりすることが多いのです。
 そんな私に、友人のフルフルトマトさんからご質問が寄せられ、お答えしていないものがありましたので、ここでお応えいたします。

          

 まず最初は、最近の私がFace Bookに載せたわけのわからない写真へのご質問です(5月3日付)。それを少し拡大してみましたが、拡大しても相変わらずわからないですよね。
 実はこれ、近くの休耕田に生い茂っている草なのです。尖ったさやのようなものがつぼみみたいで、やがて小さな花が咲くはずです。
 分かりにくいものを載せてごめんなさいね。
 でも、こうして密集しているのを見ると、この草の生命力のようなものが感じられて、けっこう感動するのです。

             

 続いてのご質問は、4月27日に私の盆栽もどきを紹介させていただいた折、ほかには、樹齢20年以上の銀杏の木の鉢植えをもっていると述べたことに対して、それはどんなものかというお尋ねでした。
 写真のようなものです。高さは40センチぐらいでしょうか。

 木をいじめてきたせいか、前は普通の銀杏の木と同じくらいの葉をつけていたのですが、だんだんその葉が小さくなりました。それでも秋には一人前に黄葉するのですよ。
 横に生えているのは、いつの間にかやってきたヤナギタンポポの一種でしょうか。「来る者は拒まず」という大雑把な方針のもとそのままにしてあります。
 やがて小さな花を咲かせるでしょうから、銀杏とのコラボが楽しみです。

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国民学校から小学校へと新しい憲法

2014-05-02 18:14:48 | 歴史を考える
 1947年5月3日、現行の日本国憲法が施行された。
 私は小学校の3年生になっていた(この4月以前には国民学校2年生、昭和16年から始まった国民学校令はこの4月に廃棄された)が、街々のあちこちには焼けただれた戦禍の跡などが生々しく残っていて、傷痍軍人といわれる負傷兵たちがあふれていた。

 大陸に出征し、満州など北支にいた兵士たちはいまだソ連軍に抑留され、収容所での強制労働に従事させられたままで、留守家族にはその安否すら知ることが出来なかった。
 現に、私の養父(実父はすでにビルマ=現ミャンマーで戦死していた)は、ハルビンから抑留されたまま、その生死もわからないままに母と私は、ただひたすら待ち続けるしかなかった。

 もちろんこの国はアメリカの占領下にあり、その主権すらなかった。そうした国家としての主権回復の第一歩が憲法の制定であり、新しい国体を形成することであった。
 だから、ほぼすべての人がこの憲法を祝い、国のあちこちでは提灯行列なども行われた。まさにこれは戦後復興の大きなターニングポイントであり、新しい国家としての再生の第一歩であったのだ。

        

 私たち小学生にも、憲法についての話があった。
 そのひとつは、日本は先の戦争を反省し、もう絶対に戦争をしない国になったのだということであった。
 そしてもうひとつは、国民は天皇の臣民ではなく、国民こそが国の主人公だということであった。さらにいうなら、すべてのひとは等しく幸せになる権利があるということだった。

 そして、これからは、戦前のように上からの絶対的な命令によってではなく、国民が民主的手段によって自分たちの運命を決めてゆくのだということであった。

 強調しなければならないのは、これらは当時の、ほとんどすべての国民のコンセンサスであったということだ。
 もちろん、その背後にはあの辛くて苦しい戦争の日々の経験があり、そして今なお、冒頭に述べたようなその悲劇が継続しているという強烈な現状認識があった。

 だから、新しい憲法は、それまでの暗黒に差し込む太陽の光のようなものであった。繰り返すが、それは再出発を志す国民の圧倒的多数の共通の思いであったのだ。

 いまその憲法が、法そのものとしても、またその解釈においても、そのきわめて恣意的な運用によってそれを犯そうとする勢力に狙われている。国民にとっての不幸は、その侵犯行為が時の政権によって行われようとしていることである。

 彼らの主張の根拠は、その制定時と比べて、国際的な条件が変わったのだということである。たしかに変わったし、ある種のきな臭さも漂っているとはいえる(そうした状況は現政権そのものにも責任があるのだが)。

 しかしである、現行の憲法が制定された折には世界が、そしてこの国を取り巻く状況が平和で安定していたのかというと決してそうではなかったのだ。
 世界的にいうならばいわゆる東西の冷戦はすでに始まりつつあったし、中国大陸では国共の内戦が激化しつつあった。
 また、隣の朝鮮半島では、後に朝鮮戦争(正式の勃発は1950年)に発展する火種がくすぶり続けていた。

 一言でいうならば、当時の東アジアは、問題がらみといわれる現在のそれよりもはるかに危険で戦火が現実的で身近な状況であったのだ。

 そんななかにも関わらず、日本国民は、そうした武力による国際間の問題の処理を行わないこと、またそれら戦場での趨勢に武力をもってかかわらないことを自分たちの進路として、300万のこの国の戦争犠牲者と2,000万に及ぶ近隣諸国の犠牲者の前で誓ったのだった。

 これはひとつの理念といっていいが、しかし何よりも、それ以前に、まずもって歴史的経験のもっともリアルな咀嚼の結果であった。 先にいったようにこの経験は、300万のこの国の戦争犠牲者と2,000万に及ぶ近隣諸国の犠牲者によって裏打ちされ、しかもその当時のきわめて日常的な状況を背景にしている。
 そしてこれは、同様に「犠牲者を悼む」と称して靖国という味噌も糞も一緒にしたオカルティズムへの拝跪とはまったくベクトルを異にするものなのだ。

 その例証は、彼らは死者たちの鎮魂を詐称しながら、そうした状況をふたたび繰り返さないようにするためにではなく、まさに戦前的な「日本を取り戻す」ことに利用しようとしているからだ。
 こうした行為を鎮魂とはいわない。死者たちの霊安を乱し、かれらの死を今一度踏みにじることなのだ。

 私は国民学校から小学校に変わった5月、私たちに説明されたこの憲法とともに生きてきた。だから、これをいたずらに黒い手でいじくろうとする向きには激しく抵抗せざるを得ない。
 この月の初旬に行われた各種世論調査において、憲法を守ろうとする志向が昨年同期よりもいずれも10%以上多くなっていることは嬉しい限りである。

 おそらく、現政権のあまりにも露骨な軍事志向への反動だろうと思われるが、そうした監視の目を緩めることなく続けてもらいたいものだ。
 と同時に、「解釈改憲」という、独裁国家においてはいざ知らず、おおよそ法治国家においてはあってはならない暴挙にも引き続き目を光らせる必要がある。

 爽やかのこの季節に生み出された新しい理念の憲法を、葬り去るようなことがあってはならない。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今期ツツジの総集編とその寿命について

2014-05-02 11:42:33 | 写真とおしゃべり
 今年最後のツツジのレポートです(たぶん)。2、3日続いた雨が上がり、まさに満開を迎えました。

             
                 この上が私の部屋

          

 白いものは、ひと枝の赤と、ところどころの花に赤いキッス・マークを宿して咲き誇っています。
 別のひと枝はぐんぐん伸びて二階の私の部屋のすぐ真下まできて私を誘惑しています。

          

 赤い方は、半分はバス通りに面した玄関脇でおもいっきり咲きました。
 ご覧のように、かなり道路側にはみ出していますから、可哀想に花が終わったら刈り込まれる運命です。

             

 この赤い花の半分の部分は、ガレージの突き当りに面しています。
 車で帰って来ると、真正面で「おかえりなさい」と迎えてくれます。
 帰宅したと実感する瞬間です。

          
 
 私はこの二本のツツジを愛しています。
 この時期、二階の自室から、下の庭で、そして玄関先で、これらの花を見るとなにやら浮き立つ思いがするのです。

 ところでこのツツジ、どういう経緯で我が家にあるのかは忘却の彼方なのです。前にも書きましたが庭師など入れたことがありませんから、私がどこかでもらってきて植えたのには間違いありません。樹齢はたぶん、40~50年の間でしょう。

          

 ところで、ツツジの寿命はどのくらいかを調べたのですが、はっきりと書いたものはありませんでした。ただ、100年を越えても花をつけているという記事がありましたし、群馬県館林市の「つつじが岡公園」では、樹齢800年のものがあるといいますから、ずいぶん長生きなのですね。

 これで、うちの彼らが私の死後も咲き誇るであろうことがはっきりしましたが、その折には誰がどのように愛でるのでしょうか。私がこれらの花を愛していたことを誰が覚えていてくれるのでしょうか。「ごめんね、ごめんね」といいながら刈り込んできたことを誰が知っているのでしょうか。

 たぶん、ツツジたちが覚えていてくれると信じて、その満開に連れ添うようにためつすがめつ眺めているのです。




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする