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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

人間という生物(3) 生きているという剥き出しの生をめぐって

2013-05-15 03:30:56 | 現代思想
 人間が生まれるということ、そして死ぬということの自然主義的な自明性がドンドン崩れ、そのことによって生死が明確になるどころか逆に曖昧模糊としたものになっていることは前回、前々回で述べました。

 しかし、生死とともにその中間で生きている過程に関しても、全面的な管理や監視が試みられます。それらを総称して「生権力」とか「生政治」とかいったりする向きがありますが、そうした小難しいことはおいといて、近未来に実現されそうなことを述べてみましょう。

         

 産み落とされた以降の話なのですが、例えば、ナノ・テクノロジーを利用した超小型の検出器を諸個人に装着させたり、あるいは体内に埋め込んだりし、中央監視局でキャッチしたそのデータをもとに、医療措置や投薬の指示なども行おうという未来像があります。
 ただしこれらは、あなた任せでなんとかしてくれることを意味はしません。
 逆に、これだけしてやっているのだから、自己の健康管理はそれぞれの責任において行うべしという自己責任論がついて回ります。

         

 ではこうした管理体制の増進によって人の病は減るのでしょうか。
 近年、医療は格段の進歩を遂げ、それに依って治療可能な分野が開けていることは事実です。しかしながら、人の疾患は減ってはいません。治療技術が進み、その分野が細分化されたり、あるいは新薬の開発により治療可能な症状が明らかになるにつれ、それに対応した疾患=病気そのものが増えているのです。
 例えば、かつては神経症と分裂症ぐらいの大雑把な区分けであった精神性の疾患は、今では〇〇症候群といったかたちで無数に分類され、それぞれ異なる治療と薬品が対応するのです。

 これらとはまた別の要因ですが、新しいウィルスがこれでもかこれでもかと次々に登場しています。

         

 薬の細分化について述べましたが、最近取り締まられるようになったいわゆるデザイナー・ドラッグは、もともとは従来の違法薬品の分子構造を少し変えてその規制を逃れようとするものでした。もう、「麻薬取締法」と「大麻取締法」では対応できない段階ともいえます。

 そうそう、前回述べた胎児の管理と関連するのですが、受精卵の段階で遺伝子操作を行なうことによって、親が望む外見や体力・知力等を持たせた子供のことをデザイナー・ベビーというのだそうです。親がその子供の特徴をまるでデザインするかのようだからですね。

         

 人間が人間という種を管理しデザインする段階にいたっているのがお分かりいただけると思いますが、これってやはり優生学の実践であることは間違いありません。
 これがいいことなのかどうかについてはあえてニュートラルに述べて来ましたが、これらが究極の生命管理、「誰が(どのように)生きていいのか悪いのか」に関することはいうまでもありません。

         

 これまで述べてきたことから、いわゆる「管理社会」の一段の発展をイメージされるかもしれませんが、実はそれとは次元の違う問題なのです。
 これまで語られてきた管理社会は、人の生活態度や習慣、思想や行動などを一定の規範で統制しようとしたもので、そこでの対象は人間の社会的な生き方であるビオスに結びつくものでした。
 しかし、ここ三回にわたってみてきた人間の生への管理は、社会的な人間のありようについてではなく(それはそれとして別途あるのですが)、それ以前の生物としての人間、いわば「剥き出しの生」としてのゾーエーに関するものなのです。

 普通は、もっと遅く生まれればよかったと思うものなのですが、こうした予測を考慮に入れると、早く生まれてよかったというべきかもしれません。
 もっと後ですと、私のような悲しい遺伝子の持ち主は、「不適格」と判定されたり、もしそれをかいくぐることができたとしても、在特会のデモ隊に試験官ごと踏み潰される可能性があるからです。


コメント (2)
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