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雲は?犯人は? 多和田葉子さん『雲をつかむ話』を読む

2013-05-21 01:57:36 | 書評
       

 多和田葉子さんは前にも触れたがドイツ在住で、日本語とドイツ語の双方でその著作を発表している人であり、そしてこの標題作は、昨年発表された作者最新の長編小説である。

 「雲をつかむ話」というより「犯人」に関する話なのだが、かといって「雲をつかむ話」はこの小説全体を表すと同時に、ラストのハッと虚を突かれるようなオチ絶妙に呼応している。だから「雲」はこの小説の通奏低音のような位置にある。
 しかし、一貫しているのはやはり犯人の話なのだ。
 小説はこんなふうにして始まる。

 「人は一生のうち何度くらい犯人と出会うのだろう。犯罪人と言えば、罪という字が入ってしまうが、わたしの言うのは、ある事件の犯人だと決まった人間のことで、本当に罪があるのかそれともないのかは最終的にわたしには分からないわけだからそれは保留ということにしておく。
 後に犯人として逮捕された人と、それと知らずに言葉を交わしたことがこれまで何度かあった。どれも「互い違い」という言葉の似合う出逢いだった。朝、白いリボンのように空を横切る一筋の雲を見ているうちの、そんな出逢いの一つを思い出した。」


 これだけでもう私はドキリとする。私もまた、はからずも6人の殺人犯を知っていて、そのほとんどと親しくことばを交わしたことがあったからであり、今となっては忘却の彼方にあったそれらの思い出が、この書き出しに触れてまざまざと蘇ってきたからである。
 これは一般市民としてはかなり特殊な経験なので、たとえメモでもいいからいつか記しておきたいと思っている。
 しかし、多和田さんの小説はそうしたこととは直接関係はない。ただ、その冒頭に接して私の側が一方的に衝撃を受け、忘れていた記憶が一挙に広がったというまでのことだ。

 さて小説のほうだが、例によって時空の垣を縦横にこえて話は進むのだが、やはりキーワードは犯人である。作者本人と二重写しにされるような主人公は、行く先ざきでさまざまな犯人と遭遇する。なかには、犯人とその被害者とが相互媒介的でその境界すら不分明な話も登場する。

 そういえば、「マボロシ」さんという人物も登場する。一体誰なんだろうと読み進むうちにアッと気づいた。知る人ぞ知る花柳幻舟さんのことなのだ。そういえば彼女も犯人になったことがあったのだった。

 かくして多様な犯人が登場するのだが、やはり焦点は冒頭とラストで鮮やかに姿を現すフライムートという男であろう。彼と逢う、逢わない、逢わない、逢うという振り子のように揺れる主人公の思いが、ムソグルスキーの『展覧会の絵』での間奏曲「プロムナード」のようにこの小説の各エピソードをつないでいる。
 そして、飛行機に搭乗する部分から話は一挙に結末に至るのだが・・・。

 多和田さんの文章はいたるところでその想像の多様さによって特有の伸縮や振幅を見せる。しかしそれらは決して饒舌に堕することなく、小説のいわば縦糸ともいえる部分を膨らませ豊かな色彩で彩る。
 そうした部分を読んでいるととても心地よく、ああ、自分もこんなふうに書いてみたいなと思うのだが、もちろん無理であろう。それらは、単なるテクニックではなく、言葉と向かい合う彼女の基本的な姿勢に根ざすものだからだ。

 搭乗した飛行機のなかでのパスポート提示の際、「成田」のスタンプがあったばかりに別室で放射性物質の検査をされる話は、この小説が紛れもなく3・11後のものであることを物語っている。あまり話全体とは関係ないけれど・・・。


コメント
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