ものの価値というものは、とりわけ商品などのそれは市場での相互の関係によって決められるといわれる。
ようするに関係性の表象のようなもので、例えば、ある種の紙っ切れ(場合によっては電子化されていてそれすらもない)はその価値を主張しながら絶え間なくその価格を変動させ、ときに、1,000円、500円の乱高下を繰り返し、人びと(とりわけ大衆投資家といわれる人たち)をキリキリ舞いさせる。バブルの崩壊やリーマン・ショックも喉元を過ぎたのか、週刊誌は3万円台までと扇動し、アベノミクスという役者が得意満面で舞台の中央で大見得を切っている。
しかし、その実体を欠いた机上の経済やマネー・ゲームはいつかきっと崩落する。それを割りきった上で、博打だと思って株や投資に手を染めるのならいいだろう。最後は「丁・半」の運任せである。
いくら科学的と称するデータや確率計算を積み重ねても、人びとの思惑からスルリと逃げ去ってゆくものをあらかじめ予測できるものではない。
まあ、いってみれば紙幣そのものも中央銀行が私たちに債務を保証して発行している紙っ切れにすぎず、その後ろ盾がなくなればなんの価値もない紙くずに堕するのだから「市販の」証券も同様に脆弱な基盤しかもたないのはむべなるかなだろう。
かつて、買わねば非国民といわれて、そのへんの長屋住まいの庶民までが背負わされた戦時国債は、敗戦とともに一夜にして紙くずに化し、追い打ちをかけるように激しいインフレの嵐が人びとのもつ貨幣の価値を極端に無化していったのだった。
しかし、そんな話をしようとするわけではない。
本の話だ。
Amazonである検索をしていたら、ついでに引っかかってきた本に平凡社のコロナ・ブックスシリーズ(B5変型判)で『唐九郎のやきもの』という本があり、その執筆者に私の先達に当たる人も加わり、またその監修は先般亡くなられた唐九郎の後継者、加藤重高氏だというのでこれは買いかなと思った。
定価は1,524円だが、絶版とみえて中古品しかない。
その中古の価格がまた千差万別で最高は3,733円から131円までの差がある。
その差額30倍近くなので、よほど状態が違うのだろうなと思ってその「コンディション」の欄を見たら、3,733円のものも131円のものも、ともに「良い」とある。
同じ「良い」ならやはり131円の方だろう。騙されたとしても大した額ではない。そこで注文した。送料、250円込みで総額381円である。
で、来るのを楽しみにしていたら、そろそろ着きそうだという頃、Amazonからメールがやってきて、それには「当該商品はさほど良品ではないので、キャンセルにするか、あるいは1円に値引きするから送料ともで総額251円で購入するか、どちらかを選択してくれ」とある。
1円?いいじゃないの、ここまで来たらもう引けないでしょう、買ってみようじゃないの、というわけで251円で購入と返事をした。
それが届いた。
そんな経緯があっただけに、結構スリリングな開封だった。
そして、驚いた。
確かに経年によるかすかなヤケはあるものの、ほとんど気になる程でもなく、おまけに発売時の読者宛のアンケートハガキまで入っている。
ようするに、古本というより、いわゆる新古本に近い状態なのだ。
125ページに及ぶ総グラビアで、唐九郎の名品の数々を中心としたいい写真がバンバン載っているのだ。
これが1円?どうして?
やはり最初に述べた、市場における関係性の問題なのだろう。
私が若いころ、岩波文庫の1つ星が30円から40円だった。弘文堂のアテネ文庫も同程度の価格だった。
これらが私が買った一番安い書物の記憶である。
それを今回は大幅に更新した。
これ以上はもうタダか、あるいは本を買うとお金がもらえることになるのだろう。
子供の頃、本屋さんになったら好きな本がいくらでもタダで読めると夢想したことを久々に思い出した。
ひと通り目を通したが、この本は当分手の届くところに置くつもりだ。
ちょっと疲れた折など、アト・ランダムに開いて彼の作品を観る。
志野も織部も黄瀬戸もみんないい。
そして、それらを生み出した唐九郎という人物もまたやたら面白い。
1円でこんな贅沢ができるなんて・・・・。
*奥付を見たら「1997年8月27日 初版第一刷」とありました。
ようするに関係性の表象のようなもので、例えば、ある種の紙っ切れ(場合によっては電子化されていてそれすらもない)はその価値を主張しながら絶え間なくその価格を変動させ、ときに、1,000円、500円の乱高下を繰り返し、人びと(とりわけ大衆投資家といわれる人たち)をキリキリ舞いさせる。バブルの崩壊やリーマン・ショックも喉元を過ぎたのか、週刊誌は3万円台までと扇動し、アベノミクスという役者が得意満面で舞台の中央で大見得を切っている。
しかし、その実体を欠いた机上の経済やマネー・ゲームはいつかきっと崩落する。それを割りきった上で、博打だと思って株や投資に手を染めるのならいいだろう。最後は「丁・半」の運任せである。
いくら科学的と称するデータや確率計算を積み重ねても、人びとの思惑からスルリと逃げ去ってゆくものをあらかじめ予測できるものではない。
まあ、いってみれば紙幣そのものも中央銀行が私たちに債務を保証して発行している紙っ切れにすぎず、その後ろ盾がなくなればなんの価値もない紙くずに堕するのだから「市販の」証券も同様に脆弱な基盤しかもたないのはむべなるかなだろう。
かつて、買わねば非国民といわれて、そのへんの長屋住まいの庶民までが背負わされた戦時国債は、敗戦とともに一夜にして紙くずに化し、追い打ちをかけるように激しいインフレの嵐が人びとのもつ貨幣の価値を極端に無化していったのだった。
しかし、そんな話をしようとするわけではない。
本の話だ。
Amazonである検索をしていたら、ついでに引っかかってきた本に平凡社のコロナ・ブックスシリーズ(B5変型判)で『唐九郎のやきもの』という本があり、その執筆者に私の先達に当たる人も加わり、またその監修は先般亡くなられた唐九郎の後継者、加藤重高氏だというのでこれは買いかなと思った。
定価は1,524円だが、絶版とみえて中古品しかない。
その中古の価格がまた千差万別で最高は3,733円から131円までの差がある。
その差額30倍近くなので、よほど状態が違うのだろうなと思ってその「コンディション」の欄を見たら、3,733円のものも131円のものも、ともに「良い」とある。
同じ「良い」ならやはり131円の方だろう。騙されたとしても大した額ではない。そこで注文した。送料、250円込みで総額381円である。
で、来るのを楽しみにしていたら、そろそろ着きそうだという頃、Amazonからメールがやってきて、それには「当該商品はさほど良品ではないので、キャンセルにするか、あるいは1円に値引きするから送料ともで総額251円で購入するか、どちらかを選択してくれ」とある。
1円?いいじゃないの、ここまで来たらもう引けないでしょう、買ってみようじゃないの、というわけで251円で購入と返事をした。
それが届いた。
そんな経緯があっただけに、結構スリリングな開封だった。
そして、驚いた。
確かに経年によるかすかなヤケはあるものの、ほとんど気になる程でもなく、おまけに発売時の読者宛のアンケートハガキまで入っている。
ようするに、古本というより、いわゆる新古本に近い状態なのだ。
125ページに及ぶ総グラビアで、唐九郎の名品の数々を中心としたいい写真がバンバン載っているのだ。
これが1円?どうして?
やはり最初に述べた、市場における関係性の問題なのだろう。
私が若いころ、岩波文庫の1つ星が30円から40円だった。弘文堂のアテネ文庫も同程度の価格だった。
これらが私が買った一番安い書物の記憶である。
それを今回は大幅に更新した。
これ以上はもうタダか、あるいは本を買うとお金がもらえることになるのだろう。
子供の頃、本屋さんになったら好きな本がいくらでもタダで読めると夢想したことを久々に思い出した。
ひと通り目を通したが、この本は当分手の届くところに置くつもりだ。
ちょっと疲れた折など、アト・ランダムに開いて彼の作品を観る。
志野も織部も黄瀬戸もみんないい。
そして、それらを生み出した唐九郎という人物もまたやたら面白い。
1円でこんな贅沢ができるなんて・・・・。
*奥付を見たら「1997年8月27日 初版第一刷」とありました。