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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

桐島、部活やめちゃってどうしたんだろう?

2013-05-27 01:45:15 | 映画評論
 これって無茶苦茶なタイトルだが、これしか思い浮かばなかったのだから許してほしい。もちろん、小説や映画の好きな方なら「ああ、あれか」と思われるだろう。ようするに、『何者』で直木賞をとった朝井リョウのデビュー作『桐島、部活やめるってよ』を映画化したものを観たという話である。
 言い訳になるが、別に朝井リョウが直木賞をとったからとか、この映画が昨年の日本アカデミー賞をとったから観たというわけではない。

       

 昨年の公開時に、見るべき映画のリストにしっかり入れておいたにもかかわらず、急な予定が入ってそれが果たせなかったもので、その折にはもちろん、これが日本アカデミー賞をとるなんて全く思っていなかったし(賞そのものにもさほど関心もない)、原作者が朝井リョウであったことも、その彼が直木賞をとるなんてことも全く知るよしもなかった。

 ただただ、この映画の紹介記事や様々な人たちの評価などからして一度観ておきたいと思ったのに果たせなかったのだった。
 だから、私の愛する名古屋の二番館、「キノシタホール」で上映中であることを知って、リベンジとばかりに観に行ったという次第である。

 高校生の群像劇である。
 それを同じ時間帯のそれぞれの登場人物が絡むシーンをオーバーラップさせてゆくような演出(同じ出来事を違うアングルから別テイクとして映し出す)のなかで、相互の関係性が明らかになり最後の大団円へと進行する。
 なかなかうまい演出で、そうした双方向というか複数の視点からのシーンが随所で活用されている。

             

 原作もそうらしいが、タイトルにまでなっている「桐島」が登場しないことが味噌だといってよい。この不在の存在をめぐって人々の織りなす関係が左右されるし、最後のシーンもその不在を核心としてすべての登場人物がそこへと求心的に動員される。そして、その各登場人物の関係性は、むしろ彼が登場しないことによって際立つのである。

 ちょうどこの映画を見る前の集まりで、最近諸高校での文系クラブ(文芸、演劇、新聞、歴研、社研、などなど)の著しい衰退ぶりについての話が出たところだったので、この映画での映画部の大奮闘には拍手を送りたいくらいであった。
 この辺りにはやはり映画人としての吉田大八監督の思い入れも投影されていることだろう。
 なおこの監督の作品では『?腑抜けども、悲しみの愛を見せろ?』(2007)を観ていて、その折も面白い映画を作る人だなあと思ったことがある。

              

 映画に戻ろう。
 ようするに、私の孫ぐらいの年齢の人たちをめぐる話であるが、本質的には私の若いころとさして変わってはいない。ただ、好きだとか、付き合うとか付き合わぬとかが、私たちの頃よりはるかに安易にストレートに公認されている昨今の事情を背景にしているのだが、率直にいって若干の羨ましさはあるものの、そうした状況が果たして豊かといえるのかどうかについては、つい疑問に思ってしまう。

 青春の欲望のはけ口が見いだせないまま、同じ所をめぐって逡巡し、それらの欲望の昇華(?)として、婉曲な表現や創作、想像につなげていったのが私たちの世代だとしたら、現今の文系部活の衰退の要因はもはやそうした遠回りが必要なくなった短絡現象なのかもしれないと思ったりもする。
 あるいはそうした遠回りの手段がはるかに多様化したからかもしれない。

 この辺りは、「動物化するポストモダン」などというイメージと微妙に重なるのだが、まあ、半世紀以上前の自分の青春と昨今のそれとを対応させて考えるのもかなりの無理があるといったところだろう。

 登場する俳優さんの一人、橋本愛という女性、どっかで観た人だと思ったら、朝ドラでおんなじような顔しておんなじような制服姿で出ている人だった。

コメント
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