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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

反復と出来事

2013-05-25 23:25:46 | よしなしごと
 以下は、かつて繰り返し、反復の中に微少な差異を湛えたようなポスト・カードを送り続けてくれた人宛に出した返信なのですが、先に載せた時間についての雑文にも関わるかもしれませんので、多少の加筆変更をした上で、ここに載せてみます。
 
       

 世界は反復に満ちています。
 朝昼晩は反復します。
 たとえば日本では春夏秋冬も反復します。

 そこにはさしたる変化もないように思えます。
 しかし、それらの反復のそれぞれが差異を含み、ある時それらが、もはや反復のうちでは抱え込めないものを生み出します。
 それをとりあえず、出来事といってみてもいいでしょう。

    

 私たちの紡ぎ出す言葉も、反復にしか過ぎません。つまり、誰かがどこかで使ったものでしかありません。
 なぜなら、誰も使ったことのない言葉は、言葉として流通することができないからです。

 だから、私たちは既存の言葉の反復の中で言葉を使います。むしろ、反復する言葉たちに使われているといっても良いのかも知れません。言葉が私をしゃべっているという意味でです。

    

 しかし、そうした反復する事象や言葉がはらむ差異が、ある時、何かを生み出したりします。それを、出来事一般、あるいは詩という出来事、文学という出来事といってもいいかも知れません。

 もちろん、それらは言葉の問題にに先行してまずもって自然や世界の反復を打ち破る出来事として出来します。
 しかしながら、反復に屈する人たちはそれがはらむ差異は統計上のぶれだとし、出来事を出来事として見ようとはしません。起こりうることは全て「想定内」で、もしそれから外れた事柄があるとしたら、まだ究明されたり処理されたりしていないからに過ぎないのだとします。本質的に新しいこと=出来事は既に起こってしまっていて、それ以降のことは反復に過ぎないとするのです。

 

 こうした反復の立場は、また制御の姿勢でもあります。これまでの反復をこのように制御してきたのだから、今後もそれが可能だとします。いわゆる安全神話がその最たるもので、反復が示す多少の差異は想定内の措置を講じる事によってことごとく封じることが出来るとします。

 反復のなかに差異を見ようとする人たちは、その差異が来たるべき出来事を懐胎していると思っています。新しいもの、全き他者、不可能といわれたもの、つまり、出来事が到来することを疑いませんし、それへと開かれてありたいと思っています。

  
 反復の中の差異、そして出来事を見続ける人たちは、反復するものたちやそれを言い表す言葉のまっただ中にあって、それを繰り返し記述し、そして再記述しながら、それらが醸し出す微少とも思える差異のなかから出来事が到来するのを嗅ぎとります。

 あなたのメッセージと、送ってくれるまさに反復と差異を表象するような何枚かのポスト・カードを観ながら、私が考えたことどもです。
コメント (5)
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