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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

いま、人間という生物は・・・

2013-05-11 03:29:49 | 現代思想
 人間とほかの動植物などとの違いはいろいろ取り沙汰されますが、その一つの指標は人間が他の生物の品種、ないしは種そのものに干渉することでしょう。
 もちろん動植物たちも食ったり食われたり、あるいは昆虫と植物の花のようにその食性を介して繁殖の手助けをしたり、寄生などというかたちで共生したりするという意味で干渉し合っているともいえます。
 しかし、そのことによってお互いの品種を変えてしまうまでには至りません。

         
                 もう散り始めた

 それに対して人間は、人間が人間になったのとほとんど同時に他の品種に干渉し始めます。
 具体的には家畜の改良、栽培植物の品種改良などで、それぞれの動植物を人間の都合の良いように変えて来ました。
 結果として、今日私たちに馴染みの深い野菜などについて、これが本来の野生の原種だといって示されても、その差異のあまりの大きさにすぐにはそれと同定できないほどなのです。

        
                   コデマリ

 最近知ったのですが、ブルドックという犬も人間が闘犬用に鼻の短い犬をということで作り出した品種だそうです。そればかりか、この犬は自然の中では生きて行けないらしいのです。なぜなら、そうした不自然な交配のなかで作られたこの品種は、その出産時に帝王切開をしなければ子犬を産むことができないからです。
 人間が絶滅して彼らが生き残ったとしても、彼らはその次の代を産むことができないのです。
 ですから人類は、ブルドックを生み出した責任上、ちゃんと生き延びねばなりません。

 さて、人間の生物種の改良(?)は、これまでの突然変異を利用したりする自然交配とは違って全く新しい段階に入りつつあります。遺伝子工学の進化や生化学の分野における発展は、これまでとは全く違った生物を設計図に基づいて生み出したり、コピーをとるように複写したりすることを可能にしつつあります。

         
              すっかり夏の気配が 30℃

 これをもって人間が神の分野を侵しつつあるなどといわれますが、神は「なぜナシに」創造したのに反し、人間のそれは自己の欲望に基づくという大きな違いがあります。神の創造が無政府的であるとしたら、人間による創造は極めて恣意的であり政治的であるといえます。

 その是非についてはとりあえずいわないでおこうと思います。
 問題はそうしたテクノロジーが、人間以外の生物を対象とするのみならず、人間自身にも向けられ始めたということです。

 かつて人間の死は確たる判定基準を持たなかったにもかかわらず、それはほぼ自明のことでした。ところがここに来て俄然、揺らぎが生じています。
 それは人間の死が、延命措置の技術の発展によってかえって曖昧になったり、あるいはそれと裏腹のことですが、臓器摘出と移植などの必要から「資源」として見られるようになったからです。

             
               どうしてうちの八手は七手なのだろう

 私は母が意識をほぼ失い、生ける屍のようになってから一年半、付き合って来ましたが、その間、医療機関から提案される選択肢に何度も苦渋の選択を迫られました。
 その際、基準にしたのは、健康な折に母がいっていた「ぽっくり逝きたい」という意志であり、たとえ意識はなくともその苦痛を軽減することでした。はっきり言って、医師が回復の見通しがないといっている段階で、不必要で母に苦痛を強いるような延命措置(胃瘻など)は一切拒否し、いつ逝ってもいいと覚悟を決めていました。
 母が逝ったとき、その死を悲しむと同時に、やっと苦痛から解放されてよかったねという思いが相半ばしました。

         
                これが松の花(だと思う)

 なにが言いたいかというと、現代では人間の死もテクノロジーの基準に即したものになっていて、それ自身は、人間がほかの生物の生そのものに干渉してきた結果が折り返されて人間の生そのものに及んできているということです。

 人間の生に関する干渉についてはさらにいいたいことがあるのですが、もう十分長くなりました。
 次回に譲りたいと思います。


コメント
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