ある公共の場所のベンチで、陽気に誘われるまま本を読んでいたら、少し離れた場所から、「ネ、ネ、これってヤバくない?」「ワ~、チョウヤバイ」という会話が聞こえた。数人の女子高生たちのスマートフォンか何かの画像を見ながらの会話である。
「こんなん、私も欲しいなぁ」「どこで手に入るの?」などなどの話が続くところを聞くまでもなく、この「ヤバイ」が私などが若年の頃から知っていたある種のスラングと同等の用法ではないことはわかる。
紅梅の鉢植えに実がなった
もともとのこの言葉は、盗賊やテキ屋などが隠語として用いてきたもので、「危ない」とか「要注意」だとかの意味であった。語源としては、古語の「弥危ない=ヤアブナイ」を早口で言った場合のものといわれる(他に諸説あるが、これが合理的なように思われる)。
従ってこれは、明らかに否定的な状況に使われたものであるが、上の会話に見られるように、若者たちの今日的使用ではそのほとんどが肯定的で称賛ですらあり、一見、もともとの語義はすっかり失われてしまったかのようである。
エゴの木越しの青空
どこでこんな転換が起こったのかは定かではないが、しかし、本当にこの言葉が持っていた否定的な要素はなくなってしまったのだろうか。
ここからが私の思索というよりこじつけなのだが、自分ではそんなに間違っていないような気がする。
ようするに、危険を意味する言葉が、なぜ称賛の言葉に転じたかなのであるが、この間に共通するものは、「予想外のことが起こりそうだ」、あるいは「起こってしまった」ということではないだろうか。
称賛というのは予想外の事態を称える言葉である。もっと軽く考えるにしても「ネ、ネ、これって普通よりは変わっていて面白いね」といった意味合いだろう。
前のクマンバチとは違う子
しかし、私流にもっと勘ぐって考えると、「それにどうしようもなく惹き込まれる」という意味合いもあると思われる。このどうしようもなく惹きこまれてしまうことを、少し小難しくいうと忘我の境地に惹き込まれ自分が規制できなくなるかもしれないということ、自己同一性の喪失というかアイディンティティ・クライシスに陥りそうということになろうかと思われる。
従ってそれは「ヤバイ」、つまり危険なのである。
国産のハナミズキ(ヤマボウシ)
なぜこんな連想(妄想?)に及んだかというと、嘘かホントか知らないが、つい最近、若い人たちはその性行為での絶頂近くの忘我の境地において、この「ヤバイ」という言葉を連発するというのを読んだからである。
かつて、そのての小説などでは「行く(=逝く)」とか「死ぬ」とか表現されたもので、それらの言葉は自己同一性の喪失というかアイディンティティ・クライシスの危惧を告げるものであることはいうまでもない。
従って、現今の若者流の「ヤバイ」のなかにも、かつての「危険だ」、「予想外のことが起きそうだ」という「原義?」がちゃんと生きているというのが私の推測なのである。
葉はカラスノエンドウだが花が違う
それが事実であるかどうか、若い人とそうした状況になって確かめてみたいのだが、私の年齢を考えると、そうした言葉を用いる若い女性が相手をしてくれるのはかなり難しいと思われる。
いや、誤解しないでほしい。これは私の欲望のためにではなく、あくまでも「日本語の使用におけるその変遷」という「学術的」で崇高な問題にいかにしてアプローチするかという私自身の文字通り体を張ったストイックなまでの使命感に端を発するものなのだから。
「こんなん、私も欲しいなぁ」「どこで手に入るの?」などなどの話が続くところを聞くまでもなく、この「ヤバイ」が私などが若年の頃から知っていたある種のスラングと同等の用法ではないことはわかる。
紅梅の鉢植えに実がなった
もともとのこの言葉は、盗賊やテキ屋などが隠語として用いてきたもので、「危ない」とか「要注意」だとかの意味であった。語源としては、古語の「弥危ない=ヤアブナイ」を早口で言った場合のものといわれる(他に諸説あるが、これが合理的なように思われる)。
従ってこれは、明らかに否定的な状況に使われたものであるが、上の会話に見られるように、若者たちの今日的使用ではそのほとんどが肯定的で称賛ですらあり、一見、もともとの語義はすっかり失われてしまったかのようである。
エゴの木越しの青空
どこでこんな転換が起こったのかは定かではないが、しかし、本当にこの言葉が持っていた否定的な要素はなくなってしまったのだろうか。
ここからが私の思索というよりこじつけなのだが、自分ではそんなに間違っていないような気がする。
ようするに、危険を意味する言葉が、なぜ称賛の言葉に転じたかなのであるが、この間に共通するものは、「予想外のことが起こりそうだ」、あるいは「起こってしまった」ということではないだろうか。
称賛というのは予想外の事態を称える言葉である。もっと軽く考えるにしても「ネ、ネ、これって普通よりは変わっていて面白いね」といった意味合いだろう。
前のクマンバチとは違う子
しかし、私流にもっと勘ぐって考えると、「それにどうしようもなく惹き込まれる」という意味合いもあると思われる。このどうしようもなく惹きこまれてしまうことを、少し小難しくいうと忘我の境地に惹き込まれ自分が規制できなくなるかもしれないということ、自己同一性の喪失というかアイディンティティ・クライシスに陥りそうということになろうかと思われる。
従ってそれは「ヤバイ」、つまり危険なのである。
国産のハナミズキ(ヤマボウシ)
なぜこんな連想(妄想?)に及んだかというと、嘘かホントか知らないが、つい最近、若い人たちはその性行為での絶頂近くの忘我の境地において、この「ヤバイ」という言葉を連発するというのを読んだからである。
かつて、そのての小説などでは「行く(=逝く)」とか「死ぬ」とか表現されたもので、それらの言葉は自己同一性の喪失というかアイディンティティ・クライシスの危惧を告げるものであることはいうまでもない。
従って、現今の若者流の「ヤバイ」のなかにも、かつての「危険だ」、「予想外のことが起きそうだ」という「原義?」がちゃんと生きているというのが私の推測なのである。
葉はカラスノエンドウだが花が違う
それが事実であるかどうか、若い人とそうした状況になって確かめてみたいのだが、私の年齢を考えると、そうした言葉を用いる若い女性が相手をしてくれるのはかなり難しいと思われる。
いや、誤解しないでほしい。これは私の欲望のためにではなく、あくまでも「日本語の使用におけるその変遷」という「学術的」で崇高な問題にいかにしてアプローチするかという私自身の文字通り体を張ったストイックなまでの使命感に端を発するものなのだから。