六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

かくして幽霊の足は切られた 圓山應擧展を観る

2013-04-14 01:48:54 | アート
            

 圓山應擧展を観た。最終日近くでかなり混んでいたが、作品が大きいせいでさほど観るに難渋することはなかった。
 應擧というと、「お宝鑑定団」などでも偽物がたくさん出る代表格である。
 今回の展示の中にも偽物があるかも知れないと思い、意地の悪い視線で見た。

 あった!明らかに一連の應擧のものとは線や色彩が違うものがある。しかもそれらが一点だけではなく、結構あるのだ。
 しかし、よく説明をみると、それらは應擧が参照し模写したりしたものや、あるいは逆に、應擧の弟子や彼に影響を受けた人たちの作品だった。
 
 最近の美術展では、そのアーティストが影響を受けた作品や、逆に影響を与えた作品とともに展示するケースが多い。
 それはその作品を通時的、あるいは共時的な諸関連のなかで位置づけながら見せるということである意味では評価できるが、あまり度が過ぎると、肝心のそのアーティストの作品がそれらに埋もれたり、あるいは数的に少なかったりして、結果として単に水増しに終わることもある。
 この應擧展がそうであったというわけではない。

 應擧の絵に戻ると、若いころの眼鏡絵(遠近感を誇張し、凸レンズを使って立体的に見せるもの)などをはじめ、様々な技法を駆使しているのだが、私としては、極彩色のものよりも単彩(モノクロ)や彩色されていても淡い色合いで色そのものが自己主張しないもののほうが好きである。彩色で見せるのは若冲に任せたほうが良いというのは私の勝手な解釈だ。

 なお、別名、應擧寺ともいわれる兵庫県の大乗寺の襖絵は、畳敷きの部屋に欄間もしつらえ、立体的に展示されていて臨場感があった。これとて、キッチュな感は否めないのだが、美術館での展示という行為そのものが、本来それらが置かれていた場所からそれらを引剥がし、そのアウラを捨象したところで展示されるのだから致し方あるまい。その意味からいったら、今回の展示にはそれなりの努力が添えられていたともいえよう。

      

 應擧といえば幽霊の絵を連想する人が多いが、今回は展示されていなかった(前期と後期でいくぶん展示内容が変わっているので、前期にはあったのかもしれない)。
 私も、高山の寺院で應擧の幽霊図というのを観たことがあり、全国にはかなりのそれらがあるようだが、現在、それらのうち真筆とされるのはわずかに二点だという。しかもそのうちの一点も確実とはいえないという。
 では確実な真筆はというと、アメリカはカリフォルニア大学のバークレー美術館の所蔵だという。

 なお、幽霊に足がないのは應擧に端を発するというのは事実らしい。ということは、250年前までは幽霊にも足があったということである。
 これも余談だが、初代圓朝に、應擧の幽霊図を題材にした落語があり、それを圓朝忌には演じるらしいが、それらの詳細についてはよくわからない(その落語のあらすじは知っている)。

 どうも私の美術鑑賞は寄り道が多すぎるようだ。
 應擧さん、ごめんなさい。
 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする