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推理小説とクラシック音楽(2)『ケッヘル』 過剰と欠落

2013-04-29 02:36:48 | アート
 ケッヘルは、第一義的には音楽学者、作曲家、植物学者、鉱物学者、教育者として活躍したルートヴィヒ・フォン・ケッヘル(Ludwig Alois Ferdinand Ritter von Köchel 1800-1877)の人名である。
 
 しかし何といっても彼の名を後世に残したのはW・A ・モーツアルトの作品を整理し、ほぼ作曲年代順に番号を付したことにある。
 それはいわゆるケッヘル・ナンバーといわれ、K525といった具合に表示される。今日では、博物誌的な才能の持ち主だったこの人の業績のなかでも、このケッヘル・ナンバーのみが残った形であるが、ケッヘルを連発するモーツァルティアンでも、それがこの人の人名に発するものであることを忘れている人が多い。

        

 ちなみに、モーツアルトの楽曲はK626までを数え、バッハの1000を越える数には及ばないが、バッハが65歳まで生きたのに対し、モーツアルトが35歳でその生涯を閉じたことを考えると決して少ない数ではない。しかもこのケッヘル・ナンバーでは、数々のアリアや合唱曲、それに前奏曲や間奏曲を含むオペラも一曲にしか数えられていないから、それらを加えると700に迫ることだろう。

 ポピュラーな曲でいえば、セレナーデ「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」はK525、交響曲40番はK550、オペラ「魔笛」はK620、そしてその白鳥の歌、「レクイエム」は最後のK626となる。
 私が書きかけた小説、『K627 チェロ協奏曲第一番』は、モーツアルトがそのソナタでも協奏曲でも決して書かなかったチェロの曲の発見に関わる仮想の物語であるが、その冒頭部分で挫折したままである。

 この辺までは知っている私であるが、小説の世界などには暗く、図書館で『ケッヘル』という本を見かけた時には、冒頭で見たケッヘル氏の伝記的な作品かなと思い、お目当ての他の本のついでに気楽に借りてきた。

        

 しかし、この本、『ケッヘル』(上・下 中山可穂 文藝春秋)は案に相違して、推理小説であった。発行年が2006年であることからして、この前に紹介した『シューマンの指』(奥泉 光)がシューマン生誕200年に書かれたように、この書はモーツアルト(1756~91)の生誕250年に合わせて書かれたものだろう。

 この本でのケッヘルは、むろん、もっぱらモーツアルトの楽曲の番号としてのそれにとどまるのだが、そのナンバーにまつわる話は、とりわけ前半においては重要な役割を担っている。

 この物語は、親子三代にわたる壮大な規模を持ち、それ故、上下2巻にわたるのだが、推理以外の要因としてはやはりモーツアルトとその音楽に関する薀蓄がある。しかしこれは、『シューマンの指』ほどマニアックではないかもしれない。たとえそうでも、それが醸し出す雰囲気だけ味わってスルーしても小説の受容にはほとんど関連はない。

            

 推理以外のもう一つの要因は「愛のかたち」についてである。ここに登場する愛は、放縦なもの、ストイックでプラトニックなもの、そして、いわゆる「ビアン」なものなどと多彩である。このビアンな愛にはいささか面食らったが、中山可穂さんは自らそれをカミング・アウトしているようだ。SNSには一般的なファンサイトと、加入には審査が必要な女性専用サイトとがある。

 登場人物はそれぞれ、極めて過剰なものをもっている。そうした過剰は、しばしば反面としての欠落をも示すもので、この小説でもそれによる危うさやエキセントリックなものが秘める自傷的なものが語られている。

        

 推理小説としての評価は、例によって避けるが、犯人探しの面では、一度ある容疑者を浮かび上がらせ、それからミスリードを図るようにほかを示唆し、更に曲折してループ状に戻るという操作が行われていて、納得する反面、やや、物足りなさも感じさせてしまう。
 読者の感想など参照したら、「あいつが犯人であって欲しかった」などというものが複数寄せられていて、その意味では期待はずれであったかもしれないが、同時に読者の期待をうまくはぐらかした面では成功といえるかもしれない。

 この書の面白さは、事件の推理を離れて、過剰なゆえに欠落を背負う人間を描いていることかもしれない。
 この点では前に書いた『シューマンの指』とも共通しているし、ミステリアスな幻のピアニストが登場するという点でも似ているといえる。

 余談であるが、ストイックな愛とビアンなそれとはなにか共通するのだろうか。
 この書がそうであるように、中山可穂さんはあえてそれを並行して書いたのだろうか。

コメント (4)
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