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水村美苗『母の遺産 新聞小説』 ある近代の受容の物語

2013-04-03 03:46:08 | 書評
 サブタイトルとして「新聞小説」と付け加えられているのがクセモノですね。
 最初は、文字通りこの小説が新聞に連載された1)ことによるからだと思っていたのですが、読み進むうちにもっと深い含意があることに気づきました。それに気づくと、この取って付けたような「新聞小説」が、実は、この小説のメインタイトルでもおかしくないと思うようになります。
 ようするに、「母の遺産」と「新聞小説」が共に主題であるような二重の構造を持った小説なのです。

           

 「母の遺産」の方は、祖母、母、主人公(とその姉)の三代の女性の話2)になるのですが、具体的には母の最期に立ち合う主人公の話と、その夫との葛藤が絡みあいながら進みます。
 
 前半は母との関係を主とした部分なのですが、後半は芦の湖畔の由緒あるホテルに、何らかの形で死を意識した滞在者たちが集うというシーンになります。
 この部分は古色蒼然とした「探偵小説」の舞台を彷彿とさせる趣があるのですが、事実ある種の謎解きなどもあり、巧みなストーリー・テラーとしての水村さんの面目躍如たるものがあります。

 こうして、「母の遺産」に関しては女性三代の物語と、主人公とその夫との関係のある決着をもって終わるのですが、それらの諸関係の通奏低音のようなものとして流れているのが、「新聞小説」に象徴されるこの国での近代の受容に関する話なのです。

              

 主人公の祖母は「お宮さん」とよばれていますが、それは読売新聞に1897年(明治30年)1月1日~1902年5月11日まで連載された尾崎紅葉の新聞小説『金色夜叉』のヒロイン・お宮からとれれていて、祖母はこの新聞小説を読み、近代的恋愛観に啓蒙され、それを実践した人として描かれていますし、その娘である主人公の母、紀子もまたそうした観念をよりダイナミックに生きた人として描かれています。

 そればかりではありません。現代を生きる主人公やその姉もまた、そうした観念の連続性のうちに生き、恋愛や結婚をしてきたのです。
 その意味では、この小説は、近代以降当たり前になっている恋愛観や結婚観、端的にいえば恋愛と結婚を連続性のあるものと信じて疑わない観念への批判的反省を含んでいます。
 それは同時に、主人公の挫折そのものを通じて語られるだけに、よりリアルともいえます。

 一方、男性の側では、そうした観念を一応は信奉しながら、それをキッチュに生きるスノッブがはびこることとなります。
 しかし、そうしたスノッブとは異なるいわゆる凡俗にたいする作者の視線は温かいものがあります。たとえば、姉婿にたいするそれや、ホテルで出会う、おそらくは見合い結婚で添い遂げてきたであろう老夫婦へのまなざしがそれです。
 そしてそれは、近代的自我に発する恋愛観や結婚観へのアンチ・テーゼとしてむしろ肯定的にすら描かれています。

           

 尾崎紅葉の『金色夜叉』がそうであったように、新聞小説は西洋近代の恋愛観などを広く庶民に啓蒙する役割を果たしました。
 それに先立ち、一九世紀中葉のフロベールの『ボヴァリー夫人』は、まさに恋愛小説の世界を生きるセンセーショナルな存在なのですが、この水村さんの小説のなかでも、それは、主人公がホテルへの長期滞在に携帯する唯一の本として象徴的に登場し、その時々の小道具として機能します。
 それと同様、時折登場するプッチーニのオペラ、『ボエーム』も、主人公が求婚された屋根裏部屋との対比で、効果的な役割を与えられています。

 ようするに、「新聞小説」は、主人公の三代にわたる物語を規定する近代が、日本の庶民に広く伝えられた窓口の役割を担ったのであり、したがってそれが、この小説のもう一つのモチーフでもあるとする所以なのです。
 ただし、それらがむしろ幻想的な自我のあがきとして面をもつものであるとして、必ずしも肯定的に捉えられていないことは既に述べたとおりです。

 余談ですが、主人公もその姉も、それまでの経緯もあり、母親に対して早く逝って欲しいという憎悪にも似た感情をもっていて、それを隠そうともしないのですが、その割に、その母に対し、実に思いがこもったこまめなケアーをしているのには感心しました。
 なお、水村さんの描写は的確にしてリアルで、しばしば怖いものをも感じさせます。


1 この小説は『読売新聞』土曜朝刊に2010年1月から11年4月までの間連載されたものです。したがって最終回に東日本大震災に触れた箇所がありますが、いくぶん、取ってつけたような感があるのは否めません。まあ、突然のことですからやむをえないでしょね。

2 この親子三代の物語は、水村さんの前作『本格小説』や『私小説』などで部分的に触れられています。むろん、どこまでが事実でどこからが創作かは判然としませんが、そうした描写の基礎となる事実はあったようです。
 

コメント
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