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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

夭折の天才・村山槐多と岡崎市美術博物館

2012-01-29 01:08:06 | アート
            

 「村山槐多の全貌」展、この29日が最終日だというので、やっと27日に行くことが出来ました。
 村山槐多の絵は散発的には観たことがあるかも知れませんが、まとめて観るのは初めてです。
 22歳で夭折、というより病をおしての無茶な行動でほとんど自殺のように世を去ったこの画家が、それでもその短期間の制作のなかで、かなりの点数を残してくれたのは救いです。

              
           風船を被った自画像 1914   裸婦  1914~1915
 
 彼は19世紀末の既成の価値観に懐疑し、芸術至上主義的な立場をとったフランスのボードレール、ランボー、ヴェルレーヌ、イギリスのワイルドらのいわゆるデカダン派の影響を強く受けた人でした。
 デカダンスを気取ることはあっても、彼ほどそれを自分の生として意識的に生き続けた人も少ないでしょう。早熟であった彼は、15歳の頃からその死去まで、一貫してその姿勢を崩さなかったようです。
 定住と安定に抗うように放浪と退廃を、砂漠への旅を生き続けたのでした。

               
            尿(いばり)する裸僧 1915   カンナと少女  1915
 
 絵についてはあえて説明しません。後期の赤の色彩が強烈になる頃に彼は燃焼しつくしたのかもしれません。
 面白かったのは、1982年に発見されたという彼の300号に及ぶ大作「日曜の遊び」の真贋を巡って、この岡崎市美術博物館の学芸員が20年以上にわたって調査研究した成果と共に当該作品が展示されていて、美術品をめぐるミステリアスな話題を提供していたことです。

          

 自筆の詩などもかなり展示されていました。
 惜しむらくは午後から出かけたためそれらを克明に読むゆとりはありませんでした。
 それと、この歳になると途中から疲れがどっと出て、最後の方はこれと思うものを見逃さず観るのがやっとなのです。

      

 彼の一番素直な文章が、美少年、稲生きよしに宛てたラブレターや一連の詩でしょう。

 げに君は夜とならざるたそがれの
 美しきとどこほり
 げに君は酒とならざる麦の穂の
 青き豪奢

   (中略)

 われは君を離れてゆく
 いかにこの別れの切なきものなるよ
 されど我ははるかにのぞまん
 あな薄明に微笑し給へる君よ。   (1913年 17歳)


      
 
 そして次に引用するが、死の三ヶ月ほど前に書かれたいわゆる「遺書」といわれるものです。

 自分は、自分の心と、肉体との傾向が著しくデカダンスの色を帯びて居る事を十五、六歳から気付いて居ました。
 私は落ちていく事がその命でありました。
 是は恐ろしい血統の宿命です。
 肺病は最後の段階です。
 宿命的に、下へ下へと行く者を、引き上げよう、引き上げようとして下すつた小杉さん、鼎さん其の他の知人友人に私は感謝します。
 たとへ此の生が、小生の罪でないにしろ、私は地獄へ陥ちるでせう。最低の地獄にまで。さらば。         (1918年 22歳)


      

 おおよそ100年前に生きた多感な男の少年から青年にかけての記録を目のあたりにし、それらを噛み締めながら美術館を出ると、冬の陽はもう陰りはじめていました。
 ついでながらこの美術館、岡崎市の郊外の小高いところにあって、気候の良い時分なら散策するにもいいところなのですが、何分にも冬の夕刻、しかも白いものがちらつくとあって、身震いしながら帰途のバスを待つのでした。
 しかし、寒さをおして訪れるだけの価値がある作品群だったと思います。

 村山槐多の作品以外の写真は、岡崎美術館内、あるいは周辺のものです。


コメント (5)
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