六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「人類」という虚構 吉本・大西氏の原発容認論を巡って

2012-01-21 10:45:26 | よしなしごと
 以下は、同人誌などでの先達、Oさんから頂いたお手紙、並びに同封されていた諸資料を拝読し、それへの返事として書きかけたものなのですが、そのとたんにインフルエンザA型というものにやられ、一週間を無為に過ごしてしまいました。ただし、熱にうなされながらも、し残した宿題が気になりいろいろ考えているうちに、あ~ら不思議、風邪の苦痛にまさって、ウン、あれもあったな、これもあったなと思い付くこともあり、回復してすぐにタイピングしたものです。思考や文章がふらついているとしたら風邪のせいです。インフルエンザA型の匂いが染み込んだ文章、ご笑覧ください。ただし長文ですよ。

       

 科学技術についての単線的な進歩史観、ないしそれへの崇拝は根強いものがあります。とりわけ日本人にそれをしっかり植えつけた出来事に、1945年の敗戦という事態があります。
 当時の日本の軍事技術の最高峰は戦闘機の零戦、戦艦の大和、対する米軍は各種レーダーと超高々空爆撃機B29(高度1万メートル近い高空の飛来に日本の迎撃態勢は全く手が出なかった)などなど彼我の差異は大変なものがありました。
 それに対して日本は現人神の赤子による人海戦術、B29に竹槍の精神主義、そして、最後には神風が吹き敵の上陸を阻止するというオカルティズムでもって対峙したのでした。しかしそれらも、広島、長崎での二つの閃光によってピリオドが打たれたのでした。

 こうした彼我の科学技術の差異が公然となったのはもちろん敗戦後のことですが、多くの日本人はその戦争の当否よりも先に「日本は科学力で負けた」と感じたのでした。
 その後、カルト的な政治体制は改められ、民主主義が輸入されるのですが、その裏には先に観た敗戦時の実感としての科学崇拝が張り付いていたのでした。
 ようするに戦後民主主義は同時に科学主義でもあったのです。「あ、それは科学的ではない」といった言葉がよく聞かれました。この場合、「科学的」であることは、合理的であったり、論理的であったり、先進的であったり、文化的であったり、ある場合には倫理的ですらあったのです。とりわけ左翼は「科学的」社会主義を自己の立場として固めて行きました。
 
 こうして科学技術はどの階級にも属することなく、すべからく人類の進歩に貢献する絶対的な神として君臨することとなり、その進歩史観への従属こそが常に「善」とされたのでした。
 この度、原発維持の旗色を鮮明にされた吉本隆明氏、大西巨人氏も戦後民主主義のまっただ中で、また科学主義の全面的解禁のなかで文筆を執り続けた人です。そのせいあってか、脱=原発を進歩に逆らう愚行として一笑に付しています。

 吉本氏には反原発、脱原発をを19世紀のラッダイト運動(機械打ち壊し運動)と同列に見る誤りがあると思います。
 当時の労働者たちはその機械技術そのものを問題にしたのではなく、それらの職場への導入が自分たちの職を奪うという社会的ありようを忌避したのでした。たとえそれが、機械を物神化しその打ち壊しに向かったとしても、機械導入を巡ってもたらされた労資のせめぎあいこそが問題だったのです。だからこそ、資本、労働、そして機械をめぐるいきさつが一段落した折には、ラッダイトも止まったのです。
 原発はそうした資本・労働の諸関係に関わりなく、それ自体としてすべての生命や環境に対する決定的な影響をはらんでいるゆえに単に個別階級による忌避の問題ではないのです。

 どうやら吉本氏は誤解しているようですが、脱=原発は原子エネルギーの研究を未来永劫に封印せよといっているわけではないということです。ただし、それらの研究・実験は、原発という私たちを巻き込んで人体実験に処する装置としてではなく、しかるべき研究機関で基礎的な研究として行われるべきなのです。
 しかし現行のそれは、逆に、そうした基礎的な研究機関から指摘された幾多の問題を無視して強引に推し進めてきたものであり、その結果として最悪の事態をもたらしました。
 その推進力となった要因が「金=効率」なのですが、それは後述します。

 ひとつは安全神話の崩壊というより、それ自身が実は虚構であったという事実です。
 吉本氏は、原発にはこれでもかという安全性に基づく設計(=フェイル・セーフ)がなされているといいますが、その幾重にも施されているはずのそれが結局は機能せず、今日の結果が生じているわけです。
 前にも紹介しましたが、原発の仕組みを見学した小学生と説明のおねえさんのやり取りが象徴的です。安全装置の説明に小学生が尋ねます。
 「もしそれがきかなかったらどうなるのですか」
 おねえさんは得々と説明します。
 「そんな場合のために、これが作動するようになっているのです」
 「それもまたきかなかったら」
 「あ、その場合にはさらにこれが働きます」
 「それもまたきかなかったら」
 おねえさんはここで切れます。
 「そんなことは絶対ありません!!

 決してこのおねえさんがヒステリックだったわけではありません。
 原発そのものが様々な疑問に蓋をしてまさに見切り発車をしたのです。
 「想定外」といいますが、自然は常に人の想定を裏切るものです。
 
 吉本氏には原発を継続しなければその安全性に関する技術も進歩しないとの言い分があるようすが、それは、安全性が確立するまでは人々をあたかも「動物実験」のように危険にさらすという姿勢であり、容認することはできません。そこには技術に対する手放しの「進歩史観」があります。
 また彼は、自然界にだって放射能は満ち溢れている(したがってがたがた騒ぐな)と言っていますが、それに関して宇宙飛行士の小川さんはこんなことを言っています。
 「確かに宇宙への往復には、ふだんより多くの放射能を浴びることになります。しかしまた、それを覚悟で私は宇宙へと行きたい。ただし、これは地球に住む通常の人に対して降り注いではならないものなのです
 
 もう一つ、これも繰り返されていますが、使用済み核燃料の垂れ流しです。
 これはただ、どこか地中や海中へ放置するというのみで、全く見通しが立っていません。
 未来の地球への負荷を累積しながら現状の効率(安価な?エネルギー)を求めるということが許されるかどうかです。

 いざというとき、原子炉が水素爆発を起こしたりメルトダウンするのではなく、また周辺に放射能を撒き散らすことなく、確実にブレーキを掛けることが出来る技術、その廃棄物を環境汚染なく処分したり分解したりする技術の確立、それが保証されない限り、原発は安易に適用さるべき技術とは言いがたいと思います。
 
 今一つ、世界情勢との関連で見て、北朝鮮やイランで問題になっているように、そうした原子炉は容易に核兵器の生産に結びつくということです。原発=核兵器ではありませんが、為政者の決意次第でいつでもそうなる可能性があるのです。
 そしてそれは、改憲、核武装論が頭をもたげているこの国の可能性でもあるのです。  
 


       

 大西巨人氏も吉本氏同様原発維持を表明するのですが、そのレトリックは多少違います。 
 大西氏は、原発が地震と津波をもたらしたのならともかく、そうではない限り原発を容認するというのですがそれがよくわかりません。本人はそれまでは原発反対だったがこれを機に賛成に回ったといっていますが、そこにあるねじれが余計またわかりません。
 彼は言います。
 「人類は、原発事故という不可避的な事態を経ることによって、あらたなる次元へと進みうるかもしれぬと私は考える」(原子力発電に思うこと)
 そしてその文章を次のように結んでいます。
 「(原発は人々に極めて悲惨な事態をもたらすかもしれない)しかしながら、その望ましからざる未来のありようもまた、人類にとっては必然の一局面たらざるを得ないと私は考えるのである」
 
 ようするに、起こりうる悲惨も「人類」にとっては必然だからそれに甘んじろというわけです。これを敷衍してゆけば、戦争だろうが暴力だろうが、あるいはまた貧困であろうが、「人類」にとっては必然だというわけです。したがってその必然に拝跪しろということになるのですが、氏がそうしたシニシズムに満ちたイロニーを弄ぶのは勝手なのですが、世の中には、氏や私のようにもう墓場に近い者もいれば、生まれきた者たち、これから生まれいづる者たちもいることを考えてみていただきたいものです。

 ここにも吉本氏同様の「必然的進歩史観」に併せて、「とにかくなるようになるのだから行くところまで行け」といったいささか無責任なトーンも響いてくるように聞こえます。
 
 吉本氏にしろ、大西氏にしろ、すでにして不可逆的に起こってしまっている甚大な被害の実情についての認識が机上のものにとどまり、実感として全く捉えられていないように思います。それらはせいぜい、彼らが信奉する「進歩史観」「必然史観」「効率重視史観」の実験のひとつの結果にしか過ぎないのです。
 被災者に対して、「科学の進歩、事態の改善にとってあなた方の被災は必然的に必要であったのだ」とはもちろん言えることではないし、彼らとて面と向かってそれをいう勇気はおそらくないでしょう。
 
 科学技術がある方向性をもったものとして変化し続けることはもちろんですが、それはただ単線的に「進歩」するのではなく、とりわけ技術として適用される過程においてはそれぞれジグザグの過程をたどるものです。やはり、その危険性が改めて赤裸々になった以上、一度止めるべき所では止め、改めて点検し直すことも科学技術の果たすべき重要な役割だと思います。ドイツはそれを選択しました。

 もうひとつ彼らが無視しているのは、今回の原発事故やそれ以前の安全神話の形成が、官僚主導のけっして「科学技術的」なレベルとはいえない操作のもとで行われてきて、官僚、政治家、科学者、地方自治体の首長などなどが電力資本の金の支配下で行われてきた危険な慣れ合いの結果だということです。
 この事故は、まじめにアセスメントをやってきたり、科学的データによる数値をシビアーに受け止めたにも関わらず起こってしまったのではなく、それらを金と効率化という秤で完全にネグレクトした結果として起こったのです。吉本氏のいう科学技術の進歩というのも、しょせんは効率化の追求=投下資本に対する見返りの増大に依存するものにほかなりません。
 
 こうした官僚主導の構造は極めて強固に我が国の体制に染み付いています。
 あの事故後も重大な情報隠し、とんでも御用学者による安全性の「啓蒙?」活動、電力会社と地方自治体首長との間での情報操作、ヤラセのフィクションによる「第三者」機関の結論誘導が堂々と行われてきました。
 もともとの設置段階での地元民の承認というのも、こうした官僚の脚本に沿った演出の結果もたらされたものであることも明らかになりました。重要な情報を知らせず、過疎化する地方のほっぺたを札束でたたくようにしてでっち上げられた合意だったのです。
 確かにそれは、今回の事故によって明らかになった事態ですが、そうであればこそ大西氏の事故を契機として原発推進という逆のねじれが全くわからないのです。
 
 「原子力村の幹部たちがきけば、おそらく感涙を川の水のように流したであろう」(首藤滋)というこれらの発言は、電力子飼いの御用学者よりも危険です。これら御用学者たちが「研究費」という名目で億単位の金を電力から受け取っていることは公然の秘密です。要するに、飼犬の利害に基づく発言といっていいでしょう。
 
 しかし、吉本氏や大西氏のそれはむしろイデオロギーとしての攻勢です。
 したがって、それらを単なるデマゴギーとして排除するのではなく、彼らの立脚点への批判とならなければなりません。
 結論としてまとめるならば、彼らは科学技術においての単線的な発展という進歩史観に足をすくわれ、視野狭窄に陥っているように思います。そしてその結論は、「なにごとも必然として諦めろ」なのです。

 両氏に共通して多用される言葉に「人類」があります。いわく「人類の進歩」、「人類の進む道」などなどです。
 両氏のような「思想家」にとっては、人類こそが主体なのです。
 しかし、人類というのはどこにいるのでしょう。
 街を歩いているのは人類でしょうか。
 人類などというものはほんとうはどこにもいなくて、実際にいるのはあなたや彼や彼女、そして私という個々の人間なのです。そして、人類というのはそれらの総称とし抽出された抽象概念にほかならないのです

  
 ですから両氏は、現実に生きている私たち、とりわけ自然災害と原発という人災のなかで何重もの被害を背負う人々に、どこにもいない人類という抽象物の進歩のために十字架を背負い続けろというわけです。
 
 繰り返しますが、彼らの机上にあるものは「人類」「進歩」「文明」「科学技術」といったいかにも彼らの好みそうな玩具のみで、彼らはそれを動かして「思考」しているのです。そして、そこに欠けているのは、この事故が産み出し、今も産み出しつつある不可逆的な悲惨の現実なのです。だからこそ被災民をモルモット扱いにできるのです。
 
 更には日本の原発行政が、原子力関連の科学者と技術者の連携によって行われてきたという幻想があります。しかしそれは、この間、明らかになったように、官僚と電力会社と御用学者、それに監視機関にまで金が行き渡るというおおよそ「科学技術」とは関係のない図式のなかで、三文芝居の公聴会やアセスメントで実現されてきたのです。

 脱原発が同時に官僚支配打破にも通じるというのはこれを指しています。
 それに対し吉本氏や大西氏は「どうもご苦労様でした。どうかこれからもお続けください」と言っているに等しいのです。

 もう一度問います。現に放射能が降る場所で具体的に生きている人間を捨象した「人類」、官僚指導の人災のシステムとそこで被った被災者たちの実情を見ようとしない「人類発展の必然性」というのは一体何なんでしょう
 


コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする