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【追憶】65年前の軍国少年と8月15日

2010-08-15 03:29:18 | 想い出を掘り起こす
 8月15日は第二次世界大戦での日本の敗戦記念日です。
 既にこの頃のことは何度も語ったのですが、重複を恐れず今年も語ります。
 
 私は当時、国民学校の一年生でした。
 ちょうどものごころがつく頃です。
 こんな幼い私でも、いっちょうまえの軍国少年でした。
 学校や周辺がそうなるべく教え込んだのです。
 「大きくなったら兵隊さんになり、天皇陛下のために立派に死ね」
 これがすべてでした。
 死がなんたるかも知らぬまま、それが私の運命と固く思いこんでいました。

 私の悩みは、陸軍に入るか海軍に入るかでした。
 戦艦の舳先で手旗信号を送る水兵はスマートで魅力的でした。
 一方、時折家の前を帯刀して軍馬で通る陸軍士官も威厳に満ちて立派でし
た。

     

 日本の海軍が既にして壊滅的な敗北を喫し、陸軍が各地で玉砕や全滅をしていることなどは全く知りませんでした。
 大本営の発表は、各戦線でわが軍は偉大な戦果を挙げていると報じ、その最後に付け足しのように「なお、わが軍の損害は軽微なり」と伝えていたからです。

 ただし、戦線が逼迫し、連合軍が本土へ(沖縄戦はうすうす知っていましたが、そこでも日本軍は優勢だと思っていました)上陸する可能性があり、その本土決戦では一人一殺で戦うのだいわれ、幼いながら私もと思っていました。
 物陰から竹槍を繰り出せば米兵の一人ぐらいやっつけることができるだろうと真剣に考えていました。そして、その後、撃ち殺されるのだろが、そのときには、「天皇陛下バンザ~イ」と叫んで死んでゆくのだと想像していました。

 1945年に入り、名古屋、岐阜、大垣などの空襲を目撃しました。
 竹槍の届かないところからの攻撃は全く卑怯だと思いました。
 そのうちに広島や長崎に「特殊爆弾」が落とされたという報が流れました。
 噂によれば、それは光線爆弾だというのです(報道管制で、その内容は全く明らかではなかったのです)。
 そこで大人たちの意見が分かれました。
 光線なら白い布を被って逃げたほうがそれを反射して助かるというのが一派でした。
 もう一派は、白い布など被っていたら敵に発見されやすいではないかというものでした。

 今から考えると、核兵器の前にこんな論争はほとんど無意味なのですが、当時の大人たちにとっては、まさに命をかけた大論争だったのでした。

     

 8月15日のことは断片的に覚えています。
 疎開先で通っていた小学校も既に全焼し、折からの夏休みとあって、ろくに宿題すらなく(紙や学用品すらなかった)、それをいいことに遊びほうけていました。
 朝から暑い日でした。
 田舎のこともあって、裸同然で遊び回っていました。

 何時頃か、母が呼びに来ました。
 かしこくも、天皇陛下様の放送があるから、うちへ帰れとのことでした。
 帰った私は、珍しくもちゃんとしたズボンと白いシャツを着せられました。
 そして、疎開先の母の実家の母屋に集まりました。
 私たち疎開者と、地元の人でもラジオのない人たちなどおそらく20人以上が集まっていたと思います。
 一部では、起立して聞けとのお達しがあったようですが、私たちは正座をして聞きました。

     
 
 チューニングの悪いラジオをだれかが必死に合わせました。
 君が代が流れ、そして「玉音」、つまり天皇のお言葉が始まりました。

 当時天皇は「現人神」でしたからその声を聞くというのみで大変なことでした。
 当時の日本人で天皇の声を聞いたことがある人は、皇族の他は側近やおつきのひと、それに御前会議に出るようなほんの一握りのひとに限られていました。
 いまのように、ワイドショーにまで天皇が出る時代ではなかったのです。

 何か甲高い声が響き始めました。いまでいうと何か合成音のような声です。
 天皇としても録音機の前でしゃべるなんてことは初めてで、しかも日本や自分の運命に関わる重大事でしたから声が上ずるのは致し方なかったのでしょう。

 加えて、その中味は宮中用語ともいうべき特殊なボキャブラリーでしたから、6歳の少年には分かるはずがありません。
 で、周りの大人たちには分かったかというと、20人ほどいたその人たちにもまた、ちんぷんかんぷんだったらしいのです。
 でもなかに多少理解力のある人がいて、「どうも戦争に負けたらしい」といいました。しかし、それもあやふやです。
 結局、役場へ行って確かめようということになりました。

     

 こうして戦争には負けました。
 その瞬間、日本人はすべて虚脱状態になったなどといいますが、それは嘘です。
 それは戦争を一心に推進してきた連中やその尻馬に乗ってきた連中、インテリたち、あるいは都会で周りの視線を気にしていた人たちに限られていたのだと思います。それと、一部、ほんとうに真面目に日本の今後をを案じるひとたちもいたことでしょう。

 私はというと、白いシャツとズボンを脱がされてまた野良へ放り出されました。
 百姓衆は、早速、田の草取りなどの農作業に出かけました。
 もう、米軍機のいたずら半分の機銃掃射を受けなくて済むのです。
 そして、戦争に勝とうが負けようが稲は育つし、それには人の手が必要なのですのです。

 伊勢湾に上陸した米兵が、すべてを奪い尽くし、家を焼き払い、女子供に手ひどいことをするという噂も一時流れましたが、やがて、それも落ち着きました。思うにこれらの噂は、自分たちが中国大陸でやって来たことの裏返しの表現だったようです。

     

 それから後もたくさんの断片的な記憶があります。
 学校が焼けてなくなったため、あちらのお寺、こちらの工場跡と流浪の教室でした。
 教科書の墨塗りもしましたが、慌て者の私は間違ったところを塗ってしまい、大いに困りました。

 シベリアにもってゆかれた父の復員が遅かったため、結局私は5年生の3学期までの数年間を疎開先で過ごしました。

     

 あれから65年、昨日はシベリア帰りの養父の墓へ詣でました。
 それ以前に、インパールで戦死した実父にはしばし黙祷しました。

 教訓めいたことは何も言いますまい。
 来年もまた同じようなことを書くつもりです。


        玉音にわれ関せずと蝉時雨    六
コメント (6)
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