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【嘆き】かくして粗大ゴミは遺棄される

2010-08-04 15:44:44 | 社会評論
 前に、誰にも看取られず、遺体の引き取り手すらない無縁死(行政の用語では「行旅死亡人」という)が年間三万二千人に達し、自殺者の三万人超を加えると、年間六万人強の人たちが、尋常ならざる死を遂げていることを述べた。
 そして、それが一億三千万を分母とした少数の問題としてではなく、年間の死亡者約百二十万人を分母として考えねばならないとも書いた。
 そうすると、6/120だから、日本人の5%、つまり二〇人に一人はそのような死を迎えていることになる。

    

 それに加えて、昨今、急に注目され始めた百歳以上の老人の所在不明、幼児の置き去り死などなどを加えるとその分子はドンドン肥大化するであろう。
 老人の死については、百歳といわず、八〇歳以上ぐらいに調査を拡大すべきだという主張もある。それによって増加する死者数は予想もつかない。
 ひょっとしたら、世界一の長寿国という事実を数の上でも脅かしかねない。
 少なくともその質においては、とっくにその幻想性を露呈してしまっている。

 老人は早くからゴミ扱いされてきた。晩年は年金を受取るのみの装置として、家族がこれを利用する。だから今回のような事態が続発するのだろう。
 行政もほとんど高齢者を放置してきたことが明るみになった。百歳以上の人には毎年、祝い金などが与えられるが、行政はそれらを本人確認すらせず、家族に機械的に配布してきたのだ。
 行政とても、年々増え続けるゴミには対処しかねるというわけだ。
 
 それを残酷とする人たちの間にも、人としての機能をほとんど失っのた老人はもはや人ではないという思いが密かにあるだろう。
 私はそれを覚悟している。生産力一辺倒の世の中では生産と再生産の力たり得ず、もはや消費すらし得ないものをゴミとして遺棄するのは自然なことかも知れない。私は既にしてその立派な予備軍である。

       

 しかし、やはり警告はしておくべきであろう。
 そうした一部の人間のゴミ扱いは、最初は遠慮がちに行われる。
 だが、ひとたび一部の人間がゴミであることが承認されるや、やがてそれらは拡大解釈される運命にあるのだ。
 
 現実に、物言わぬ老人、語れぬ子等がゴミ扱いされ、親族も地域も行政も、そうしたゴミの存在を暗黙のうちに了承しているのだが、情勢次第ではそれらは拡大する。

 老人、子供、障害者、犯罪者、在日、生産性に馴染まない人々一般、あるいは「有害な思想」を抱いた連中。
 一部の人間をゴミとして認定した以上、どうしてそのほかの人間についてためらう必要があろうか。

    

 かくして、だれかをゴミと評価する世の中は、次第に荒廃する。
 在日をゴミだ豚だとしてデモるひとたちは、その行為のもっている一般性を自覚しているのだろうか。誰かをゴミとして断定する基準は流動的である。
 他者をゴミ呼ばわりしてきた人たちは、その基準が変わって自分がゴミ呼ばわりされたとき、それに対し原理的に抗弁しえないはずだ。

 人の世にはゴミが存在することを原理的に認めてしまっている以上、それはどんな形にも変容する。単純にいって、人をゴミ呼ばわりする連中がゴミだという論理も充分成立する。

 自分たちはゴミではないと自認する人たちも思うべきだろう。あなたの「人」としての可能性は、冒頭で述べたように、ゴミとしての処分が年を追って増加する世の中という、死臭や腐臭に満ちた地盤の上にかろうじて成り立っているのだということを・・・。
 あなたたちは、もう何十年も前に死亡していた人と同居している家族に過ぎない。
 ただ、その死臭に鈍感なだけだ。
 

コメント (2)
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