8月15日は第二次世界大戦での日本の敗戦記念日です。
既にこの頃のことは何度も語ったのですが、重複を恐れず今年も語ります。
私は当時、国民学校の一年生でした。
ちょうどものごころがつく頃です。
こんな幼い私でも、いっちょうまえの軍国少年でした。
学校や周辺がそうなるべく教え込んだのです。
「大きくなったら兵隊さんになり、天皇陛下のために立派に死ね」
これがすべてでした。
死がなんたるかも知らぬまま、それが私の運命と固く思いこんでいました。
私の悩みは、陸軍に入るか海軍に入るかでした。
戦艦の舳先で手旗信号を送る水兵はスマートで魅力的でした。
一方、時折家の前を帯刀して軍馬で通る陸軍士官も威厳に満ちて立派でし
た。
日本の海軍が既にして壊滅的な敗北を喫し、陸軍が各地で玉砕や全滅をしていることなどは全く知りませんでした。
大本営の発表は、各戦線でわが軍は偉大な戦果を挙げていると報じ、その最後に付け足しのように「なお、わが軍の損害は軽微なり」と伝えていたからです。
ただし、戦線が逼迫し、連合軍が本土へ(沖縄戦はうすうす知っていましたが、そこでも日本軍は優勢だと思っていました)上陸する可能性があり、その本土決戦では一人一殺で戦うのだいわれ、幼いながら私もと思っていました。
物陰から竹槍を繰り出せば米兵の一人ぐらいやっつけることができるだろうと真剣に考えていました。そして、その後、撃ち殺されるのだろが、そのときには、「天皇陛下バンザ~イ」と叫んで死んでゆくのだと想像していました。
1945年に入り、名古屋、岐阜、大垣などの空襲を目撃しました。
竹槍の届かないところからの攻撃は全く卑怯だと思いました。
そのうちに広島や長崎に「特殊爆弾」が落とされたという報が流れました。
噂によれば、それは光線爆弾だというのです(報道管制で、その内容は全く明らかではなかったのです)。
そこで大人たちの意見が分かれました。
光線なら白い布を被って逃げたほうがそれを反射して助かるというのが一派でした。
もう一派は、白い布など被っていたら敵に発見されやすいではないかというものでした。
今から考えると、核兵器の前にこんな論争はほとんど無意味なのですが、当時の大人たちにとっては、まさに命をかけた大論争だったのでした。
8月15日のことは断片的に覚えています。
疎開先で通っていた小学校も既に全焼し、折からの夏休みとあって、ろくに宿題すらなく(紙や学用品すらなかった)、それをいいことに遊びほうけていました。
朝から暑い日でした。
田舎のこともあって、裸同然で遊び回っていました。
何時頃か、母が呼びに来ました。
かしこくも、天皇陛下様の放送があるから、うちへ帰れとのことでした。
帰った私は、珍しくもちゃんとしたズボンと白いシャツを着せられました。
そして、疎開先の母の実家の母屋に集まりました。
私たち疎開者と、地元の人でもラジオのない人たちなどおそらく20人以上が集まっていたと思います。
一部では、起立して聞けとのお達しがあったようですが、私たちは正座をして聞きました。
チューニングの悪いラジオをだれかが必死に合わせました。
君が代が流れ、そして「玉音」、つまり天皇のお言葉が始まりました。
当時天皇は「現人神」でしたからその声を聞くというのみで大変なことでした。
当時の日本人で天皇の声を聞いたことがある人は、皇族の他は側近やおつきのひと、それに御前会議に出るようなほんの一握りのひとに限られていました。
いまのように、ワイドショーにまで天皇が出る時代ではなかったのです。
何か甲高い声が響き始めました。いまでいうと何か合成音のような声です。
天皇としても録音機の前でしゃべるなんてことは初めてで、しかも日本や自分の運命に関わる重大事でしたから声が上ずるのは致し方なかったのでしょう。
加えて、その中味は宮中用語ともいうべき特殊なボキャブラリーでしたから、6歳の少年には分かるはずがありません。
で、周りの大人たちには分かったかというと、20人ほどいたその人たちにもまた、ちんぷんかんぷんだったらしいのです。
でもなかに多少理解力のある人がいて、「どうも戦争に負けたらしい」といいました。しかし、それもあやふやです。
結局、役場へ行って確かめようということになりました。
こうして戦争には負けました。
その瞬間、日本人はすべて虚脱状態になったなどといいますが、それは嘘です。
それは戦争を一心に推進してきた連中やその尻馬に乗ってきた連中、インテリたち、あるいは都会で周りの視線を気にしていた人たちに限られていたのだと思います。それと、一部、ほんとうに真面目に日本の今後をを案じるひとたちもいたことでしょう。
私はというと、白いシャツとズボンを脱がされてまた野良へ放り出されました。
百姓衆は、早速、田の草取りなどの農作業に出かけました。
もう、米軍機のいたずら半分の機銃掃射を受けなくて済むのです。
そして、戦争に勝とうが負けようが稲は育つし、それには人の手が必要なのですのです。
伊勢湾に上陸した米兵が、すべてを奪い尽くし、家を焼き払い、女子供に手ひどいことをするという噂も一時流れましたが、やがて、それも落ち着きました。思うにこれらの噂は、自分たちが中国大陸でやって来たことの裏返しの表現だったようです。
それから後もたくさんの断片的な記憶があります。
学校が焼けてなくなったため、あちらのお寺、こちらの工場跡と流浪の教室でした。
教科書の墨塗りもしましたが、慌て者の私は間違ったところを塗ってしまい、大いに困りました。
シベリアにもってゆかれた父の復員が遅かったため、結局私は5年生の3学期までの数年間を疎開先で過ごしました。
あれから65年、昨日はシベリア帰りの養父の墓へ詣でました。
それ以前に、インパールで戦死した実父にはしばし黙祷しました。
教訓めいたことは何も言いますまい。
来年もまた同じようなことを書くつもりです。
玉音にわれ関せずと蝉時雨 六
既にこの頃のことは何度も語ったのですが、重複を恐れず今年も語ります。
私は当時、国民学校の一年生でした。
ちょうどものごころがつく頃です。
こんな幼い私でも、いっちょうまえの軍国少年でした。
学校や周辺がそうなるべく教え込んだのです。
「大きくなったら兵隊さんになり、天皇陛下のために立派に死ね」
これがすべてでした。
死がなんたるかも知らぬまま、それが私の運命と固く思いこんでいました。
私の悩みは、陸軍に入るか海軍に入るかでした。
戦艦の舳先で手旗信号を送る水兵はスマートで魅力的でした。
一方、時折家の前を帯刀して軍馬で通る陸軍士官も威厳に満ちて立派でし
た。
日本の海軍が既にして壊滅的な敗北を喫し、陸軍が各地で玉砕や全滅をしていることなどは全く知りませんでした。
大本営の発表は、各戦線でわが軍は偉大な戦果を挙げていると報じ、その最後に付け足しのように「なお、わが軍の損害は軽微なり」と伝えていたからです。
ただし、戦線が逼迫し、連合軍が本土へ(沖縄戦はうすうす知っていましたが、そこでも日本軍は優勢だと思っていました)上陸する可能性があり、その本土決戦では一人一殺で戦うのだいわれ、幼いながら私もと思っていました。
物陰から竹槍を繰り出せば米兵の一人ぐらいやっつけることができるだろうと真剣に考えていました。そして、その後、撃ち殺されるのだろが、そのときには、「天皇陛下バンザ~イ」と叫んで死んでゆくのだと想像していました。
1945年に入り、名古屋、岐阜、大垣などの空襲を目撃しました。
竹槍の届かないところからの攻撃は全く卑怯だと思いました。
そのうちに広島や長崎に「特殊爆弾」が落とされたという報が流れました。
噂によれば、それは光線爆弾だというのです(報道管制で、その内容は全く明らかではなかったのです)。
そこで大人たちの意見が分かれました。
光線なら白い布を被って逃げたほうがそれを反射して助かるというのが一派でした。
もう一派は、白い布など被っていたら敵に発見されやすいではないかというものでした。
今から考えると、核兵器の前にこんな論争はほとんど無意味なのですが、当時の大人たちにとっては、まさに命をかけた大論争だったのでした。
8月15日のことは断片的に覚えています。
疎開先で通っていた小学校も既に全焼し、折からの夏休みとあって、ろくに宿題すらなく(紙や学用品すらなかった)、それをいいことに遊びほうけていました。
朝から暑い日でした。
田舎のこともあって、裸同然で遊び回っていました。
何時頃か、母が呼びに来ました。
かしこくも、天皇陛下様の放送があるから、うちへ帰れとのことでした。
帰った私は、珍しくもちゃんとしたズボンと白いシャツを着せられました。
そして、疎開先の母の実家の母屋に集まりました。
私たち疎開者と、地元の人でもラジオのない人たちなどおそらく20人以上が集まっていたと思います。
一部では、起立して聞けとのお達しがあったようですが、私たちは正座をして聞きました。
チューニングの悪いラジオをだれかが必死に合わせました。
君が代が流れ、そして「玉音」、つまり天皇のお言葉が始まりました。
当時天皇は「現人神」でしたからその声を聞くというのみで大変なことでした。
当時の日本人で天皇の声を聞いたことがある人は、皇族の他は側近やおつきのひと、それに御前会議に出るようなほんの一握りのひとに限られていました。
いまのように、ワイドショーにまで天皇が出る時代ではなかったのです。
何か甲高い声が響き始めました。いまでいうと何か合成音のような声です。
天皇としても録音機の前でしゃべるなんてことは初めてで、しかも日本や自分の運命に関わる重大事でしたから声が上ずるのは致し方なかったのでしょう。
加えて、その中味は宮中用語ともいうべき特殊なボキャブラリーでしたから、6歳の少年には分かるはずがありません。
で、周りの大人たちには分かったかというと、20人ほどいたその人たちにもまた、ちんぷんかんぷんだったらしいのです。
でもなかに多少理解力のある人がいて、「どうも戦争に負けたらしい」といいました。しかし、それもあやふやです。
結局、役場へ行って確かめようということになりました。
こうして戦争には負けました。
その瞬間、日本人はすべて虚脱状態になったなどといいますが、それは嘘です。
それは戦争を一心に推進してきた連中やその尻馬に乗ってきた連中、インテリたち、あるいは都会で周りの視線を気にしていた人たちに限られていたのだと思います。それと、一部、ほんとうに真面目に日本の今後をを案じるひとたちもいたことでしょう。
私はというと、白いシャツとズボンを脱がされてまた野良へ放り出されました。
百姓衆は、早速、田の草取りなどの農作業に出かけました。
もう、米軍機のいたずら半分の機銃掃射を受けなくて済むのです。
そして、戦争に勝とうが負けようが稲は育つし、それには人の手が必要なのですのです。
伊勢湾に上陸した米兵が、すべてを奪い尽くし、家を焼き払い、女子供に手ひどいことをするという噂も一時流れましたが、やがて、それも落ち着きました。思うにこれらの噂は、自分たちが中国大陸でやって来たことの裏返しの表現だったようです。
それから後もたくさんの断片的な記憶があります。
学校が焼けてなくなったため、あちらのお寺、こちらの工場跡と流浪の教室でした。
教科書の墨塗りもしましたが、慌て者の私は間違ったところを塗ってしまい、大いに困りました。
シベリアにもってゆかれた父の復員が遅かったため、結局私は5年生の3学期までの数年間を疎開先で過ごしました。
あれから65年、昨日はシベリア帰りの養父の墓へ詣でました。
それ以前に、インパールで戦死した実父にはしばし黙祷しました。
教訓めいたことは何も言いますまい。
来年もまた同じようなことを書くつもりです。
玉音にわれ関せずと蝉時雨 六
瀕したときは、資材をすべて投げ打って護憲運動
に身を投じる覚悟です。
今上陛下は、昭和天皇の名代として、沖縄、サイパンを訪問し祈りをささげ、宮中祭祀に勤しみ、8月6日~15日は私的活動を控える等、平和を祈るお仕事に高齢となった現在も身を投じておられます。それが自身の責務だとお考えであることが国民にも通じます。ところが皇太子殿下はどうでしょう。「人格否定」会見のお年の時、昭和天皇は226事件で毅然たる態度を取り、今上陛下は沖縄で火炎瓶を投げられました。皇太子殿下はマイホームパパに専念するばかりで、何を考えておられるのか伝わってきません。雅子妃が8月15日の午後に乗馬をしたなど、もってのほかです。8月6日の前日に静養に出発されるというのも納得できません。私は喪に服して平和の祈りを捧げて頂きたいです。公務を休みながら愛子さまに付き添って学校へ通ううというのも、「子離れ」できていないのでしょう。愛子様は自閉症等の障害をお持ちなのでしょうが、立場上国民に明らかにして、特殊学級に移され将来の公務を行えるよう教育を受けるべきです。雅子様がチッソ水俣経営者(加害者)の関係者であることは言いませんが、自覚を持っていただきたいものです。皇室は平和を祈る国民の心のよりどころであって欲しいからです。
「私は、反戦論者です。」を信用致します。
「憲法9条が改悪の危機に瀕したときは・・・」も含めてです。
九条は実質的にゆがめられている側面があるとは言え、やはり「反戦論者」のとりでだと思うからです。
天皇論についてはそれぞれの事実に暗いので敢えて具体的なことは申しませんが、昭和天皇と今上天皇とで一線が引かれるだろうとは思います。
私は天皇家を絶滅せよという過激な思想は持っていませんが、昭和天皇についてはこだわりがあります。例えば、ここ二、三日飛び交っている言説に、昭和天皇の「ご聖断」によって戦争が終わったというのがありますが、これは真っ赤な嘘です。
日本は追い詰められ,追い詰められ、藁でもすがる思いでボツダム宣言宣言を受諾したのであって、そこには「ご聖断」も「ご英断」もなんの余地もなかったのです。
昭和天皇のご聖断を云々する人たちは、実は昭和天皇の戦争責任を顕わにしている人たちです。なぜなら、戦争の終結が昭和天皇の主体的判断だとすれば、開戦のご聖断もまたそうであり、昭和天皇の戦争責任は紛れもなくあるからです。
私の判決は、どの程度かであれ,昭和天皇はギルティです。
戦後、新憲法下で天皇の地位が変わったことはご承知の通りですが、この変化を徹底させ、天皇という存在が日本の歴史的文化的遺産として継承されることには異論はありません。
ただし、政治的な事柄に一切タッチせず、国民もまたそうした利用を一切行わないという条件付きです。さらにいえば、後述するように宮内庁の抜本的解体が必要と思われます。
北欧、デンマーク辺りがそんな感じで、王女が通用口から短パンでコンビニに行くといった感じです。
日本ではそうした開かれた皇室を妨げているのが宮内庁です。日本の役所の中で宮内庁ほど不透明な処はありません。だいたい職員の一般採用はないのです。
そして彼らが天皇や皇族の一挙手一投足を支配しているようなのです。
私は先ほど申し上げたように、宮廷事情には疎いので、N響大好き。さんが例示されたことにお応えは出来ませんが、雅子さんの不具合なども宮内庁との軋轢も考えられるのではとも思います。美智子様もその辺りでは随分苦労されたように聞いています。
まあ、どこの家族だっていろいろ問題があり、私のうちなんかも悩みが耐えませんが、皇室のみがうまく行くなんてことはあり得ないだろうなというのが私のような庶民の感想です。
これにより日本列島と大陸とが接続されるわけですね。
「英仏トンネル」を想起しました。
現代のIT技術を駆使して、世界的な貧困を解消するグローバルなベーシック・インカムのシステムや、あるいは、世界同時的核廃絶のシステムプログラムなどは出来ないものでしょうか。
しかもこの構想、シルクロードを逆走して中近東に至り、そこでヨーロッパの鉄道と接続するという壮大なプランなのですね。
このグローバルな構想が、戦時の問題として語られたのは残念ですね。
今一度、平和時においてのアジア=ヨーロッパ接続構想としてよみがえってもいいような気がします。
貧困層の問題については、まだ不勉強なのですが、ベーシック・インカムについての論議に興味があります。
世界の総生産額が、世界の総人口を養える水準に達しているにもかかわらず、一方で飢える民を産んでいるという状況を、いささか乱暴かも知れませんが、世界的なベーシック・インカムでひとまず解消する「工学システム」は作れないものでしょうか。
ご承知のように、私はどちらかというと文系人間ですが、ここまで成長した工学システムは、生産や消費のグローバルな均衡のためにも、現行システムのもつ最大の問題点、配分の問題にも関わることが要請されており、しかもそれが新たな生産と消費の循環を生み出すのかも知れないと思っています。
ようするに、現行の私的所有の制度の中で、そこからはみ出た人たちへの目配りを考えると言うことです。
ですから、働けど働けどという層にも、たんなる怠け者にも、いささか乱暴ですが一挙に「ばらまき」をしてしまうということです。
そこから先は自己責任でもいいかもしれません。
文系ロマンチストの平等思想よりも、工学システムエンジニアの、プラグマティックな配分システムの研究成果の方に、なぜか期待する今日この頃です。
現代で難しいのは社会に環境という変数がひとつ加わったことだと思います。以前に知床半島に行ったときに、「世界遺産」という閉じた社会ですが、私はヒントになりました。blogにまとめていますのでご査収ください。
http://hamsajapan.blogspot.com/2008/06/warkingtrekking_09.html