北の核実験が問題視されている。とりわけ、その体制のありようとの関連が危機意識を一層強化しているようである。
先の日記でも述べたが、阿倍内閣の発足に伴い、対中、対韓の問題が幾分懸念されたのだが、この実験によりそれらが吹っ飛んでしまい、対北の問題に一元化されてしまった。
それにより、阿倍氏の歴史認識などは不問に付されたのは、氏にとっては僥倖というべきだろう。
ところで、この核の問題には、一貫して奇妙なねじれがあるように思う。
● 正義の核? きれいな核?
まだ私が学生の頃だから、もう半世紀近い前である。
広島で行われた原水爆禁止世界大会というものに出たことがある。
もちろん私は、「世界大会」の方には出られないから、国内各階層による分科会の方に出たのだった。
その大会は荒れた大会であった。
何で荒れたかというと、「全ての国の核実験に反対」とする一般市民や学生などの主張に対し、当時、大衆運動にかなりの勢力を誇っていたマルクス・レーニン主義を標榜する某政党(現存するももはや歴史的生命は終焉?)が、「米英の核実験は帝国主義のそれだが、ソ連(当時)のものは正義の核実験である」と主張し、ソ連の核実権は反対の対象から外すように主張して止まなかったからである。
彼らは全国動員をかけていたから、各会場で半数近くがその勢力によって占められ、この論争は拮抗した。
「それでも原爆は危険だろう」という指摘には、「ソ連の原爆は放射能が少なくクリーンなのだ」という詭弁まがいの返事が返ってきた。彼らの展開は、どの会場でも、どの発言者でもほぼ同じだったので、おそらく事前の学習会でオルグが徹底し、発言もマニュアル化されていたのであろう。
こうしたこともあって、原水爆に反対するのは左翼の一方的な宣伝活動だという風評が一般化し、中間層や保守層の人で原爆に反対する意志をもつ人たちを、その運動から遠ざけていた。
私たちは、急遽、「あらゆる国の核実験反対!」「某党の原水協支配に反対!」をかかげて広島市内をデモ行進したが、無届けだったため、あっという間に機動隊に排除された。それを、某党のメンバーたちは、「ざまー見ろ」といった面持ちで眺めていた。
● 「お前らはだめ」は説得力をもつか?
翻って、今日はどうだろうか。
北の実験強行についてはあらゆる階層から反対の声が挙がっている。とりわけ、自民党を中心にした層からは、制裁策はむろん、先制攻撃も含めた急進的な見解すら飛び出ている。
しかしである、彼らの口から、米英などの核実験に対する反対の声はついぞ聴かれない。
アメリカの核実験は「ならず者国家」を征伐するための正義のためのものだというわけだ。
かつて彼らは、原水爆禁止の運動は偏向したものとして、冷ややかに見ていたのだ。
今、その彼らが、かつての某政党とまったく同様の偏向した核への対応を平気でしている。
これを今持ち出すことは、当面する北の核武装の題を曖昧にしようとする意図からではない。それはそれとしてと追求すべきだと思っいるが、それにしても、「お前らはだめだ」という言い分は説得力を持つだろうか。当然、「お前らもだめだ」であって然るべきではないか。
なぜ、これを強調するかというと、北の脅威ということで、アメリカの核を肯定したり、さらには、日本の核武装を推進する動きが胎動しつつあるからである。
北の核は、それ自身責められるべきだが、それが一方での核の容認や、核の拡散の引き金になるとすれば、事態は一層危機的である。その意味でも北の責任は重い。
● 正義の核、きれいな核など存在しない!
数十年前と今日との間にある核を巡る ねじれ現象を見てきたが、核は、イデオロギーや体制の問題如何に関わらず、その存在自身が、悪であることを確認すべきである。
「北はならず者国家であるからだめ、アメリカはそうでないから・・」という論理は成立しない。百歩譲って、そうでるとしても、これから核兵器を持とうとしている国(数カ国は見込まれている)に対しては何ら説得力を持つものではない。
今、世界には、人類を50回以上絶滅することが出来る核兵器が存在しているという。
いってみれば、私たちは、地球という大地の上に、核兵器という絨毯を敷き詰め、その上で日々を過ごしているのである。
ある以上、それらはいずれは炸裂する可能性をもつ。
そして、ないものは炸裂しようがない。
この単純で明白な事実からして、核はなくさなければならない。
今般の北の核実験が、一方の核を合理化したり、いわんや、わが国や周辺諸国(韓国、台湾など)でのその拡大を招くことがあってはならない。
世界政治の戦略戦術からして、当面は北の核を封じ込めることに焦点が当てられるべきであろうが、それはあくまでも地球上からの核の一掃という動きの一環として位置づけられるべきだろうし、そうでなければ、その成果を上げることが出来ないばかりか、アゲインストとしての核拡散という動きに手を貸すことになりかねない。
先の日記でも述べたが、阿倍内閣の発足に伴い、対中、対韓の問題が幾分懸念されたのだが、この実験によりそれらが吹っ飛んでしまい、対北の問題に一元化されてしまった。
それにより、阿倍氏の歴史認識などは不問に付されたのは、氏にとっては僥倖というべきだろう。
ところで、この核の問題には、一貫して奇妙なねじれがあるように思う。
● 正義の核? きれいな核?
まだ私が学生の頃だから、もう半世紀近い前である。
広島で行われた原水爆禁止世界大会というものに出たことがある。
もちろん私は、「世界大会」の方には出られないから、国内各階層による分科会の方に出たのだった。
その大会は荒れた大会であった。
何で荒れたかというと、「全ての国の核実験に反対」とする一般市民や学生などの主張に対し、当時、大衆運動にかなりの勢力を誇っていたマルクス・レーニン主義を標榜する某政党(現存するももはや歴史的生命は終焉?)が、「米英の核実験は帝国主義のそれだが、ソ連(当時)のものは正義の核実験である」と主張し、ソ連の核実権は反対の対象から外すように主張して止まなかったからである。
彼らは全国動員をかけていたから、各会場で半数近くがその勢力によって占められ、この論争は拮抗した。
「それでも原爆は危険だろう」という指摘には、「ソ連の原爆は放射能が少なくクリーンなのだ」という詭弁まがいの返事が返ってきた。彼らの展開は、どの会場でも、どの発言者でもほぼ同じだったので、おそらく事前の学習会でオルグが徹底し、発言もマニュアル化されていたのであろう。
こうしたこともあって、原水爆に反対するのは左翼の一方的な宣伝活動だという風評が一般化し、中間層や保守層の人で原爆に反対する意志をもつ人たちを、その運動から遠ざけていた。
私たちは、急遽、「あらゆる国の核実験反対!」「某党の原水協支配に反対!」をかかげて広島市内をデモ行進したが、無届けだったため、あっという間に機動隊に排除された。それを、某党のメンバーたちは、「ざまー見ろ」といった面持ちで眺めていた。
● 「お前らはだめ」は説得力をもつか?
翻って、今日はどうだろうか。
北の実験強行についてはあらゆる階層から反対の声が挙がっている。とりわけ、自民党を中心にした層からは、制裁策はむろん、先制攻撃も含めた急進的な見解すら飛び出ている。
しかしである、彼らの口から、米英などの核実験に対する反対の声はついぞ聴かれない。
アメリカの核実験は「ならず者国家」を征伐するための正義のためのものだというわけだ。
かつて彼らは、原水爆禁止の運動は偏向したものとして、冷ややかに見ていたのだ。
今、その彼らが、かつての某政党とまったく同様の偏向した核への対応を平気でしている。
これを今持ち出すことは、当面する北の核武装の題を曖昧にしようとする意図からではない。それはそれとしてと追求すべきだと思っいるが、それにしても、「お前らはだめだ」という言い分は説得力を持つだろうか。当然、「お前らもだめだ」であって然るべきではないか。
なぜ、これを強調するかというと、北の脅威ということで、アメリカの核を肯定したり、さらには、日本の核武装を推進する動きが胎動しつつあるからである。
北の核は、それ自身責められるべきだが、それが一方での核の容認や、核の拡散の引き金になるとすれば、事態は一層危機的である。その意味でも北の責任は重い。
● 正義の核、きれいな核など存在しない!
数十年前と今日との間にある核を巡る ねじれ現象を見てきたが、核は、イデオロギーや体制の問題如何に関わらず、その存在自身が、悪であることを確認すべきである。
「北はならず者国家であるからだめ、アメリカはそうでないから・・」という論理は成立しない。百歩譲って、そうでるとしても、これから核兵器を持とうとしている国(数カ国は見込まれている)に対しては何ら説得力を持つものではない。
今、世界には、人類を50回以上絶滅することが出来る核兵器が存在しているという。
いってみれば、私たちは、地球という大地の上に、核兵器という絨毯を敷き詰め、その上で日々を過ごしているのである。
ある以上、それらはいずれは炸裂する可能性をもつ。
そして、ないものは炸裂しようがない。
この単純で明白な事実からして、核はなくさなければならない。
今般の北の核実験が、一方の核を合理化したり、いわんや、わが国や周辺諸国(韓国、台湾など)でのその拡大を招くことがあってはならない。
世界政治の戦略戦術からして、当面は北の核を封じ込めることに焦点が当てられるべきであろうが、それはあくまでも地球上からの核の一掃という動きの一環として位置づけられるべきだろうし、そうでなければ、その成果を上げることが出来ないばかりか、アゲインストとしての核拡散という動きに手を貸すことになりかねない。