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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

赤い蝋燭の人魚姫とフクイチ 人間的尺度の外部としての自然について

2020-12-03 16:12:15 | 社会評論

 以下は、私の家の近くで、長年ウオッチングをしてきたかつての美田が、耕作者の急逝により後継者もないまま三年を経て、見る影もない荒れ地に変じた様を見ながら考えた事柄である。

         
 かつてひとは、荒ぶる大地の雑草茂る平原や雑木林を開墾し、人間的尺度の世界のうちへと繰り入れてきた。
 今日、都会から田舎を訪れる人たちが「やっぱり自然がいいわねぇ」といいながら見る風景もそうした結果によるものである。「手つかずの大自然」といわれるものも、概して、「人間によって」改変を禁じられ、そのように保たれてきた風景といっていい。

 私たちが愛でる自然は、人間的尺度のうちへ繰り込まれ、管理されている自然であるといえる。しかし、その人間的自然の外部には、人間にまつろうことのない他者としての自然、人間的尺度の外部としての自然が依然として存在していたし、いまも存在する。

 そうした自然、人間的尺度を超えた自然は、時折その巨大で荒々しいポテンシャルを発揮し、禍々しい結果を伴うものとして私たちのもとへとやってくる。それらは、大地震であったり、それに伴う大津波であったり、巨大な台風やサイクロンであったり、わたしたちの狭い国土での想像を絶するような面積を焼き払う広域の山火事であったりする。

 それらのうちいくつかは、人間が自覚すると否とに関わらず、人間的尺度のうちでの人の営みが関わっている可能性がある。異常気象は、幾何級数的に膨張してきた化石燃料の消費の結果である地球温暖化、海面温度の上昇による可能性が大である。
 それはあたかも、自然をすべからく人間的尺度のうちへと組み込もうとする試みと、そのうちには組み込まれることをあくまでも拒絶する他者としての自然の相克のようでもある。

           
 地震と津波、それによるフクイチの事故は、小川未明の童話、「赤い蝋燭と人魚」を想起させる。
 自然界にはそのままでは存在しない人魚姫の蝋燭(=原子力発電)を、悪徳香具師(=原子力ムラの住人)は商品化して儲けることを企む。その結果は荒ぶる海の復讐である。人魚姫を入れた鉄の檻(=フクイチ原発)は人間的尺度を超えた自然の猛威によって獰猛なガラクタと化した。人魚姫は大自然の海原へと取り戻され、人間の側には廃墟のみが残された。

         
 しかし、フクイチの廃墟は終わりのない廃墟であり、廃墟の廃墟として存続し続ける。それは、天界の火を盗んだプロメテウスへの罰であり、その事後処理はシジフォスの神話のように徒労のリフレインを余儀なくされるものといえる。
 増え続ける汚染水への対応はその貯蔵の限界との闘いである。防護服に身を包んだ分刻みでの撤去作業、そしてその防護服は、再び洗浄して使うことはできないまま、核汚染物としての堆積される。取り出した核制御棒、取り壊された汚染まみれの瓦礫の行く先は膨大な空間と人の生涯を遥かに凌駕する時間を占拠し続ける。

         
 人間的尺度での自然のほころびはそうした巨大プロジェクトの崩壊と破綻ばかりではなく、私たちの住まうところのすぐ近く、私たちの日常生活のうちにも見出すことができる。
 もはやその痕跡すら見いだせないほど「自然に還った」廃村の集落、放置されたままの都市の中の廃屋、郊外で耕作放置された田畑などなどが急増している。再利用や再開発の商品的尺度から見放された廃墟や廃屋、もはや前身が何であったかもわからない荒れ地などがそれである。ひたすら虚しく軒を連ね、開かずのシャッターが羅列する地方のかつての「繁華街」、商店街といわれた地域の荒廃もそれに加えていいであろう。

         
 かつて人間的尺度の自然として生み出された「私たちの世界」は、私たちがそこで住まう安定したインフラの集積として世代を超えて継承されてきた。
 しかしいまや、私たちの住まう世界は資源として投機の対象にしか過ぎず、その投機の拡散は人間的尺度の外部の自然、地球的規模、宇宙の一部をも対象とするに至った。生産性に名を借りた自然の投機的利用と、交換価値なき対象の一方的放擲とは、他方で、それら外部の自然からの逆襲にさらされている。
 地球的規模の汚染はそれに等しい地球的規模の厄災として結果しているし、既に見たように、一度は私たちの内部へ繰り込まれた自然の馴致は、投機の対象としての興味から解き放たれるや、荒ぶる自然へと回帰する。

 繰り返すが、私たちが思い浮かべることができる自然は、人間的尺度で飼いならされた自然である。先人たちが鋭意努力をして人間的な場へともたらした自然である。しかし、その外縁は、人間的尺度ではいかんともし難い荒ぶる自然の支配に委ねられていたし、いまもなおそうである。

 いま、人間はあくなき投機によって、その外縁をも侵しつつあるのだが、それは人間的尺度を超えた自然によって逆襲されつつあるばかりか、伝統的な人間的世界の内側に、荒ぶる自然を呼び込みつつあるようだ。
 人間的尺度を超えた自然、それは「モノ自体」にも似ていて、私たちの認識と行為の限界を示している。

コメント
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