いわゆる飲み屋や飲み屋街が存続の危機にあえいでいる。
もうとっくに廃業に追い込まれたところもあるし、今年ダメだった分をこの年末でと意気込んでいた店も、そのマイナスを取り返すどころか、客足が遠のいたままという惨憺たる有様である。
この年末を期しての廃業・倒産が、またどっと増えるであろう。
その業界の一端に位置し、30年間それでおまんまを食わせてもらった私としては、他人事とは思えず、激しく胸が痛む。そのせいか、最近は居酒屋時代の夢をよく見る。
私は、カウンターで焼き物を担当しながら、接客をしていた。
昼間の労働の疲れを癒やし、ついでに愚痴や上司批判をこぼすひと、侃々諤々、天下国家を論じる人たち、その横で痴話喧嘩をするカップル・・・・これらのなかで、私は多くを学んだ。いわば、考現学的人間の諸様相が展開されるその真っ只中で毎日を過ごしたのだ。
そうした飲み屋全体が危機に瀕している。
ここ何年か、私自身が客として高校時代の同級生と年に数回は通っていた昭和レトロを思わせる店も、4月に「諸般の状況からしばらく休業します」との張り紙を残してシャッターを閉めたままだ。
しばらくが師走に至り、その張り紙も変色し、木枯らしにはためいている。
年が明けて、コロナ禍が収束したら、運良くここを通過し得た店や、廃業した店の代わりの新規参入店で飲み屋街の灯りは復活するかもしれない。
しかし、ここにもうひとつの問題がある。
店の営業はいまのような規制から解放されて自由になるだろう。しかし、それに呼応して、客足が戻るかどうかである。
というのは、この間、推奨された「家飲み」、「リモート飲み会」などが主流になって、飲み屋街へ顧客が戻らない可能性があるからだ。ようするに、飲み屋というのは、お上のお達しのように不要不急のもので、あるいはもっとも不要なものであるとの位置づけが普遍化する可能性もあるのだ。
これまでの歴史の中でも、何かの契機である業態が衰退することはよくあった。TVの普及は映画を娯楽の王座から引きずり下ろしたし、ネットの普及は多くのものを、たとえばCDなどの音楽記録媒体をも駆逐しつつある。総じて、デジタル文化はアナログのそれを一掃しつつあるし、より進んだデジタルが初期のデジタルを追いやっている。
その場合の価値基準はいうまでもなく効率だ。
飲み屋街の存在も、この間の事態のなかで、その効率性からして不要なもの、なくていいものに格下げされるのではないか。
もちろんそうならないことを願ってこれを書いている。生産と流通、消費の合理化、効率化のみが世の中の唯一の価値基準として称揚され、その周辺の雑然たるものの存続が危ういなんて、味も素っ気もないではないか。
飲み屋街の存在を、ことさら文化として持ち上げるつもりはない。しかし、世の中の顔つきが効率一辺倒で険しくなる折から、その僅かな間隙に存在し、たてまえとは異なる空気を吸わせてくれる場所としてのそれらを擁護し続けたいと思うのだ。
*ちょっと恥ずかしいが、三十数年前の私の写真を載せる。客同士が、そしてときには私自身が、さまざまな思いをクロスさせることができたとてもいい時代であった。それを反映しているのがこの笑顔だと思う。