ある人のお見舞いに長良川の向こうにある病院に行った際、忠節橋という橋を渡りました。
軍人勅諭の「一(ひとつ)軍人は忠節を尽すを本分とすべし」を思い起こさせる名前ですが、地元の人は慣れてしまっているようです。
ちなみに岐阜駅からまっすぐ北へ向かう道は、戦前、「凱旋通り」と呼ばれていましたが、さすがにそれではと敗戦後、「平和通り」になりました。
ところが近年の無機的な機能本意のネーミングの煽りで、その通りは「金華橋通り」に変えられてしまいました。ようするに、この道を行くと長良川にかかるどの橋に至るかということなのですが、なんかおせっかいな名付けですね。
結果として市内を走る大きな三本の道は、長良橋通り、金華橋通り、忠節橋通りになったというわけです。
で、冒頭に戻りますと、私はこのうちの忠節橋通りを北上したことになります。
この忠節橋にはいろいろ思い出があります。
1948年、まだまだ物資不足の折から、敗戦後、国内では最初に架けられた鋼鉄製の橋だとして、華々しいお披露目の行事が行われました。そのなかに、戦前から途絶えていた花火大会があったのです。
当時、まだ大垣の郊外へ疎開していた小学4年生の私も、大人たちに連れられてそれを観に行きました。戦時中はもちろん花火大会などは行われませんでしたから、物心ついてから私が観た初めての花火でした。
それから時は飛んで高校生になった折、この橋をわたって自転車通学をすることになりました。春も夏も、そして秋も雨降り以外は長良川の川面を見下ろしながらの快適な通学でした。
しかし冬は大変です。川下に見える伊吹山の方角から吹きつけるいわゆる伊吹おろしは、容赦なく自転車を押し戻すのでした。
あの折り、歯を食いしばって自転車を漕ぎ続けていた少年は、いったいどこへ向かおうとしていたのでしょう。
いま考えると、幾分のナルシシズムをも交えてなんだかいとおしくなります。
彼の行く末が現在の私だと知ったら、さぞかしがっかりすることでしょうね。
やはり高校生の頃、この橋の袂で同級生の女性とデイトをしたことがあります。
しかし、ただ黙って歩くのみでどうして良いのかわかりません。
青臭いことを書いた手紙も一、二度交わしたかも知れません。
あるとき、彼女が、その頃強かった野球部の選手と肩を並べて歩いているのを見かけ、私は身を引きました。というより、しっかり振られたわけです。
20年ほど前、その女性から突然電話がありました。
少し胸がときめきましたが、ようするに証券ウーマンになっていた彼女からの出資のお誘いでした。
運用するほどのお金もありませんし、それに、そもそも投資といったことに関心がありませんのでと、丁重にお断りしました。
昔のほろ苦い思い出に惹かれて、彼女のいうように投資に踏み切っていたら、その後の日本経済の破綻のなかで損害をこうむること必至でした。「ほろ苦い」思い出があわや「ドロドロの」思い出に変わるところでした。
その野球部の選手とはその後ひょんな事で再会し、それなりに付き合いがあったのですが、先年鬼籍に入ったようです。私の二倍は長生きしても不思議ではないような頑丈な男でしたが。
これのみネットから拝借。路面電車がまだあった頃。後ろの雪をかぶった山は伊吹山
忠節橋に戻りましょう。
私は一度、ここで死んだことがあります。
夏休みの一日、私は友人とともにこの橋の袂へ泳ぎに行きました。
暑いい日とあってかなりの人たちが泳いでいました。
家からは数キロ離れていますので、あまり遅くならないうちに引き上げ、それでもなんとなく道草などしながら帰宅すると、父母が出てきて大騒ぎです。母などは涙・涙・涙といった有様です。
事情を聞くと、私たちが帰ったあと、そこで同じ年頃の少年が溺死し、それを見た他の少年(私と同じ高校の生徒)がその死者を私であると証言したのだそうです。たぶん死者の背格好が私に似ていて、しかも私がその場にいたことを見ていたからでしょう。
で、担任のところに連絡があり、その担任がつい今しがた、その悲報をもって訪れたというわけです。
私が知らない間に私はこの世から除籍されそうになっていたのです。
させてはならじと、私は逆に担任の家へと駆けつけました。
携帯はおろか、電話もろくすっぽない時代の話です。
皮肉なことにその担任の家は忠節橋の向こう側でした。ですから私は、自分の死亡現場を通ってそこへと向かったのでした。
担任の家についたのはもう夕闇が迫る頃でした。
施錠などしていない玄関の戸をガラガラッと開け、「こんばんは」といって入りました。
「は~い」と返事があって顔見知りの奥さんが出てきました。
そして、私の顔を見るなりその場にヘナヘナヘナと崩れ落ちました。
まあ、黄昏時に死んだはずだよお富さんがいきなり現れたのですから無理もありません。
今度は私のほうが慌てました。
「お、お、奥さん、私は生きています」
と、私。なんというセリフでしょう。
(後で、奥さんから生涯であれほど驚いたことはないと聞きました)
正気に戻った奥さんから聞いたところ、私の死に伴う緊急の打ち合わせのため、担任は学校へ行っているとのこと。
私も慌ててすぐ近くの学校へ駆けつけました。
その頃にはどうやら人違いらしいということが判明したようで、職員室へいってももう誰も驚きませんでした。
教員たちから「人騒がせなやつだな」といった視線が浴びせかけられたのですが、そんなことは私の知ったことではありません。
担任はボソリと、「お前でなくてよかった」といってくれました。
その担任は、商売人には学問はいらぬと進学を認めなかった父を説得してくれ、大学への道を開いてくれた人ですが、やはり近年、ひっそりと亡くなられました。
遺言で人には知らせるなとのことだったようで、私が知ったのもずいぶん後になってからでした。
いかにも頑丈で無骨ともいう風情のこの橋を久しぶりに通り、そこはかとない思い出が沸き上がってきたので、それを書きとめてみました。
思えば、この橋ができてから64年間の付き合いですから、いろいろあっても不思議ではありません。
これが私の忠節橋物語です。
軍人勅諭の「一(ひとつ)軍人は忠節を尽すを本分とすべし」を思い起こさせる名前ですが、地元の人は慣れてしまっているようです。
ちなみに岐阜駅からまっすぐ北へ向かう道は、戦前、「凱旋通り」と呼ばれていましたが、さすがにそれではと敗戦後、「平和通り」になりました。
ところが近年の無機的な機能本意のネーミングの煽りで、その通りは「金華橋通り」に変えられてしまいました。ようするに、この道を行くと長良川にかかるどの橋に至るかということなのですが、なんかおせっかいな名付けですね。
結果として市内を走る大きな三本の道は、長良橋通り、金華橋通り、忠節橋通りになったというわけです。
で、冒頭に戻りますと、私はこのうちの忠節橋通りを北上したことになります。
この忠節橋にはいろいろ思い出があります。
1948年、まだまだ物資不足の折から、敗戦後、国内では最初に架けられた鋼鉄製の橋だとして、華々しいお披露目の行事が行われました。そのなかに、戦前から途絶えていた花火大会があったのです。
当時、まだ大垣の郊外へ疎開していた小学4年生の私も、大人たちに連れられてそれを観に行きました。戦時中はもちろん花火大会などは行われませんでしたから、物心ついてから私が観た初めての花火でした。
それから時は飛んで高校生になった折、この橋をわたって自転車通学をすることになりました。春も夏も、そして秋も雨降り以外は長良川の川面を見下ろしながらの快適な通学でした。
しかし冬は大変です。川下に見える伊吹山の方角から吹きつけるいわゆる伊吹おろしは、容赦なく自転車を押し戻すのでした。
あの折り、歯を食いしばって自転車を漕ぎ続けていた少年は、いったいどこへ向かおうとしていたのでしょう。
いま考えると、幾分のナルシシズムをも交えてなんだかいとおしくなります。
彼の行く末が現在の私だと知ったら、さぞかしがっかりすることでしょうね。
やはり高校生の頃、この橋の袂で同級生の女性とデイトをしたことがあります。
しかし、ただ黙って歩くのみでどうして良いのかわかりません。
青臭いことを書いた手紙も一、二度交わしたかも知れません。
あるとき、彼女が、その頃強かった野球部の選手と肩を並べて歩いているのを見かけ、私は身を引きました。というより、しっかり振られたわけです。
20年ほど前、その女性から突然電話がありました。
少し胸がときめきましたが、ようするに証券ウーマンになっていた彼女からの出資のお誘いでした。
運用するほどのお金もありませんし、それに、そもそも投資といったことに関心がありませんのでと、丁重にお断りしました。
昔のほろ苦い思い出に惹かれて、彼女のいうように投資に踏み切っていたら、その後の日本経済の破綻のなかで損害をこうむること必至でした。「ほろ苦い」思い出があわや「ドロドロの」思い出に変わるところでした。
その野球部の選手とはその後ひょんな事で再会し、それなりに付き合いがあったのですが、先年鬼籍に入ったようです。私の二倍は長生きしても不思議ではないような頑丈な男でしたが。
これのみネットから拝借。路面電車がまだあった頃。後ろの雪をかぶった山は伊吹山
忠節橋に戻りましょう。
私は一度、ここで死んだことがあります。
夏休みの一日、私は友人とともにこの橋の袂へ泳ぎに行きました。
暑いい日とあってかなりの人たちが泳いでいました。
家からは数キロ離れていますので、あまり遅くならないうちに引き上げ、それでもなんとなく道草などしながら帰宅すると、父母が出てきて大騒ぎです。母などは涙・涙・涙といった有様です。
事情を聞くと、私たちが帰ったあと、そこで同じ年頃の少年が溺死し、それを見た他の少年(私と同じ高校の生徒)がその死者を私であると証言したのだそうです。たぶん死者の背格好が私に似ていて、しかも私がその場にいたことを見ていたからでしょう。
で、担任のところに連絡があり、その担任がつい今しがた、その悲報をもって訪れたというわけです。
私が知らない間に私はこの世から除籍されそうになっていたのです。
させてはならじと、私は逆に担任の家へと駆けつけました。
携帯はおろか、電話もろくすっぽない時代の話です。
皮肉なことにその担任の家は忠節橋の向こう側でした。ですから私は、自分の死亡現場を通ってそこへと向かったのでした。
担任の家についたのはもう夕闇が迫る頃でした。
施錠などしていない玄関の戸をガラガラッと開け、「こんばんは」といって入りました。
「は~い」と返事があって顔見知りの奥さんが出てきました。
そして、私の顔を見るなりその場にヘナヘナヘナと崩れ落ちました。
まあ、黄昏時に死んだはずだよお富さんがいきなり現れたのですから無理もありません。
今度は私のほうが慌てました。
「お、お、奥さん、私は生きています」
と、私。なんというセリフでしょう。
(後で、奥さんから生涯であれほど驚いたことはないと聞きました)
正気に戻った奥さんから聞いたところ、私の死に伴う緊急の打ち合わせのため、担任は学校へ行っているとのこと。
私も慌ててすぐ近くの学校へ駆けつけました。
その頃にはどうやら人違いらしいということが判明したようで、職員室へいってももう誰も驚きませんでした。
教員たちから「人騒がせなやつだな」といった視線が浴びせかけられたのですが、そんなことは私の知ったことではありません。
担任はボソリと、「お前でなくてよかった」といってくれました。
その担任は、商売人には学問はいらぬと進学を認めなかった父を説得してくれ、大学への道を開いてくれた人ですが、やはり近年、ひっそりと亡くなられました。
遺言で人には知らせるなとのことだったようで、私が知ったのもずいぶん後になってからでした。
いかにも頑丈で無骨ともいう風情のこの橋を久しぶりに通り、そこはかとない思い出が沸き上がってきたので、それを書きとめてみました。
思えば、この橋ができてから64年間の付き合いですから、いろいろあっても不思議ではありません。
これが私の忠節橋物語です。