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【小説を読む】水村美苗『本格小説』

2012-11-20 02:09:56 | 書評
 水村美苗の『本格小説』を読み終えた。
 彼女の日本語論(『日本語が亡びるとき』)に刺激を受け、その余勢で『私小説 from left to right』を読み、さらに触手を伸ばしたのがこの小説だった。

        
 
 この小説はいわば三重の入れ子構造をとっている。
 作者と思しき女性へ語る青年の話、そしてその青年に語る土屋冨美子の話、そしてその冨美子が語る上流階級の一族の命運である。
 その諸関連は錯綜とした面もあるが、作者のストーリー・テラーとしての巧みさもあって破綻はない。

 なぜこんな複雑な構造をとらねばならないのだろうかと思いながら読み進んだのだが、最後の最後、それまでもっぱら語り手の側にあった冨美子自身が物語の対象となるに至ってなるほどと思うこととなる。

 この、冨美子の語り手から対象への変化は、同時にこの小説のある種のどんでん返しにもなっているのだが、作者は周到にそれを随所に匂わせている。
 私はそうした状況があったに違いないと、それを嗅ぎ取りながら読み続けていたのだが、むろん、その様相が具体的にどうであったかのイメージはなかった。しかし、そこにいたって、その模様があまりにも俗っぽく描かれていていささかか鼻白んだりもした。

 詳しくは述べないが、内容のの大半は、私より少し上の世代の戦前、戦中、戦後の上流階級の物語で、その栄華と没落の過程は、この小説の中でも語られているがチェーホフを思わせるし、少し状況は異なるが太宰の『斜陽』をも思わせる。
 そうしたなかで、単純に純愛ともいってしまえないようなラブ・ストーリーが展開されるのだが、それに付きそうような冨美子の物語だとだけいっておこう。

             

 あえて付け加えれば、この小説の舞台はすでに述べたように上流階級の生態が主ではあるが、それに対峙する者として、語り手の冨美子と、そしてラブロマンスの一方の人物・太郎を挙げることができる。
 この二人の共通点は、対照的に下層の出身であり、聡明ではあったにもかかわらず中学校という義務教育課程を終えただけだという点である。そして、にもかかわらず、現実的な生活能力は抜群だということだ。
 それを考えると、ラストに明かされる事実はむしろ当然のことなのかも知れない。

 なお、脇役ではあるが、作中の人物で魅力的なのは、ラブロマンスの一方の相手、よう子の祖母である。芸者上がりの後妻ということで、日常では遠慮がちでただその優しさが目立つのみなのだが、ここぞという時の決断、そしてその凛とした立ち居振る舞いは快哉と叫びたくなるような小気味よさなのだ。

 この少し奇異ともいえる物語を語るにふさわしい作者の文体に導かれて、その終局にまで誘われるのだが、正直にいって私に訪れたのはある種の虚脱感であった。それはその小説の内容がもたらしたものでもあったが、同時に、作者の日本語論から出発してここに至った私自身の過程が、何やらここで切断されたような気がしたのだ。
 まあ、おそらく私の小説というものへのアプローチの仕方が特殊で、たぶんに道を誤っているからだろう。
 この点についてはもう少し考えてみたい。

 それはともかく、上下二巻の大著だがその展開が待ち遠しく、ページを繰る手がつい早くなる様な面白さではある。

                

 余談だが、作中の主人公格である東太郎には実在のモデルが存在する。
 作者の父が、今や何かと問題のオリンパスのアメリカ駐在所長の折、中卒の組立工としてその部下に採用され、やがて独立して起業し、アメリカで巨万の富を得たとして話題になった人である。
 彼の自伝は『中卒の組立工、NYの億万長者になる。』(2010 角川書店)として出版されていて、そのなかには、ニューヨーク滞在中の水村一家についての実像も語られているようだ。

 もちろん彼がその後半生において、この小説のような数奇な運命をたどったわけではないが、にわかには信じられないような巨額の富を築いたのは小説同様、事実であるようだ。
 

なお、私が興味を持った日本語と日本近代文学、それに「私小説」と「本格小説」の問題については作者自身が上巻の「本格小説が始まる前の長い長い話」の終わりの方、170~176ページにわたって(私の読んだのは文庫版ではなく初版のハードカバー版)一般読者むけというより批評家向けに述べている部分があるが、煩雑になるのであえてそれには触れない。

 

コメント (2)
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