ある一行とともに錦秋の旧徳山村へ行った。
もう徳山村は跡形も無い。あるのは徳山ダムとその人造湖のみである。
にもかかわらず、「徳山ダムへ行った」とは言いたくない。
ここは私にとっては徳山村なのだ。
徳山ダム放水口
徳山村という名がが消滅してから今年で25年になる。
かつて、本郷・下開田・上開田・山手・漆原・塚・戸入・門入の八つの集落からなっていた徳山村が、今では全村膨大なダム湖の下で眠っている。
Googleの地図で徳山村と検索するともはやここは出てこない。
代わりに中華人民共和国四川省の徳山村がヒットするばかりだ。
それでも私にとってはここが徳山村なのだ。
その理由はいくつかある。
ひとつは今を去ること四十数年ほど前、徳山村を何度か訪れていたからだ。
アマゴやイワナを追いかけてではあったが、渓の情報を聞くためにしばしば村人とも会話を交わした。
その頃は、ダムの話はまだうっすらで、それほど現実味を帯びていなかったのではないだろうか。
もちろん工事などはまったく行われておらず、村人たちは「ここの」現実のなかで生きていたように思う。
今一つは、そのダム建設が私には腑に落ちなかったからだ。
といっても最初からそうであったわけではない。
縁あって長良川河口堰に反対する人たちと知り合い、ほんの少しだがそれと関わりをもつなかで、お隣の揖斐川水系のこのダムについても学んだという次第である。
実はこのダムのすぐ下流に1964年に横山ダムが完成していたのだが、それが完成しないうちに、それでは不十分だとして計画されたのが徳山ダムである。
ときあたかも毎年20%の経済成長が当たり前という、現在の中国のような高度成長期であった。
しかし、このダムがいよいよ着工しようとする折には、もはや誰が見てもその必要性がなくなっていたにもかかわらず、いろいろ用途を変更したりしながらも、当時の建設省はその意地を通したのだった。
さまざまな紆余曲折を経てこのダムは完成したのだが、3,800億円を要したにもかかわらず、予想通りその用途は今もなおはっきりせず、巨大な水たまりのままである。そして、休日などには「観光放水」という吉本興業もびっくりのショーを展開するに至っている。
それのみではない。この水たまりの「活用」法として、ここにためた水を長良川水系、木曽川水系へ導水しようという計画が持ち上がっているのだ。
ダムの底の、いわゆる死水といわれる酸素も少ない冷たい水が、現に生きている河川に導かれるとすれば、その河川の生態系に甚大な損害をもたらすであろうことは誰にでもわかる理屈である。
しかもである、その導水路建設のためにさらに1,000億から2,000億に至る金を使おうというわけである。
不要なものを作っておいて、その無駄を解消すると称してさらに金をかすめようとするのだから、「泥棒に追い銭」とはまさにこのことである。
かくて徳山ダムは、土建屋行政の腐敗の実態を示すモニュメントとしてのみ意味をもち、そこに横たわってている。
もうひとつ、徳山村にこだわるのは、ここが、このブログにも時折コメントを付けていただいている私の先達「冠山さん」の故郷であり、村が生きていた時代のお話を聞いたり、その著書に触れたりしているからである。
それによれば、同じ岐阜県でも極めて独自性のある山村特有の文化や伝統をもっていて、しかもそれが、さして広くない村内にある八つの集落ごとに微妙に違っていたというのだ。
その民俗学的にも豊かな側面が明らかになり、多くの学者などの注目を集めるようになったのが、まさにこの村が消滅する時期であったというのはなんとも皮肉な話である。
露呈した旧徳山村の道路や橋
かくして私が無造作に訪れていた村落が秘めていた深い歴史や文化は、まるまる、しかも無為に水中に没することとなったのである。
こんなわけで、私にとっては今もここは徳山村なのである。
しかし、この周辺の自然は美しい。「ひとはいざ心も知らず故郷は」である。
今回は、国道417号線をダムサイトに沿って北上し、「冠山」さんのいた集落、漆原(しつはら)も過ぎて、シタ谷やヒン谷が合流し、ここからさきは林道という地点にまで行った。
ここまで来るとダムの水も細り、旧村落を結んでいた道や橋などが露呈している箇所もあって、かつての集落などの存在を否が応でも思い起こさせ、人造湖特有の悲哀のようなものを覚えずにはいられない。
冠山 この向こうはもう福井県
山々は錦の綴織を湖面に映しあくまでも艶やかで、その湖面は秋風にさざめく美しい波紋に満ちていた。
そしてこの辺りからは、そう、「冠山」さんがそのハンドル・ネームをとった本物の冠山がくっきりと見て取れた。
その山の傍ら、冠峠を越えると向こうは福井県である。
こちら側は快晴であったが、天気予報でいっていたように日本海側は天気が崩れているらしく、冠山の向こうの空を厚手の雲が覆っていた。
<photo src="v2:1823622160"> <photo src="v2:1823622159">
そこで引き返したのだが、揖斐川沿いに下り岐阜に至る一帯は富有柿の産地で、ほっこりと明るい柿の実が傾きつつある夕日を浴びてつややかに輝いていた。
これもまた、美濃路の秋の色彩といえよう。
日が落ちるのと、岐阜へ着くのはほとんど同時であった。
もう徳山村は跡形も無い。あるのは徳山ダムとその人造湖のみである。
にもかかわらず、「徳山ダムへ行った」とは言いたくない。
ここは私にとっては徳山村なのだ。
徳山ダム放水口
徳山村という名がが消滅してから今年で25年になる。
かつて、本郷・下開田・上開田・山手・漆原・塚・戸入・門入の八つの集落からなっていた徳山村が、今では全村膨大なダム湖の下で眠っている。
Googleの地図で徳山村と検索するともはやここは出てこない。
代わりに中華人民共和国四川省の徳山村がヒットするばかりだ。
それでも私にとってはここが徳山村なのだ。
その理由はいくつかある。
ひとつは今を去ること四十数年ほど前、徳山村を何度か訪れていたからだ。
アマゴやイワナを追いかけてではあったが、渓の情報を聞くためにしばしば村人とも会話を交わした。
その頃は、ダムの話はまだうっすらで、それほど現実味を帯びていなかったのではないだろうか。
もちろん工事などはまったく行われておらず、村人たちは「ここの」現実のなかで生きていたように思う。
今一つは、そのダム建設が私には腑に落ちなかったからだ。
といっても最初からそうであったわけではない。
縁あって長良川河口堰に反対する人たちと知り合い、ほんの少しだがそれと関わりをもつなかで、お隣の揖斐川水系のこのダムについても学んだという次第である。
実はこのダムのすぐ下流に1964年に横山ダムが完成していたのだが、それが完成しないうちに、それでは不十分だとして計画されたのが徳山ダムである。
ときあたかも毎年20%の経済成長が当たり前という、現在の中国のような高度成長期であった。
しかし、このダムがいよいよ着工しようとする折には、もはや誰が見てもその必要性がなくなっていたにもかかわらず、いろいろ用途を変更したりしながらも、当時の建設省はその意地を通したのだった。
さまざまな紆余曲折を経てこのダムは完成したのだが、3,800億円を要したにもかかわらず、予想通りその用途は今もなおはっきりせず、巨大な水たまりのままである。そして、休日などには「観光放水」という吉本興業もびっくりのショーを展開するに至っている。
それのみではない。この水たまりの「活用」法として、ここにためた水を長良川水系、木曽川水系へ導水しようという計画が持ち上がっているのだ。
ダムの底の、いわゆる死水といわれる酸素も少ない冷たい水が、現に生きている河川に導かれるとすれば、その河川の生態系に甚大な損害をもたらすであろうことは誰にでもわかる理屈である。
しかもである、その導水路建設のためにさらに1,000億から2,000億に至る金を使おうというわけである。
不要なものを作っておいて、その無駄を解消すると称してさらに金をかすめようとするのだから、「泥棒に追い銭」とはまさにこのことである。
かくて徳山ダムは、土建屋行政の腐敗の実態を示すモニュメントとしてのみ意味をもち、そこに横たわってている。
もうひとつ、徳山村にこだわるのは、ここが、このブログにも時折コメントを付けていただいている私の先達「冠山さん」の故郷であり、村が生きていた時代のお話を聞いたり、その著書に触れたりしているからである。
それによれば、同じ岐阜県でも極めて独自性のある山村特有の文化や伝統をもっていて、しかもそれが、さして広くない村内にある八つの集落ごとに微妙に違っていたというのだ。
その民俗学的にも豊かな側面が明らかになり、多くの学者などの注目を集めるようになったのが、まさにこの村が消滅する時期であったというのはなんとも皮肉な話である。
露呈した旧徳山村の道路や橋
かくして私が無造作に訪れていた村落が秘めていた深い歴史や文化は、まるまる、しかも無為に水中に没することとなったのである。
こんなわけで、私にとっては今もここは徳山村なのである。
しかし、この周辺の自然は美しい。「ひとはいざ心も知らず故郷は」である。
今回は、国道417号線をダムサイトに沿って北上し、「冠山」さんのいた集落、漆原(しつはら)も過ぎて、シタ谷やヒン谷が合流し、ここからさきは林道という地点にまで行った。
ここまで来るとダムの水も細り、旧村落を結んでいた道や橋などが露呈している箇所もあって、かつての集落などの存在を否が応でも思い起こさせ、人造湖特有の悲哀のようなものを覚えずにはいられない。
冠山 この向こうはもう福井県
山々は錦の綴織を湖面に映しあくまでも艶やかで、その湖面は秋風にさざめく美しい波紋に満ちていた。
そしてこの辺りからは、そう、「冠山」さんがそのハンドル・ネームをとった本物の冠山がくっきりと見て取れた。
その山の傍ら、冠峠を越えると向こうは福井県である。
こちら側は快晴であったが、天気予報でいっていたように日本海側は天気が崩れているらしく、冠山の向こうの空を厚手の雲が覆っていた。
<photo src="v2:1823622160"> <photo src="v2:1823622159">
そこで引き返したのだが、揖斐川沿いに下り岐阜に至る一帯は富有柿の産地で、ほっこりと明るい柿の実が傾きつつある夕日を浴びてつややかに輝いていた。
これもまた、美濃路の秋の色彩といえよう。
日が落ちるのと、岐阜へ着くのはほとんど同時であった。