<承前>
これは私の偏見だが、私小説というものはプロットを欠いていて身辺雑記のようなことどもを文体だけで延々と読ませ、よって書き手の内面のようなものを忖度せよと強要されているようで、したがってこれまでほとんど読んではこなかった。
しかし、この水村さんの小説は、真正面から「私小説」と銘打ったもので、事実シュチエーションとしてはたった一日のある女性の独白ともいうべき語りといえる。
具体的には作者自身とおぼしき主人公とその姉との電話を通じての会話、そしてそこに挿入される様々な回想シーンから成り立っている。
この姉妹は、父のアメリカ転勤などによって20年間にわたってアメリカに在住していて、当然のこととしてバイリンガルであり、しかも交友関係がアメリカを舞台としているとあって、二人の間での会話にも、そして他の人物との会話にも英語が出てくるのは必然なのである。そしてここに、それが横書きにされる必然性もあるといえる。
彼女の日本語論からいって、それを英語に適用した場合、やはり英語でしか表現できないニュアンスがあるということだろうか。ただし、あくまでも日本語の小説であるから、すでに述べたように難解な英語は回避されている。
さて、こうしたニューヨークの彼女の部屋での雪のある一日の、あえて出来事ともいえないことがらが記述されているのだが、それがまた、大変な時空の広がりを持った物語として紡ぎだされていて、その意味では私の偏見のうちににある「私小説」をはるかに凌駕しているといえる。
彼女のうちで当初は日本とアメリカという軸で思考されてきたものが、アメリカ人から見れば、コリアンもチャイニーズも同様ということから、日本人としてのアイディンティティ・クライシスにいたり、やがては、東洋と西洋、白人と有色人種、さらには白人や有色人種内での差異などを「認識」(彼女の言葉)してゆくくだりは、身辺雑記をはるかに越えて、インターナショナルというかトランスナショナルというか地球大の広がりを持つに至っている。
それらを混じえて、この物語では姉との間でのあるひとつの問題が進行してゆくのだが、その展開は限定された状況下にもかかわらずとてもドラマティカルで、次のページを捲るのに胸が騒ぐほどなのである。
そうそう、私がこの本を手にするに至った動機、『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』という評論の中で彼女が述べていた日本語論が、彼女自身の小説のなかでどう作用しているかという好奇心の結末について触れねばならないだろう。
彼女がその評論のなかで語っていたのは、日本語で書かれた「読まれるべき言葉」を読もうとする者はより日本語に習熟すべきだということであったが、なんとこの横書きの英語混じりの小説のなかで、彼女はそれを見事にやってのけているのだ。
また、この小説のなかで志向されている「日本語で小説を書く」という決意の中にもそれを見ることができる。
評論が書かれたのは2008年であるが、この小説はそれに先立つ13年前、1995年の刊行である。とすればその評論は、あらためての論述というより、むしろ彼女がその創作のなかで実践してきたことの集大成であり、しかもこの小説のなかで彼女が語るように、異国の地で日本の近代文学を読みふけり、日本語そのものを再認識し、しかもそれを内面の問題に留めるだけではなく、他の言語、民族、人種、歴史、文化との格闘のなかで練りあげてきた彼女自身の立ち位置を示すものであったといえる。
しかもそれは、先にみたように実に広い視野によって支えられている。
それもそのはず、彼女は、ポストコロニアル批評家ガヤトリ・C・スピヴァクなどと並んで、イエール大学でのポール・ド・マン(1919~1983)の教え子なのであった。
この小説のなかで、「大教授」として登場するのがそのポール・ド・マンだと思われる。
まだ言い足りないのだが、またまた長くなりそうなのでこのへんにしよう。
あ、そうそう、この本にはところどころに堀口豊太氏の美しい写真が出てきて、英語混じりの文章で疲れた眼を慰めてくれる。
それからこれはどうでもいいことだが、主人公の姉がブラームスの言葉といい張る「Lonely but free」は、ブラームスの友人ヨアヒムの言葉で、この言葉を主題とした「F・A・Eソナタ forヨアヒム」という曲がシューマン、ブラームス、A・ディートリッヒ(シューマンの弟子)の3人の合作で存在する。F・A・Eとはドイツ語で「Frei aber einsam」(自由に、しかし孤独に)のことである。
これを読んで水村さんの他の作品も読みたくなったが、友人の「さんこさん」おすすめの『本格小説』は上下2巻で長そうだし、とりあえずは最新作の『新聞小説 母の遺産』(2012)でも読んでみようかと思っている。
この小説は、女系三代のお話らしいが、その三代にまつわるエピソードの片鱗は、私が読んだこの『私小説』の中でもときおり示唆されている。
彼女の小説は読みだすと面白くて止まらないようだ。他にしなければならないことがいっぱいあるのに困ったもんだ。